《賢治年譜のある大きな瑕疵》
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
それでは、賢治は「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」は農業の指導等でてんてこ舞いだったのだろうか…。これが、もし大正15年~昭和2年の農閑期のことであったならば賢治は羅須地人協会の活動のために多忙であったからまさしくそうであったであろう。しかし「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」に賢治はそのような協会の活動はもうしなくなっていたはずだから、そのためにこの期間が忙しかったということもないはずだ。
あるいはまた、昭和3年の3月頃ならばその頃の賢治は石鳥谷塚の根肥料相談所で行っていた肥料設計のために極めて多忙だったはずだが、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」にそのようなことが行われたという証言も記録もないはずである。つまるところ、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」に賢治が肥料設計で極めて忙しかったという明らかな証言や資料等はなさそうである。
よって、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治は書簡は出していなかったし、詩も詠んでいなかった、童話も書いていなかったようだし、かといって肥料設計等の農業指導をやっていた訳でもなさそうである。
透明な存在の賢治
さて、どう考えても、少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治の営為は見えてこない。不思議だ。そこでもう一度「新校本年譜」を見直して、「下根子桜時代」のうちの「昭和2年9月~昭和3年2月」の年譜を表にしてみた。それらが以下の【表1】~【表3】である。
そこからは、ものの見事に「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間が全く空白であることが一目瞭然である。しかし待てよ、「下根子桜時代」のこの季節というのもはもともとそのような程度の活動だったのかもしれない。
ならばと、一年前の同じ頃の賢治の営為はどうであったのであろうか、同様の表を作ってみた。それらが【表4】~【表5】であり、「下根子桜時代」の「大正15年11月~昭和2年2月」の賢治の営為が見えてくるはずである。
そしてこれらの両者を比較してみると、一年前の表からは同期間の賢治の活発な活動振りが見えてくるので、逆にますます「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」の3ヶ月余の空白が際立ってしまう。どう考えても、少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治は全く透明な存在になってる。一体賢治は何を考え何をやっていたのだろうか。
このことは逆から見れば、「宮澤賢治は昭和2年11月頃から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京」していたということは時間軸上からすれば十分にあり得ることになる。この空白にそれをちょうどすぽっと当て嵌めることができるからである。
最初は、荒唐無稽なことだと嗤われる思っていたが、もしか
すると仮説「♣」は案外検証に耐え得るかもしれない。
とまれ、「新校本年譜」によって仮説「♣」が直接検証できた
訳ではもちろんないが、少なくとも「新校本年譜」はこの仮説の
【表1 昭和2年9月~10月の宮澤賢治】
【表2 昭和2年11月~12月の宮澤賢治】
【表3 昭和3年1月~2月の宮澤賢治】
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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よって、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治は書簡は出していなかったし、詩も詠んでいなかった、童話も書いていなかったようだし、かといって肥料設計等の農業指導をやっていた訳でもなさそうである。
透明な存在の賢治
さて、どう考えても、少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治の営為は見えてこない。不思議だ。そこでもう一度「新校本年譜」を見直して、「下根子桜時代」のうちの「昭和2年9月~昭和3年2月」の年譜を表にしてみた。それらが以下の【表1】~【表3】である。
そこからは、ものの見事に「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間が全く空白であることが一目瞭然である。しかし待てよ、「下根子桜時代」のこの季節というのもはもともとそのような程度の活動だったのかもしれない。
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このことは逆から見れば、「宮澤賢治は昭和2年11月頃から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京」していたということは時間軸上からすれば十分にあり得ることになる。この空白にそれをちょうどすぽっと当て嵌めることができるからである。
最初は、荒唐無稽なことだと嗤われる思っていたが、もしか
すると仮説「♣」は案外検証に耐え得るかもしれない。
とまれ、「新校本年譜」によって仮説「♣」が直接検証できた
訳ではもちろんないが、少なくとも「新校本年譜」はこの仮説の
【表1 昭和2年9月~10月の宮澤賢治】
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本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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