拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  摩天楼は『バベルの塔』

2022年02月16日 | 観自在

  寺島実郎氏のもう一冊の本『人間と宗教ーあるいは日本人の心の基軸』を読了した。

  前回のブログで、彼の本が『私の顔に眼を付けてくれた…』というような事を書いたが、この一冊こそ、というべき内容であった。

 

  この本は、私の辞書に『ビジネス・政治・経済・歴史(内外)・社会学』・・・などが『皆無』であったことを改めて明確にし、

  これまで自分の中で言語化出来ずに、理解不能であった事柄を紐を解いて懇切丁寧に解説してくれているのがこの本であったと思う。

 

  名は体を表すと言うが、寺島実郎…の『実郎』という珍しい名前の如く、彼の『質実剛健』で虚飾を排する実直な人柄が書にあらわれる。

  本の前置きに『私自身は宗教者ではない。特定の宗教に帰依しているわけでもない。ビジネスと社会科学の世界を生きてきた人間である。

  その私が、仕事を通じて世界を動き回り、仕事における課題を解決するために現地の人たちと真剣に向き合ううちに、宗教への関心を深める

  ことになった。』・・・と始まる。

  ビジネス…とかほぼ無縁の私は、それに深く携わり、実地に積み上げた体験と、独自の『寺島文庫ビル』を立ち上げるほどの文献を読みこなした

  知の集積から発せられる『知恵』は『智慧』へと昇華した形で、寺島氏の『観自在力』によって導かれているようなのだ。

 

  まさに混迷の時代にあって、彼のような人物が日本に存在していることがどれほど幸運なことであるか!

  多摩大学の学長であるそうだが、そこの学生はその幸運を自覚しているであろうか?

  寺島氏自身は『無宗教』を自認しているが、禅者である鈴木大拙に強く共鳴しているのが印象に残った。

  『・・・大拙の「世界禅」は今日も新鮮さを失ってない。一方で東洋的な見方の価値を臆することなく主張し、他方で偏狭な自己主張を

  超えた客観性を求める大拙の視座こそ、今日我々に最も求められるものではないのか。「グローバリズム」という名のもとに進行する

  情報技術革新で武装したアメリカ化の潮流に対し、被害者意識からの安でのナショナリズムに陥ることなく、世界に説得力のある

  「日本らしさ」「東洋らしさ」を模索する時、大拙の足跡は示唆的である。』・・・などと指摘し、大拙に対する論稿を数ページに渡り書いている。

          

  この本の表紙は、フリューゲルの描いた有名な「バベルの塔」で、それは彼がニューヨーク勤務の時見上げた「摩天楼」に感じたという

  『人間社会の営為の可能性と限界こそが、バベルの塔のメッセージ』・・・であったとの述懐から由来しているようだ。

  その彼の感想は、ニューヨークに憧れて一大決心で移り住んだ私の感想でもあり、最終的に『禅の再修行』を促した、私にとって転換点となった

  出来事であった。上の写真は、その時に撮った『Goodbye New York 1986 』という未発表写真の表紙にしたいと思っている写真の図は

  その当時は自分に何が起こったのか、分からなくて路頭に迷った時期であったが、摩天楼がバベルの塔であると直感していたのだと思う。