本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

おわりに

2015-11-27 08:00:00 | 終焉の真実
「羅須地人協会時代」―終焉の真実―
鈴木 守
 おわりに
 さてここまでの検証等により、賢治が昭和3年8月に実家に戻ったのは病気が重くなったためだったというよりは、10月に行われる「陸軍大演習」を前にして吹き荒れたすさまじい「アカ狩り」に対処して「自宅謹慎」したためだったということの方の信憑性がかなり高いことを私は知った。そして、このような言説を公にした人は今まで全くいなかったはずだ。

 しかし、平成の時代になってからでもこのような合理的な推論ができるくらいだから当然、実は宮澤賢治研究家はかなり早い時点からこのことに気付き、この類の説を精緻に論考することができていたはずだ。「演習」とは実は何のことを指し、なぜ昭和3年に実家に戻ったのが「8月」だったのかをたちどころに解明できていたはずだ。ところが、私の管見のせいかもしれないが、そのようなことが今までに公的に論じらたことは一切なさそうだ。そこで単純な私は生意気にも、まさしくこの実態こそがその類のことを公に触れることはタブーだったということを実は示唆している可能性があるなどとだいそれたことまで考えてしまう。
 一方で、今の時代ではとても信じられないことだが、当時は「アカ」とか「社会主義者」等は火付け・盗賊の類に思われていた時代だったとも聞く。それが事実であったとしたならば、もし「宮澤マキ」の「宮政」の御曹司賢治が「アカ」だと周りから見られていたと仮にすれば、隠然たる力があった「宮澤マキ」に周りの人達は当然遠慮してそのようなことに関して公的には口をつぐんできたであろう。そしてまた、かつての「賢治年譜」の昭和3年8月について「賢治は風雨の中を徹宵東奔西走したために風邪をひき、実家に帰って病臥した」と記載されていても周りの人たちは誰も異論を差し挟まなかっただろうし、挟めなかったであろうということは理屈としては十分に成り立ち得ることであるし、それでこの「賢治年譜」が「通説」になってしまったということもまた十分にあり得る。一方で、それを意識したか否かはさておき、賢治を戦意高揚に利用したかった人達にとってはこの「通説」は好ましいものであったであろう。

 しかし、仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていたすさまじい「アカ狩り」に対処するためであり、当局から命じられてその演習が終わるまで実家に戻って謹慎していた。……①
を立ててここまで検証してみたところ、賢治自身がそれを裏付けてくれていたりしている一方で、今のところその反例は一つも見つからない。したがって、今後その反例が見つからない限りは、「通説」とは異なってはいるものの、実は〝①〟がその真相だったとしてよいことがこれでわかった。

 なお、その演習が終わった後に再び賢治は下根子桜に戻ったか否かについてだが、『新校本年譜』によれば、昭和3年のこととして
・一〇月二四日(水) …菊池武雄あての中身なしの封筒の裏書きに「稗貫郡下根子」とあるので、このあたり一時協会へもどったようである。が、再び実家で臥床したことは高橋慶吾あて書簡(書簡245)で見られる。
・一〇月三〇日(火) 佐藤二岳あて葉書(244a)。二岳作の俳句に対して、賢治が付句を試みたもの。
・一二月二一日(金)〔推定〕向小路田中方、高橋慶吾あて返書(245)。この頃もまた三八度の熱で臥床中であった。
             <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜編』(筑摩書房)より>
となっているので、どうやら確定はしていないようだ。
 ちなみに『新校本全集第十五巻書簡本文篇』によれば、菊池武雄宛書簡については、
244〔十月二十四日〕菊池武雄あて 封書〔用箋ナシ〕
《表》東京市四谷区 四谷第六小学校内 菊池武雄様
《裏》稗貫郡下根子 宮澤賢治〔封印〕〆
となっているから、賢治はこの時点では下根子桜に戻ったとも考えられるが、如何せん中身がないというから、「このあたり一時協会へもどったようである」という推定にならざるを得ないということは尤もなことだ。

 もちろん、書簡(244)の中身が見つかれば「このあたり一時協会へもどった」か否かの確定ができるかもしれないが、それがなぜないのかを私があれこれ穿鑿しても詮方ない。そこで私は、下根子桜の「桜地人館」へ出かけて行った。なぜならば、同館では先の佐藤二岳(隆房)宛葉書(244a)の現物を展示しているからである。その葉書の宛名の面を見れば賢治がどこからその葉書を出したかが判るので、その場所が下根子桜であったならば、「このあたり一時協会へもどった」とほぼ確定できると思ったからだ。そして、同館の館員の方にその葉書の宛名の面を見せていただけないでしょうかとお願いをした。すると後日、残念なことにこの葉書は台に貼り付けてあるので宛名の面は見ることができないという返事をいただいた(しかも、宛名の面の記録もないとのことだった)。

 次に高橋慶吾宛書簡についてだが、同巻によれば、
245〔十二月二十一日〕高橋慶吾あて 封書
《表》向小路 田中様方 高橋慶吾様
《裏》豊沢町 宮沢商会内ニテ 宮沢賢治(封印)〆
拝復
貴簡難有拝誦仕候
貴下献身の高義甚感佩の至に有之何卒御志の達成せられんことを奉祈候
小生名儀の儀は御承知通り当分の小生には農業生産の増殖と甚分外乍ら新なる時代の芸術の方向の探索に全力を挙げ居り右二兎を追て果して一兎を得べきや覚束なき次第この上の杜会事業の能力は当分の小生には全く無之右不悪御諒置奉願候         敬具
  高橋慶吾様
宮沢賢治
      私信
追テ皆様ニハ宜敷御鶴声奉願候
  この頃又もや三十八に逆戻り致し床申乱筆御免被成下度候
             <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>
ということだから、同年12月には再び実家にて発熱で病臥していたということはそのとおりだろう。そして、「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」と愛弟子の澤里武治に伝えた賢治ではあったが、残念なことにその後、賢治が再び羅須地人協会に戻ることはなかったということは周知のことである。

 結局、現時点では賢治がその後一度下根子桜に戻ったか否かは確定できない。さりながら、その時期は定かでないにしても、昭和3年に8月~12月の間に「羅須地人協会時代」がその終末を迎えたということは動かしがたい。どうやら、以上が「羅須地人協会時代」―終焉の真実―であったということになりそうだ。

 さて、賢治が没してからもう80年以上も過ぎてしまったし、今や賢治の多くの作品が素晴らしいものだということは何人も認めてくれる時代となった。だから今度は、そろそろ創られ過ぎた賢治を本来の賢治の姿に少しずつ戻さねばならない時機がやってきたということなのではなかろうか。
 たしかに賢治はずば抜けた天才であることは間違いない。がしかし、賢治の言動は凡人には理解しがたい点も少なからずあるということもまた事実である。さりながら、もしかするとそれ故にこそ、それまでもそしてこれからも誰にも詠めないような、私の大好きな心揺さぶる「原体剣舞連」等を含む心象スケッチ『春と修羅』等を残したり、それこそ「第四次」感覚を持つ賢治でなければ書けないような「やまなし」や「おきなぐさ」等の素敵な童話を創作してくれたりした作家だった、ということで一向に構わないのではなかろうか。
 しかし、今までの賢治像はあまりにも聖人・君子すぎて我々凡人には近づきがたいというのも一方の事実だ。ところが、羅須地人協会時代の賢治を調べてみるとこのように普通の人間と同じようなところも少なからずあったようだし、そうであってこそかえって私達は素直に愛すべき賢治だと思えるのではなかろうか。
 そしてそもそも、創られすぎた賢治像をまさに賢治自身が一番苦々しく思っていると私は思う。ひたすら求道的な生き方を求めたはずの賢治にとって何が一番かけがいのないものかというと、それは「ひたむきに真理を求め続ける姿勢」だったと思うからだ。だから、賢治自身は聖人や君子になるなどということはこれっぽっちも考えていなかったはずだ。そして私達も、賢治が聖人や君子になろうとしていたことなど全くないないということは誰でも知っているはずだ。

 だから、もうそろそろ《創られた賢治から愛すべき賢治に》移行してもよい時期なのではなかろうか。人間没して100年が過ぎれば評価が定まると聞く。だからもしこのまま今の状態が続いたとしたならば、間もなく「創られた偽りの賢治像」が未来永劫「宮澤賢治」になってしまいかねない。
 
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