拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 必撮無眼流 ~ 魂源

2016年05月15日 | 必撮無眼流
 先日、コンテンポラリー写真展の話をしたけど、そもそもボクは『コンテンポラリー』について何もしらない・・・というか、知りたくて調べよう
 という気が起こらないタイプの人間であるからこそ、『写真』と関わったのであろう・・・という意味で『視覚から得る感慨』こそが『写真の本質』
 であるべき・・・と思っている人のまま、コンテンポラリーと云われている写真を見たけど、さっぱりわからないというレベルより腹が立つレベル
 であったわけだ。

 そもそも、写真に『言葉』が干渉してくるところに、写真をダメにしている現代としての『コンテンポラリー写真』の存在・・・・とかなんとか
 書いている自分にすら面倒臭くて、洒落臭くて、気が短いボクは、書くことでより一層本質から遠ざかる馬鹿さ加減に気が滅入るのだ。『喝!』

 しかし、考えてみれば人にもいろいろあるように、写真にもいろいろあるわけであるからね~、自分がわからない・・・というだけで。

 写真は、19世紀だっけ?出来たの?それも西洋で?フランス人、ニエプスとかなんとかあたり。

 だけど、ボクが思うのは(薄識であるので知らないだけ、の可能性を前提)
 視覚から得た情景『瞬景』を『五七五』調でまとめた俳句こそ写真以前の写真スピリットの原型であるのでは、、、ないだろうか。
    『古池や 蛙飛び込む 水の音』・・・例えば。

 だとしたら、日本人こそ写真魂のよりよき理解者であり、それゆえにこそ写真機の開発情熱において世界に先駆けて・・・いる理由なのだ。と思うのである。

 結論~芸術としての写真というのは、人の生き様としての魂源から発生する感慨や魂源への探求という自己の『魂源』への往復旅路・・・という所に落ち着く。


         
         写真は知り合いの子供ユイちゃんの後ろ姿だけど、三歳ぐらい?で強烈な個性の持ち主
         この子を見た時、この個性というのは何処から来るのだろうか?・・・と思ったわけだ。