拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『半眼、眼差し』考〜(その2)

2024年01月12日 | 東洋自分なり研究所

  1月3日のブログで『半眼、眼差し考』を書いた。

  あれから一週間が過ぎ、『半眼の眼差し』・・・というのが、案外とても重要な事であることに思い至り、

  今後、当研究所で探究すべき課題とした。

 

  近くて遠い・・・、『仏教』は一般日本人においてそう言った位置づけではないだろうか。

  昔、若者であった私も、たまたま『禅』と出逢って仏縁ができたが、そうでなければ私の両親の『信心』が何であったのか知らず、

  家には仏壇すらなかった。 その点、今の若者とまったく同じであるなぁ〜と思ったりする。

 

  我々、日本人は一応『仏教』で終活(葬式)するようであるのに、その肝心の『仏教』が何であるのか・・・まったく『解らない』、

  それもいい歳を取ったオッサンやオバサンでも、解っていないという現実は、実に残念なことのように思う。

  『生老病死』という、人間であれば誰も避けることの出来ない大問題に立ち向かざるをえない時、『覚悟』をさせるのが『仏教』といえるだろうか。

  

  しかし、いざ『仏教』とは何か?・・・と勉強すると、すればするほど解らなくなるほど、仏教はいろいろな意味で煩雑で、解りにくいことも事実だ。

  そういった時に、仏像を訪ねて、『半眼の眼差し』の仏様に尋ねてみることだ。 『仏教とはなんですか?』・・・と。

  そこには宗派とか、経典とか仏教にまつわる細事の一切を排した『眼差し』で仏像は答えてくれるだろう。

  そこを入口にして、品格ある仏像の写真、或いは小さな仏像を購入し、10分でも20分でも自分も『半眼の眼差し』で共に坐ってみてはどうだろうか。

  

            

         私が高校生の時の自画像と美術の教科書にあった菩薩の模写像・・・『半眼、眼差し』の秘密は、自分がそれを体験しなければ解らなかったの図