拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『半眼、眼差し』考

2024年01月03日 | 東洋自分なり研究所

  日本人で『仏像』を見たことない人・・・現代では案外いるのかもしれない…(それを認めるのは驚愕ではあるが)。

 

  我が還暦スキャンでは、高校3年のとき、北海道の北見から汽車と連絡船などを乗り継ぎ、東京経由で奈良の大仏を見に行った事は覚えている。

  

            

  この写真は写真家を目指している頃、鎌倉の大仏を外人観光客を入れてスナップしたものであるが、

  奈良で初めて大仏を見た時の『私の心境』をよく写し出しているように思う。

  奈良にせよ、鎌倉にせよ、どれほど多くの人々がこれら仏像の『半眼の眼差し』を見上げたことであろうか・・・。

 

  私は今、思うのであるが、この『半眼の眼差し』との出会い・・・は、必ず人々の潜在意識に『公案(禅問答)』となっていると、確信する。

  私が初めてヨーロッパで、血だらけの十字架のキリスト像を見た時、ハッキリと『公案』であると認識したが、

  禅も何も知らない高校生の頃、私はこの写真の外人さんのように、ただ無心にこの『半眼の眼差し』を見上げたであろう。

  十字架のキリストほど劇的ではない、真反対のやり方、むしろ静謐な眼差し・・・こそが私の深い所にその意味を『問い』掛けていたことを思うのだ。

  

  だいぶ後に、私は坐禅で自分自身が『半眼の眼差し』をする事になった。・・・ここに、日本という文化の深遠なシステムを、私は今観る。

 

  仏像というのは、まさに禅の原理『不立文字・教外別伝・直指人心・涅槃寂静』そのままであるといえる。

  あとは、その『半眼の眼差し』の意味を自分自身に問い掛ける・・・だけなのではないだろうか。