本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(96p~99p)

2016-01-15 08:00:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
克服のための指導を受けること。
があったことが分かる。さらには、
・その指導を受けるために賢治は新交響楽協会へ行った。
・そして先生の前で教本の十六頁分、オルガンを弾いてみせた。
・先生は「全部それでいゝ」といってひどくほめてくれた。
・そこで賢治は「もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです」と父に伝えた。
ということも書かれている。
 しかし、当然ここで二つの疑問が生ずる。それは第一に
 はたして先生は本当に賢治のオルガンの演奏技能をひどく誉めたのだろうか。
という疑問であり、第二には
 賢治自身も自分のオルガン演奏技能が先生からひどく誉められたと真実思ったのだろうか。
という疑問である。そしてそれぞれに対する答は次のようなものになるのではなかろうか。
 まず前者についてだが、以前に触れた藤原嘉藤治の評価
 賢治のオルガンの演奏技能について「まったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした」と証言している。
に従わざるを得ないことになったので、
◇新交響楽協会のプロの先生の前で実演してみせた賢治のオルガン演奏だが、それを聴いた先生はあまりにも未熟すぎる賢治のその演奏に対して言葉がみつからず、賢治が書簡にしたためたように、「全部それでいゝ」としか言えなかった。
が事の真相だったであろう。
 そして後者については、
◇賢治自身はこう書簡にしたためてはいるものの、賢い賢治のことだから、自分のオルガンの腕前がプロの目からどれほどの評価をされたのかは瞬時に覚らざるを得なかった。もちろん賢治がこのときばかりは極めつけの鈍感力を発揮したという可能性も否定しきれないが、あれだけクラシックが好きだった賢治がその時の先生の表情や言い方からして自分の技能の未熟さを覚らない訳がない。プロの先生の前でオルガンを演奏してみせた賢治ではあったが決定的なダメージを受け、自信喪失、オルガンの才能が実は自分にはないのだとこの時賢治は見切った。
というところが真相だったのではなかろうか。
 考えてみれば、大正15年という年は、賢治の地元岩手では旱魃の被害が甚大で特に隣の紫波郡の赤石村、不動村、志和村等
は飢饉一歩手前の惨状に追い込まれていたので、連日その報道が新聞紙上を賑わしていた。そしてそれを救わんとして多くの人々が陸続として義捐活動に駆けつけたりしていること等もまた連日のように報道されていた。
 そのようなさなか、一人賢治は悲惨な状況下にある地元を離れて大金を使って上京している手前
 十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。
と父政次郎には言わざるを得なかった。しかしそう言ってはみたものの賢治は惨めな気持ちにおそわれ、内心忸怩たる思いであったであろう。
 父には内緒で密かに下根子桜で独習してきたオルガンであったがそれほど腕前は上達していなかった。そして、「先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました」と書簡で嘯いてはみたものの、先生が「ひどくほめてくれた」訳でないことは賢治自身が一番良く知っていた。こうやってまで取り繕って父に報告している自分があまりにも哀れで惨め。このままじゃまずい、これからどうしようと思い巡らした。
 そしてそこは天才賢治の面目躍如、天才は決断も早くて果敢であるが、一方では諦めるのも早い。オルガンが下手なのは自分にはその適性がないだけ、今後はオルガンはぼちぼちにして別な楽器を新たに学ぼう。では、自分に適性がある別の楽器は何だろうかと賢治は考えた。そこで思い付いた、そうか自分には嘉藤治もやっているチェロがもしかすると合っているかもしれない、いや合っているはずだ。嘉藤治ができるなら俺にやれないはずはない。これからはチェロだ! と。
 「二百円」の無心
決断も早くてせっかちな天才賢治、そう思い付いたら矢も楯もたまらずチェロが欲しくなった。さりとて、ヴァイオリンなどと違って前述したようにチェロは高価すぎる。まして賢治は欲しいとなれば最高級品を手に入れたがるのが常である。
 実際、横田庄一郎氏の『チェロと宮澤賢治』(音楽之友社、57p~)によれば、賢治が購入したチェロ一式の値段は一八〇円(チェロ箱も入れれば二三〇~二四〇円)もしたようだ。なおこの価格は、藤原嘉藤治が「で、そのうちに宮沢君もチェロが欲しくなったのか、東京で一八〇円だかで買ってきました」と証言している(『宮沢賢治第5号』(洋々社22p)の「思い出対談」より)こととも符合する。いずれにしても相当高額であり、賢治はどうやってこのセロを購ったのだろうか。
 そもそも、この滞京期間中の賢治には収入のあてなどは一切なく、しかも多額の支出(滞京費や授業料)を要したはずだからこのような高額のセロ一式を手に入れることができたとは到底考えられない。一体全体そんな高額の費用をどうやって調達できたというのだろうか…やはりあれしかない。あの書簡で無心した「二百円」の他にない。
 その書簡の一つは、政次郎宛書簡「222」〔(1926年)十二月十五日〕
今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申しあげればわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借りるよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます。
であり、もう一つが次の同じく父宛の書簡「223」〔十二月二十日前後)
次に重ねて厚かましくは候へ共費用の件小林氏御出花の節何卒二百円御恵送奉願度過日小林氏に参り候際御葉書趣承候儘金九十円御立替願候
<ともに『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
である。
 したがって、賢治は15日付書簡「222」で一度「二百円の無心」をし、その約5日後の書簡「223」において重ねてその無心をしていることになる訳だからこの大金「二百円」はどうしても欲しかった、この時期にこそ是非欲しかったものと考えられる。
 しかも後者の書簡からは、その「二百円」が届かぬうちに賢治は小林六太郎に九十円を立て替えてもらったことも判る。もしかするとその「九十円」とは、この「二百円」で買いたかった品物の頭金だったということも考えられる。せっかちな性格の賢治のことなれば、何しろ賢治はそれがいち早く手に入れたかったのかもしれない。
 何か変である
 こんなことを考えながら書簡「222」を読み直していたら、次の部分何か少し変である。
 毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校、数寄屋橋側の交響楽協会とまはって教はり午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238pより>
 そこでこの書簡「222」の記載に基づいて、上京中の賢治の一日の行動パターンを地図上で確認してみたいと思ったので、【宮澤賢治の東京における足跡】(『賢治地理』、小沢俊郎編、學藝書林133p)を参照しながら辿ってみると、
 上州屋(賢治の下宿先)→図書館(上野図書館、日比谷図書館)に午後2時迄→タイピスト学校(YMCA)→交響楽協会(塚本ビル)→午後5時頃に丸ビル旭光社(エスペラント)→上州屋(賢治の下宿先)
となる。なお、もしこの時賢治が大津宅にチェロを習いに行っていたとすれば、朝いの一番に大田区千鳥町(大津三郎宅)まで出掛けて行って朝6時半~8時半迄特訓を受けていたことになる。
 それにしても、このパターンだと図書館にいる時間が一番長く、そこを午後2時に出て午後5時に丸ビルに行くとするとその間は3時間。その間の3時間が移動時間を含めてタイプライターとオルガンの練習時間となることになる。これじゃそれぞれの練習にそれほどの時間を割けないなと思いつつ、あることに気付いた。
 12/12付書簡「221」では「十日はそちらで一ヶ年の努力に相当した効果」を「エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と…」で得たというようなことを書いていたから
 :エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と…
並んでいるのに、どうして
 12/15付書簡「222」の方では
  :図書館…タイピスト学校、数寄屋橋側の交響楽協会…エ  スペラント…
となっているんだろうかということにである。
 つまり書簡「221」でも「222」でも図書館、タイプライター、エスペラントのことは顕わに書いているのに、なぜオルガンに関しては前者にはあるのに後者には書いていないのだろうか、ということに気付いたである。
 ははあ、このことが「何か変」と感じた理由かもしれない。そしてもしかすると、この表現の仕方こそが賢治の心境の変化を暗示しているのではなかろうかと直感した。この手紙をしたためている頃には当初の目的の一つ
  大正15年の上京の大きな目的の一つはオルガン演奏の弱点克服のための指導を受けること。
は既に賢治の頭の中からは消え去っていたのだ、と。もはや心は新たな楽器へと移っていたのだと私は受けとめた。とはいえ、多少のためらいが賢治自身にはあったので「数寄屋橋側の交響楽協会」とだけは書き添えてぼやかしておいたのかもしれない。
 賢治の方便?
 そして、変なことはもう一つある。まずは、先に挙げた「二百円」を無心した政次郎宛12/15付書簡「222」の中の次の
第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして…(中略)…芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。
という部分を読んでみての私の率直な感想は、いつもの賢治とは違っていてくどくどと言い訳がましいことである。
 そもそも、この書簡「222」は上京してから滞京も半ばが過ぎた12月15日のものである。書簡の内容からは下宿代も授業料も既に払ったと判断できるのに、向後さらに二百円もの大金を
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《鈴木 守著作案内》
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 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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