《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
現時点での認識
そこでやはり私は不思議に思う。これだけの深い交わりが賢治との間にありながらどうして千葉恭のことは審らかにされていないのだろうかと。例えば、どうして『宮沢賢治語彙辞典』の項目に「千葉恭」はないのだろうか。はたして賢治研究にとって千葉恭はそれほど重要な人物ではないのだろうか。
因みに、『新校本宮澤賢治全集)』には賢治が下根子桜で使っていて、その後森荘已池が譲り受けた書棚の写真さえも載っている(『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』)というのに、私の管見のせいかも知れないが千葉恭の写っている写真は一葉も載っていない。はたして
書棚>千葉恭
という不等式は正しいのだろうか。
それはさておき、千葉恭の長男B氏宅訪問により重要な懸案事項の一つが解決したし、いくつかのことも新たに解った。その結果現時点では
(ア)『校本宮澤賢治全集』の〔施肥表A〕〔一一〕〔一五〕〔一六〕は千葉恭に頼まれて宮澤賢治が設計した真城村の田圃に対する施肥表であると断言出来そうである。
(イ) 仮説○☆、すなわち〝千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らをしていた。〟という仮説は検証に耐えうるかも知れない。
(ウ) 賢治と千葉恭の間には、大正13年11月12日(水)に穀物検査所で出会ってから昭和3年の春頃までの少なくとも4年余りの間の長期間に亘って親交が続いていたと言えそうだ。
(エ) 千葉恭は賢治と下根子桜で一緒に、それも少なくとも8ヶ月余ほどの長期間にわたって生活したと思われる唯一の人物であるはず。昨今「独居自炊」と言われるようになってしまった賢治の「下根子桜時代」だが、実はその3分の1弱の期間は「独居」ではなかったと言えそうだ。千葉恭は賢治と長期間一緒に暮らしていたのだから、身近にいて賢治の総体をつぶさに見知っていた人物であり、賢治の「下根子桜時代」の評価を左右する程の重要な存在なのだということを世間に知らせなけらばならない。
と私は認識している。
3 研究家千葉恭
たまたま『四次元123号』(昭和36年2月、宮澤賢治研究会)を見ていたならば、その中に菊池忠二氏の「賢治の地質調査(1)岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」がシリーズ物の1回目として載っていた。
「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」の内容
そしてそれは次のように始まっていた。
編集者の言葉――本文は賢治が稗貫稗貫郡の委嘱を受け、
関豊太郎博士を首班に助教授神野幾馬、小泉多三郎と共に実地踏査した際の報告書である。この調査図は五六年前元の郡役所の倉庫から発見されたものを、当時の稗貫地方事務所長に乞うて保存してゐる。今回計らずも菊池氏が岩手大学でそれを発見され、賢治の分担した部分を抜粋して送っていたゞいたものである。これに図表を参照されたなら完璧なものであることを信ずる。菊池氏の御厚意に深く感謝の意を現するものである。
第一章 地形及地質
第一節 地形の大要
本部ノ地勢ハ北上平地ヲ中央トシ其以東ハ東部丘陵及東部山地ニ区分シ其西部ニ於テハ西部丘陵及西部山地ニ区別ス、東部山地ハ北上山地ノ一部ニ属シ西部山地ハ陸羽ノ境界ヲ南北ニ走レル中央分水嶺ノ余波ニ属ス。
(一)東部山地
本郡東部ノ北境ハ早池峰(一九一三米)ヲ東端トシ次第ニ低降シツゝ西走シ権現山(八二八米)ニ達スル山脈連互シ、東境乃至東南境ニハ薬師岳(一六四五米)ヲ最高点トシ海抜千米以上ニ達スル数多ノ高峰ヲ有スル山脈南西ニ走ル…(略)…
<『四次元123号』(宮澤賢治研究会)>
私はここまで読んでみて「あれっ」と思った、この内容はまさしく千葉恭が『四次元14号』で書いている内容と殆ど同じではなかろうか、と思ったからだ。
「宮澤先生を追つて(五)」と比べる
そこで、久し振りに『四次元14号』の中の千葉恭著「宮澤先生を追つて(五)」を見返してみた。次のようなことが書かれている。
先生の肥料設計を語る前に、先生が調査した岩手縣稗貫郡地帯の地質及土性について書かねばならないと思ひます。稗貫の地勢は北上平地を中央として、其以東は東部丘陵及東部山地に区分し、其西部に於ては西部丘陵地帯及西部山地を区別し東部山地は北上山脈の一部に属し、西部山地は陸羽の境界を南北に走る中央分水嶺の余波に属してゐます。東部の北境に早池峰(一九一三米)を東端とし次第に低降しつゝ西走し、権現山(八二八米)に達する山脈連互し、東境及東南境には薬師岳(一六四五米)を最高点として、海抜千米以上に達する数多の高峰を有する山脈が南西に走つてゐます。…(略)…
<『四次元14号』(宮澤賢治友の会)>
よって後者は、千葉恭が前者をカタカナ書きからひらが書きに直し、併せて多少平易に書き直しているというものだった。
ただ者じゃない千葉恭
千葉恭は次のようなことも語っていた。
(賢治の肥料設計の)結果をまとめることは私の義務と考えておりますが、私の能力のなさに未だにまとめることが出来ません。「四次元」の農民読者からも肥料の設計の結果を聞きたいという切望があるのですが、そんなわけで今私は結果の蒐集に懸命に奔走しており、その結果を一生のうちにみんなにしらしめなければならないと考えております。
<『イーハトーヴォ復刊2号』、宮澤賢治の会)>
以前に触れたように千葉恭は「先生と知り合つた時から先生を知る資料を與へられたのでしたが、火災により全部焼失してしまひました」ということだったから、昭和20年の久慈大火で千葉恭が賢治からもらった資料は灰になってしまったはずだ。
したがって千葉恭が持っていたとすれば賢治のこの「報告書」は、その後苦労して入手したものかも知れない。あるいは、真城の実家に戻って帰農した際に「研郷會」なるものを仲間と組織した訳だが、その運営に役立てるために何等かの方法で入手していたこの「報告書」は実家に置いてあったので焼失を免れたということなのかも知れない。
いずれ、おそらく千葉恭はこの「報告書」あるいはその写しを当時所有していて、この「報告書」の内容を自分なりに深く研究しながら「研郷会」などにおいて農業に生かしていたに違いない。かつての同僚千葉G氏も「恭さんは研究好きだった」と証言していることもあるがゆえに。
とまれ『四次元123号』「を読んでみても、千葉恭はやはりただ者ではない、そう感じたのである。
4 〝「水稲肥料設計」の様式〟について
千葉恭が持っていたとも思われる資料「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」であるが、同様千葉恭が持っていたと思われる資料に「水稲肥料設計」がある。それは「宮澤賢治先生を追つて(四)」に載せている次頁のような様式
〝「水稲肥料設計」の様式〟
であり、千葉恭は次のように説明を付している。
羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石位穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究もする様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。肥料設計書の様式は次のやうな、先生独特のものであります。
<『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>
と。
さて、この様式の中には
「大正 年度耕種要綱」
という項目があるから、おそらくこの〝「水稲肥料設計」の様式〟は大正末期に用いたタイプなのだろう。
なおこの〝「水稲肥料設計」の様式〟だが、『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)には未だ掲載されていない<*>のではなかろうか。一般に〝羅須地人協会〟と明記されている資料は多くないと思うが、この〝「水稲肥料設計」の様式〟にはそれが明記されているのに、である。気になる。
<*>佐藤成著『宮沢賢治―地人への道』には載っている。
<表 「水稲肥料設計」の様式 >
様式
水 稲 肥 料 設 計
羅須地人協会
参 照 諸 條 件
作付者 殿 自小作 小作料 反 斗円
所在 郡 村 地等 等上中下田
反別 町 段 畝 歩 乾濕田開田ヨリ 年
地質 紀 岩ニ由来スル 紀積
土性 質土 腐植量 反應 酸中塩基性
窒素 燐酸 加里 石灰
窒素吸収 燐酸吸収
表土 尺 寸 耕土 寸 分 心土
地下水面 尺深 紫雲英 生育ス セズ
日照 反 畝ハ 反 畝ハ
風害 年 度 水害 年ニ 度 鳥害
虫害 病害
灌漑水任意不断冷温下水炭酸鉄ヲ含ム
大正 年度耕種要綱
品種系統 裁植年数 採取
塩水撰 浸種 日 泉池川水質
藥浸 苗代耕土 寸 分 一歩 合播 月 日
苗代肥料 追肥
暖水法 挿秧ノ草丈 寸
厩肥 大豆粕 過燐酸石灰 計
全圃
反当
窒素
燐酸
加里
施用法
金肥反当 円 一歩当リ 銭
挿秧 月 日 寸× 寸 一株 本
除草 月 日 使用 月 日 月 日
灌水ノ深サ 寸 落水 月 日 刈取 月 日
乾燥法
ソノ他特殊事情
大暑草丈 寸 茎数 剛 軟
病害 倒伏 春立 肥切 脱落 鳥虫害
坪刈籾 升 合 反当収量 石 斗
次年度設計 紫雲英ヲ栽培シ
反当厩肥 貫 貫 貫
過燐酸石灰 貫 貫 石灰 貫
ヲ與フ ノ ノ際ハ ノ際
硫安 貫ハ面均シノ直前トス
ソノ他ハ本年度栽培法中※印アル部分ヲ考慮改廃スベシ
<『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
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なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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因みに、『新校本宮澤賢治全集)』には賢治が下根子桜で使っていて、その後森荘已池が譲り受けた書棚の写真さえも載っている(『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』)というのに、私の管見のせいかも知れないが千葉恭の写っている写真は一葉も載っていない。はたして
書棚>千葉恭
という不等式は正しいのだろうか。
それはさておき、千葉恭の長男B氏宅訪問により重要な懸案事項の一つが解決したし、いくつかのことも新たに解った。その結果現時点では
(ア)『校本宮澤賢治全集』の〔施肥表A〕〔一一〕〔一五〕〔一六〕は千葉恭に頼まれて宮澤賢治が設計した真城村の田圃に対する施肥表であると断言出来そうである。
(イ) 仮説○☆、すなわち〝千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らをしていた。〟という仮説は検証に耐えうるかも知れない。
(ウ) 賢治と千葉恭の間には、大正13年11月12日(水)に穀物検査所で出会ってから昭和3年の春頃までの少なくとも4年余りの間の長期間に亘って親交が続いていたと言えそうだ。
(エ) 千葉恭は賢治と下根子桜で一緒に、それも少なくとも8ヶ月余ほどの長期間にわたって生活したと思われる唯一の人物であるはず。昨今「独居自炊」と言われるようになってしまった賢治の「下根子桜時代」だが、実はその3分の1弱の期間は「独居」ではなかったと言えそうだ。千葉恭は賢治と長期間一緒に暮らしていたのだから、身近にいて賢治の総体をつぶさに見知っていた人物であり、賢治の「下根子桜時代」の評価を左右する程の重要な存在なのだということを世間に知らせなけらばならない。
と私は認識している。
3 研究家千葉恭
たまたま『四次元123号』(昭和36年2月、宮澤賢治研究会)を見ていたならば、その中に菊池忠二氏の「賢治の地質調査(1)岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」がシリーズ物の1回目として載っていた。
「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」の内容
そしてそれは次のように始まっていた。
編集者の言葉――本文は賢治が稗貫稗貫郡の委嘱を受け、
関豊太郎博士を首班に助教授神野幾馬、小泉多三郎と共に実地踏査した際の報告書である。この調査図は五六年前元の郡役所の倉庫から発見されたものを、当時の稗貫地方事務所長に乞うて保存してゐる。今回計らずも菊池氏が岩手大学でそれを発見され、賢治の分担した部分を抜粋して送っていたゞいたものである。これに図表を参照されたなら完璧なものであることを信ずる。菊池氏の御厚意に深く感謝の意を現するものである。
第一章 地形及地質
第一節 地形の大要
本部ノ地勢ハ北上平地ヲ中央トシ其以東ハ東部丘陵及東部山地ニ区分シ其西部ニ於テハ西部丘陵及西部山地ニ区別ス、東部山地ハ北上山地ノ一部ニ属シ西部山地ハ陸羽ノ境界ヲ南北ニ走レル中央分水嶺ノ余波ニ属ス。
(一)東部山地
本郡東部ノ北境ハ早池峰(一九一三米)ヲ東端トシ次第ニ低降シツゝ西走シ権現山(八二八米)ニ達スル山脈連互シ、東境乃至東南境ニハ薬師岳(一六四五米)ヲ最高点トシ海抜千米以上ニ達スル数多ノ高峰ヲ有スル山脈南西ニ走ル…(略)…
<『四次元123号』(宮澤賢治研究会)>
私はここまで読んでみて「あれっ」と思った、この内容はまさしく千葉恭が『四次元14号』で書いている内容と殆ど同じではなかろうか、と思ったからだ。
「宮澤先生を追つて(五)」と比べる
そこで、久し振りに『四次元14号』の中の千葉恭著「宮澤先生を追つて(五)」を見返してみた。次のようなことが書かれている。
先生の肥料設計を語る前に、先生が調査した岩手縣稗貫郡地帯の地質及土性について書かねばならないと思ひます。稗貫の地勢は北上平地を中央として、其以東は東部丘陵及東部山地に区分し、其西部に於ては西部丘陵地帯及西部山地を区別し東部山地は北上山脈の一部に属し、西部山地は陸羽の境界を南北に走る中央分水嶺の余波に属してゐます。東部の北境に早池峰(一九一三米)を東端とし次第に低降しつゝ西走し、権現山(八二八米)に達する山脈連互し、東境及東南境には薬師岳(一六四五米)を最高点として、海抜千米以上に達する数多の高峰を有する山脈が南西に走つてゐます。…(略)…
<『四次元14号』(宮澤賢治友の会)>
よって後者は、千葉恭が前者をカタカナ書きからひらが書きに直し、併せて多少平易に書き直しているというものだった。
ただ者じゃない千葉恭
千葉恭は次のようなことも語っていた。
(賢治の肥料設計の)結果をまとめることは私の義務と考えておりますが、私の能力のなさに未だにまとめることが出来ません。「四次元」の農民読者からも肥料の設計の結果を聞きたいという切望があるのですが、そんなわけで今私は結果の蒐集に懸命に奔走しており、その結果を一生のうちにみんなにしらしめなければならないと考えております。
<『イーハトーヴォ復刊2号』、宮澤賢治の会)>
以前に触れたように千葉恭は「先生と知り合つた時から先生を知る資料を與へられたのでしたが、火災により全部焼失してしまひました」ということだったから、昭和20年の久慈大火で千葉恭が賢治からもらった資料は灰になってしまったはずだ。
したがって千葉恭が持っていたとすれば賢治のこの「報告書」は、その後苦労して入手したものかも知れない。あるいは、真城の実家に戻って帰農した際に「研郷會」なるものを仲間と組織した訳だが、その運営に役立てるために何等かの方法で入手していたこの「報告書」は実家に置いてあったので焼失を免れたということなのかも知れない。
いずれ、おそらく千葉恭はこの「報告書」あるいはその写しを当時所有していて、この「報告書」の内容を自分なりに深く研究しながら「研郷会」などにおいて農業に生かしていたに違いない。かつての同僚千葉G氏も「恭さんは研究好きだった」と証言していることもあるがゆえに。
とまれ『四次元123号』「を読んでみても、千葉恭はやはりただ者ではない、そう感じたのである。
4 〝「水稲肥料設計」の様式〟について
千葉恭が持っていたとも思われる資料「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」であるが、同様千葉恭が持っていたと思われる資料に「水稲肥料設計」がある。それは「宮澤賢治先生を追つて(四)」に載せている次頁のような様式
〝「水稲肥料設計」の様式〟
であり、千葉恭は次のように説明を付している。
羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石位穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究もする様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。肥料設計書の様式は次のやうな、先生独特のものであります。
<『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>
と。
さて、この様式の中には
「大正 年度耕種要綱」
という項目があるから、おそらくこの〝「水稲肥料設計」の様式〟は大正末期に用いたタイプなのだろう。
なおこの〝「水稲肥料設計」の様式〟だが、『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)には未だ掲載されていない<*>のではなかろうか。一般に〝羅須地人協会〟と明記されている資料は多くないと思うが、この〝「水稲肥料設計」の様式〟にはそれが明記されているのに、である。気になる。
<*>佐藤成著『宮沢賢治―地人への道』には載っている。
<表 「水稲肥料設計」の様式 >
様式
水 稲 肥 料 設 計
羅須地人協会
参 照 諸 條 件
作付者 殿 自小作 小作料 反 斗円
所在 郡 村 地等 等上中下田
反別 町 段 畝 歩 乾濕田開田ヨリ 年
地質 紀 岩ニ由来スル 紀積
土性 質土 腐植量 反應 酸中塩基性
窒素 燐酸 加里 石灰
窒素吸収 燐酸吸収
表土 尺 寸 耕土 寸 分 心土
地下水面 尺深 紫雲英 生育ス セズ
日照 反 畝ハ 反 畝ハ
風害 年 度 水害 年ニ 度 鳥害
虫害 病害
灌漑水任意不断冷温下水炭酸鉄ヲ含ム
大正 年度耕種要綱
品種系統 裁植年数 採取
塩水撰 浸種 日 泉池川水質
藥浸 苗代耕土 寸 分 一歩 合播 月 日
苗代肥料 追肥
暖水法 挿秧ノ草丈 寸
厩肥 大豆粕 過燐酸石灰 計
全圃
反当
窒素
燐酸
加里
施用法
金肥反当 円 一歩当リ 銭
挿秧 月 日 寸× 寸 一株 本
除草 月 日 使用 月 日 月 日
灌水ノ深サ 寸 落水 月 日 刈取 月 日
乾燥法
ソノ他特殊事情
大暑草丈 寸 茎数 剛 軟
病害 倒伏 春立 肥切 脱落 鳥虫害
坪刈籾 升 合 反当収量 石 斗
次年度設計 紫雲英ヲ栽培シ
反当厩肥 貫 貫 貫
過燐酸石灰 貫 貫 石灰 貫
ヲ與フ ノ ノ際ハ ノ際
硫安 貫ハ面均シノ直前トス
ソノ他ハ本年度栽培法中※印アル部分ヲ考慮改廃スベシ
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《鈴木 守著作案内》
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