本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(16p~19p)

2016-01-04 08:30:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
に対する日、すなわち大正15年12月2日であることは直ぐに判る。つまり、通説では同日に賢治を見送ったのは「沢里武治がひとり」ということになっているが、その日に実は柳原も澤里と一緒に賢治を見送っていた、ということを同僚だった菊池氏に対して柳原が話したということになる。
 その後、菊池忠二氏から紹介していただいて同じく柳原と同僚だったT氏にもお会いすることができた。そしてT氏からも柳原の人となり等を教えもらって、柳原という人は極めて信頼に足る人だということをさらに私は確信できた。
 お聞きしたところによれば、T氏は仕事上のみならず、同氏の父と柳原が親しかったので公私ともにお世話になったと言う。そして、柳原は当時乗用車を持っていなかったがT氏はそれを持っていたので先輩柳原を乗せて賢治祭に出掛けたりするなど、私的な場面でも一緒に行動することが少なくなかったのだそうだ。そんな折に、柳原は控え目な性格なのだがたまに賢治のエピソード等をT氏に語ってくれたという。
 そこで満を持していた私はT氏に訊ねた。「下根子桜時代」の賢治の上京について、「実はあのとき俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのだ」ということを柳沢からお聞きなったことはございませんか、と。
 するとT氏は即座に「そんなことは聞いておりません」と返事した。ちょっとがっかりしたが、いや違う、これはまたこれで意味を持つのだと言うことに気付いた。
 柳原の証言の持つ意味
 というのは、柳原は先の証言「○柳」を誰彼の区別なく自慢げ
に吹聴していた訳ではなかった、ということをこのことから私は知ることができるからである。では、なぜ柳原はT氏には話さずに菊池氏だけには話したのかということについては、職場の同僚でありしかも熱心な賢治研究家でもある菊池氏に敬意を表し、かつ絆(ほだ)されて正直に話したということで説明が付く。
 このような思慮深い柳原のことだから、もしこの証言を出版物等において公にすれば「通説○現」は大きな矛盾を抱えてしまうということに当然気付いていたであろうから、先の証言「○柳」を公にすることを憚っていたに違いない。
 もしそんなことをすれば同級生の澤里の面目を潰すことになり、ひいては恩師賢治にも迷惑が掛かることになるかも知れぬということを柳原は危惧していたのだと私は推測する。柳原は、澤里とともに賢治から特に目を掛けられ可愛がられていたことを知っていたはずだからなおさらだったと思う。
 実際、賢治が澤里と柳原に特に目を掛け、可愛がっていたことは次の二つの事柄からも容易に窺える。その一つ目は、「文語詩篇ノート」の大正14年四月のメモとして
   四月 柳原、高橋組入学
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)537pより>
という記載があることからである。賢治はこの二人をこの年度の入学生の代表だと認識していたことが判る。
 その二つ目は、賢治から澤里武治に宛てた書簡「243」であり、その手紙の末尾に賢治は
   柳原君へも別に書きます。
<『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)15pより>
と書き添えていることからである。
 これらの二つの事柄から、賢治はとりわけ柳原と澤里に目を掛けていたということだけでなく、後者の添え書きからは澤里自身も、そして同じように柳原自身もことのほか賢治からは可愛がられ信頼されていたということをともに敏感に感じ取っていたであろうことも、また容易に汲み取れる。
 さらには、柳原の場合は例の「賢治からの最後の手紙」をもらったのは自分であるということも知っていたはずだから一入であったであろう。それゆえ、先にも述べたように柳原は証言
「○柳」を公にすることを憚っていたに違いない。しかし、実は
柳原がそのようなことを憚る必要は全くなかったのであり、その訳はこの拙書を読んでいってもらえれば納得していただけると思っている。また、そのことを訴えたいが為の本書でもある。
 驚きの註釈「*67」
 そんな柳原の証言を菊池忠二氏から教わった矢先に知った「新校本年譜」の註釈「*65」であったので、私は大変驚いたのであるが、同頁の註釈「*67」を見て、またまた驚いてしまった。その註釈には次のように
*67 セロを持ち上京する賢治を見送った高橋(のち沢里)の記憶の他に、柳原昌悦も同様の記憶をもっており、昭和二年にもう一度セロを習いに上京したことがあったかとも考えられるが、断定できない。
      <「新校本年譜」(筑摩書房)327pより>
と記述されていたからである。
 先の澤里の証言の方は理由も明らかにせずに日にちは変えて別の日と断定しているのに、柳原のこのような証言については「断定できない」という。これでは断定の仕方に公平さが欠けているのではなかろうか。
 そしてそもそも、「柳原昌悦も同様の記憶をもっており」と記述していながらその出典は明らかにしていない。ちょっと思わせぶりだと言われないだろうか。
 新校本全集十五巻校異篇の註釈
 実は、この「*67」の末尾には次の一言、
  本全集一五巻校異篇一二三頁*5参照
が続いている。
 そこで、もしかすると柳原の「記憶」の出典等がそれこそそこに明記されているのではなかろうかと期待しつつ、指定の頁を見ると次のようなことが記されていた。
それは本来は 宮澤政次郎宛書簡「221」の中の「新交響楽協会」ついての註釈であり、例の「三日間のチェロの特訓」に関連するものであった。
*5 新交響楽協会……新交響楽団。大正十四年三月に山田耕筰・近衛秀麿らによって結成された日本交響楽協会は、十五年九月早くも分裂し、十月五日近衛は新交響楽団を結成。練習所は東京コンサーヴァトリー。大津散浪(三郎の筆名)「私の生徒 宮沢賢治~三日間セロを教えた話~」(「音楽之友」昭和二十七年一月号)によれば、賢治はこの上京時、同楽団のチェリスト大津三郎に頼んで江原郡調布村字嶺の大津宅に通い、三日間早朝二時間のチェロのレッスンを受けた。ただしこれは、大津の夫人つや子の記憶では、次女誕生の後で昭和二年のことであったかもという。さらに沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつのに対し、柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている。これらのことから、チェロを習いに上京したことが、昭和二年にもう一度あったとも考えられるが、断定できない。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』
(筑摩書房)123pより>
 ということで、実質的には先の「*67」の内容と似たり寄ったりでなおかつ出典も明らかにされていなかったので、私はちょっと肩すかしを食ってしまった感じがした。
 二人の教え子の「記憶」
 それはそれとしても、新たに驚いてしまったことが二つそこにはあった。そのまず第一は
 沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつ
の部分にである。
 一体この「記憶」の出典は何なんだろうか。私の管見故か、そのような証言や資料は聞いたことも見たこともない。私が知る限りにおいては
 どう考えても昭和二年十一月頃のような気がするが、その十一月の霙の降る寒い日に、「澤里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ」と言い残して上京する賢治を澤里一人が見送った。
というような内容の「記憶」しか澤里武治は持ち合わせていなかったと思っていた。
 その第二は、註釈「*5」の次の部分
 柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている。
にである。一体この柳原の場合の「記憶」の出典は何なんだろうか。澤里の場合と同様私は見たことも聞いたこともない。
 先にも触れたように、このことに関して私が知っている柳原の証言は、菊池忠二氏が直接柳原本人から訊いたという
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれ
ていていないことだけれども。  ………………○柳
という証言しか知らない。もちろんこの証言においては、見送る際に賢治はチェロを携えいたなどとは言っていないことにも注意せねばならない。その他にも、見送った際に賢治がチェロを携えていたなどという他の柳原の証言も私は知らない。
 願わくば、典拠を明らかにせず、しかも一般読者にはそれに対応するような典拠を探し出せない、先のような表記は避けていただきたかった。もし事情があってその時点では典拠を読者に明らかにできないというのであれば、その時点では活字にしないでいただきたかった。
 また、『旧校本全集』で「昭和二年にもう一度あったとも考えられるが」と問題提起をして、なおかつ「断定できない」と断り書きをしている以上、当然関係者はそのことを次回への大きな課題だと認識していなかった訳はなかろう。
 また、
  書簡篇『旧校本全集十三巻』の発行は昭和49年
  年譜篇『旧校本全集十四巻』の発行は昭和52年
 『新校本第十五巻書簡校異篇』の発行は平成7年
  『新校本第十六巻(下)年譜篇』の発行は平成13年
であり、
  柳原昌悦(明治42年~平成元年2月12日没)
  澤里武治(明治43年~平成2年8月14日没)
なので時間的にはかなりの余裕があったはずだから、『旧校本全集』発行~『新校本全集』発行の間に調べようとすればかなりの程度のことを澤里や柳原本人からも聞き出せたと思う。
 ところが現実は、この『新校本全集第十五巻書簡校異篇』の註釈「*5」は、『旧校本全集第十三巻』の註釈と番号まで含めてまったく同じものであり、一言一句変わっていない。何も進展していなかったのである。何も進展がなかったということは、為すべきことが為されていないことの証左であるということにはならないだろうか。残念である。
 まあ、澤里からの聞き取りに関しては関登久也が既に行って「澤里武治氏聞書」という形で公にしているから措くとしても、一方の柳原の先の「記憶」については極めて重要な意味合いを持つ訳だから、柳原本人からしっかりと聞き取ってその真相を『新校本全集』では読者に明らかにしてほしかった。
 活字が真実とは限らない
 さて私という人間はあまりにも単純で、活字になっているものは動かすことのできない正真正銘の真実であるとつい思い込んでしまって、そのまま受け入れてしまいがちであった。
 しかし、著名な何人かの賢治関連の著作の中にさえもそうではないものがあることを知ったし、賢治の詩の中にも(詩だから当たり前のことではあるのだが)虚構があるということも知った。したがって、私は賢治にまつわる「真実」といえどもそれは検証されたものでなければ賢治の伝記に関しては資料とはな
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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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