本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(148p~151p)

2016-01-21 08:30:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
とり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。 ……………○現
<「新校本年譜」(筑摩書房)325pより>
は「旧校本年譜」担当者B氏が「沢里武治氏聞書」(関登久也著『賢治随聞』所収)を元にして要約、編集したということのようだ。
 ところがもしそうだとするならば、実は「沢里武治氏聞書」では「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」(傍点筆者)となっているのだから「通説○現」の中の「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」の部分はこれと同じでなければならない。
 しかし、不思議なことに「通説○現」からは賢治が言ったはずの「少なくとも三か月は滞在する」の部分がどういう訳かスポッと抜け落ちているのである。
 さらには、その「沢里武治氏聞書」の中で澤里は
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……○三
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
ということにも言及しているのだが、この「○三」に関しても現在通説となっている「宮澤賢治年譜」では一切触れられていない。「沢里武治氏聞書」を典拠にしていながら、
(ア) 「少なくとも三か月は滞在する」と証言しているのにそこは削除され、
(イ) 「○三」については一切無視されている。
 しかしどう考えてもこうなる理由が私に見つからず、それにしても不思議なことが多いものだと戸惑うばかりである。それゆえ、これほどにまでこだわって「通説○現」のような書き方をしなければならないほどの、何かそこには読者には知らせられない理由でもあるのだろうかと、正直思ったりもしたくなる。
 疑うことから見えてくる
 いや待て、そのような浅ましい見方は止めよう。それよりは、学問の始まりは疑うことから始まるというではないか、ここはそれこそ疑ってみよう。というわけでここからは、そのための思考実験の始まりである。
(ア) について
 なぜこのようなことが起こったのか。それは単純に考えればたまたま見落としてしまった、ということがまず考えられる。とはいえ、まさかそのようなことを年譜担当者のB氏や関係者が起こす訳はない。『校本全集』と銘打つ以上、関係者は厳密な校合をせぬ訳がないからである。
 とすれば、この「削除」という行為は意図的に行われたということになろう。その理由は現時点では私にはしかとはわからぬが、大正15年12月に、チェロを持って賢治は上京したとは誰も証言していないのに「現通説」では「セロを持ち」とされていることと相通ずるものがあるということは明らかであろう。
(イ) について
 なぜこの「○三」が無視されているか。
 それはもしこの部分があれば「あれっ、それじゃ大正15年12月2日の上京の際に賢治は3ヶ月間滞京していたのではなかろ
うか」という疑いを読者から持たれる。一方で、「○三」であった
ということであれば、羅須地人協会時代の賢治像にとってそれはダメージが大きすぎるからこのことだけは何とか避けたいとある人物、X氏は思い悩んだ。
 そこで彼は実際「少なくとも三か月は滞在する」の部分を故意
に「賢治年譜」から削除し、併せて「○三」も無視した。これで「賢
治年譜」の大正15年12月2日は例の「通説○現」で定着する、とX氏は胸をなで下ろした。
思考実験終了
 なお以前同様、これが歴史的事実であったなどと言うつもりはもちろんない。あくまでも単なる私の思考実験である。

3 私見・「不都合な真実」
 ただしここまで考察してきて、私には自信を持って言えることがある。それは次のような三つの事実が厳然と私達の前にあるということである。
 三つの事実
 それらは
・単行本『宮澤賢治物語』において著者以外の人物による改竄が行われたという事実
・理に適わない理由を謳って『賢治随聞』が出版されたという事実
・「校本年譜」や「新校本年譜」において澤里武治の証言が恣意的に使われているという事実
である。
 そしてこれらの三つ事実はそれぞれ別個のものではなくて、ものの見事に一本の串に刺されているように私には見える。言い方を換えれば、ある人物X氏が中心となって賢治のイメージにとって「不都合な真実」だと思ったところの幾つかの事実を歴史上から葬り去りたかった、そしてそのために実際これらの行為が行われた可能性がある、ということを私は否定できないということである。
 あるリトマス試験紙
 そして私は自分の頭の固さに今更呆れながら気付いた。それは先に私は
 そもそも、『宮澤賢治素描』正・続を一冊にして出版したかったということだが、そのことは既に関登久也自身が以前に行っている(その結果出版されたのが、昭和32年に出た『宮澤賢治物語』である)のだから、わざわざ新たに他人がそれらを改稿して『賢治随聞』として出版するということは道理に合わない行為である。
と述べたが実はそうではなくて、M氏は『宮澤賢治物語』そのものを再版する訳にはいかなかったんだという可能性があるということにである。
 そしてまた、先に私は
 まるで、『宮澤賢治物語』は無視されたかの如き印象を受けてしまう。
と表現したが、まさしくM氏は『宮澤賢治物語』を無視したかったのだ、それを覆い隠してしまいたかったからこそそれに代わる『賢治随聞』を出版したのだ、という可能性があるのだということにである。
 そして、その真偽を調べることができるリトマス試験紙があることにも気付いた。それは、単行本『宮澤賢治物語』の中にある次の文章
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
 「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが…
が『賢治随聞』所収の「沢里武治氏聞書」の中にあるかないかを調べる行為である。
 もしこの一連の文章がそこになければ、それはとりもなおさずM氏は単行本『宮澤賢治物語』を無視したかったということを、あるいは逆にその文章がそこにあればそうではなかったということを客観的に示すことができるリトマス試験紙であるということに今頃やっと気付いた。
 さらには、もしその文章がそこになければ、『賢治随聞』の出版理由が『宮澤賢治物語』の改竄と密接に繋がっているということも自ずから浮き彫りにしてくれるリトマス試験紙でもあることにも、である。
 さてこうなると、もしその文章がそこになかったとすれば、当然次のような可能性もある。
X氏は次のような事実
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
すなわち「♧」は「不都合な真実」だからそれを葬り去りたいと企てた。そしてそのために単行本『宮澤賢治』を改竄した。
 さらにはその後、M氏はX氏の意を汲んで『賢治随聞』を出版した。
 まさかこんなことが事の真相であったということは流石にないだろうとは思うが……。しかれども、これだと前に行った思考実験の内容とかなり重なっているし……。
 まあ、いずれその文章がそこにあるかないかを後程調べてみよう。そうすれば直ぐに答が出せる。
 不都合な真実などない
 ところで、ここでいうところの「不都合な真実」を賢治自身までもがそう思っていた訳ではなかろう。それはあくまでもX氏やM氏を中心とする一部の人達の認識に過ぎないはずである。
 何となれば、晩年の賢治は己に対して極めて厳しい見方、総括をしているからである。一般には菩薩となって貧しい農民を救おうとしたといわれている「下根子桜時代」の2年4ヶ月余、「羅須地人協会時代」の営為に対してさえもである。
 ちなみにそのことを昭和5年3月10日付書簡「258」が先ず教えてくれる。その書簡とは、「羅須地人協会時代」に時間的には一番長く、距離的には一番近くに居たことになるであろう協会員の伊藤忠一宛書簡であり、そこにはあろうことか
殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
と書かれている。私からすれば全く意外なことだが、当時の賢治は「羅須地人協会時代」の営為を全否定していることになる。
 あるいはまた、最愛の教え子の一人、澤里宛の昭和5年4月4日付書簡「260」における
但し終りのころわづかばかりの自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度になってしまったことを悔いてももう及びません。
からは、花巻農学校の「終りのころ」に対しての痛切な悔恨が伝わってくる。
 そして、もう一人の最愛の教え子柳原に宛てたいわゆる「最後の書簡488」の中の
私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。…(略)…空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。
<いずれも『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
というあまりにも自嘲的な自己批判からもそれは明らかである。それも、「空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見て」という表現からみて、この場合も「羅須地人協会時代」の2年4ヶ月余の営為のことに対してであるこ
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《鈴木 守著作案内》
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 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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