たまたま『新編 宮澤賢治詩集』の解説を読んでいたならば、「詩ノート」に関して、
と編者の天沢退二郎氏が論じていることを知って、私はある直感が働いた。もしかするとこの〔わたくしどもは〕は「物語性・虚構性の強いもの」とは言い切れないのではなかろうかと。それは、この詩についてはある程度記憶があったし、「「基督再臨」のようにキリスト教との関連が深いもの…が主として捨てられたようである」と言う指摘があったからだと思う。
そこで私は早速、いままでに読んだ記憶の全くない「基督再臨」を見てみた。
普通に考えれば、この詩の中の「わたくし」とは作者賢治のことだろうから、もしそうだったとすれば「わたくしの名を知らぬのか /わたくしはエス/おまへらに/ふたゝび/あらはれることをば約したる/神のひとり子エスである」と、自分を「イエス」になぞらえている賢治の気持ちの昂ぶりと驕り、そして「おまへらは」という蔑視を私は理解しにくいのだが、タイトルが決まっていない詩が多い「詩ノート」の中ではそのタイトルを、しかもずばり「基督再臨」と確定させている数少ない詩であるということだけはまずわかった。
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便宜的に「詩ノート」と名づけられ保存されたこれらの詩は、番号・日付からわかるように、「第三集」の先駆形をある段階で整理・筆録されたものだが、それらは「第三集」の詩稿用紙に書き写される際に大きくかたちを変えたものや、書き写されずにここに留め置かれたものが少なくない。「基督再臨」のようにキリスト教との関連が深いもの、「〔わたくしどもは〕」のように物語性・虚構性の強いものが主として捨てられたようである。
<『新編 宮澤賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)415pより>と編者の天沢退二郎氏が論じていることを知って、私はある直感が働いた。もしかするとこの〔わたくしどもは〕は「物語性・虚構性の強いもの」とは言い切れないのではなかろうかと。それは、この詩についてはある程度記憶があったし、「「基督再臨」のようにキリスト教との関連が深いもの…が主として捨てられたようである」と言う指摘があったからだと思う。
そこで私は早速、いままでに読んだ記憶の全くない「基督再臨」を見てみた。
一〇四九 基督再臨 一九二七、四、二六、
風が吹いて
日が暮れかゝり
麦のうねがみな
うるんで見えること
石河原の大小の鍬
まっしろに発火しだした
また労れて死ぬる支那の苦力や
働いたために子を生み悩む農婦たち
また丶丶丶丶 の人たちが
みなうつゝとも夢ともわかぬなかに云ふ
おまへらは
わたくしの名を知らぬのか
わたくしはエス
おまへらに
ふたゝび
あらはれることをば約したる
神のひとり子エスである
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)138p~より>風が吹いて
日が暮れかゝり
麦のうねがみな
うるんで見えること
石河原の大小の鍬
まっしろに発火しだした
また労れて死ぬる支那の苦力や
働いたために子を生み悩む農婦たち
また丶丶丶丶 の人たちが
みなうつゝとも夢ともわかぬなかに云ふ
おまへらは
わたくしの名を知らぬのか
わたくしはエス
おまへらに
ふたゝび
あらはれることをば約したる
神のひとり子エスである
普通に考えれば、この詩の中の「わたくし」とは作者賢治のことだろうから、もしそうだったとすれば「わたくしの名を知らぬのか /わたくしはエス/おまへらに/ふたゝび/あらはれることをば約したる/神のひとり子エスである」と、自分を「イエス」になぞらえている賢治の気持ちの昂ぶりと驕り、そして「おまへらは」という蔑視を私は理解しにくいのだが、タイトルが決まっていない詩が多い「詩ノート」の中ではそのタイトルを、しかもずばり「基督再臨」と確定させている数少ない詩であるということだけはまずわかった。
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