『禅』は己事究明だという・・・。
臨済宗の祖師、臨済禅師は『無位の真人を観よ!』と言った。
サンスクリット語で書かれた『般若心経』経典を訳す時、鳩摩羅什は『観世音菩薩』と訳し玄奘法師は『観自在菩薩』と訳した。
この二人は言語に精通していたが、仏教徒としても相当なレベルであることは、彼らの漢訳を見ればわかる。
同じ意味を表すサンスクリット語を一人は『観世音』、一人は『観自在』と訳したが、おなじモノの表と裏のようなものだ。
『観世音』つまり『観音』は真の自己を映す『鏡』であり、その鏡で真の自己を観ることが『観自』で、その瞬間から
森羅万象(ミクロ=マクロ)を『観自在』に見透す者が『観自在菩薩』なのだ。
漢字在菩薩にとって『漢字』は『仏法』を解く方程式だ。
昔の祖師方は悟りの法を『漢字』に込めた『呪』、人を幸福にする『呪』として・・・
『悟り』は『 郷里サトリ=Home 』と馬骨は言う。何故なら『郷』の解字は で鏡に映っている『もう一人の自己』を観るから。
そして『郷』は『響』となって無我の人に『観音』として響く・・・その時初めて『観自己在』が現前し、『自他不二』=慈悲&智慧を解する。