本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治と一緒に暮らした男』 (79p~82p)

2016-02-02 08:00:00 | 『千葉恭を尋ねて』 
                   《「独居自炊」とは言い切れない「羅須地人協会時代」》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
ーコム)
67p 学校を退かれた宮沢さんは、実家から約二キロ離れた花巻市桜町の一角、閑静の地にある宮沢家の別宅に羅須地人協会を設立し、ここで自耕自炊の簡単な生活をするようになった。
(18)『宮沢賢治修羅に生きる』(青江瞬二郎、昭和49年、講談社現代新書)
130p 大正十五年四月、賢治は下根子桜の別荘を手入れしてそこに入り、ひとり住まいの自炊生活に入った。
(19)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(昭和52年、筑摩書房)
593p 四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
(20)『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、昭和53年、東京創元社)
22p 退職すると彼はすぐ郊外の大字根子桜(現在の花巻市桜町)の宮沢家の別宅を多少改造して入り、近くの北上川岸の土地を開墾して畑を作り、独居・自炊・自耕・自活の生活に入った。
(21)『宮澤賢治論』(西田良子著、昭和56年、桜楓社)
「雨ニモマケズ」論
172P 賢治はそれまで勤めていた花巻農学校をやめて、四月から花巻町のはずれの大字下根子小字桜に小屋を建てて、晴耕雨読の独居自炊生活を始めた。
(22)『新編銀河鉄道の夜』(平成元年、新潮文庫)
355p 大正十五年・昭和元年(一九二六)三十歳 四月一日から下根子桜で独居自炊を始める。
(23)『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、平成14年、文春文庫)
185p 一九二六(大正十五)年三月、花巻農学校を退職した三十歳の賢治は、花巻川口町下根子の宮澤家別宅で独居自炊の生活に入った。
以上
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 こうやって並べてみると幾つか気が付くことがある。それは次のような事柄である。
・関連図書を発行年順に並べてみると、早い段階では今では決まり文句になっている「独居自炊」というキャッチフレーズが使われていないことにまず気が付く。当初は殆ど〝自炊〟だけであり、〝独居〟の部分はない。
・一方、年代が下って昭和50年代以降からはほぼこのフレーズ「独居自炊」が「下根子桜時代」を修辞する決まり文句として定着してしまった、の感がある。
・このリストの中での「独居自炊」の初出は昭和28年である。ただしその後もしばらくは殆どの著書においては〝自炊〟だけであり、〝独居〟の部分はない。
 そこで思うことが二つある。
 まず一つ目は、早い段階ではどの著書も揃って〝独居〟という修辞はないから、実は「下根子桜時代」に賢治が〝独居〟生活をしていたという周りの認識はなかったのではないかということである。つまり、〝独居〟ではなかったと思われていた可能性がやはりあるのではないこということであり、長期間賢治と一緒に、それも結構早期の段階から下根子桜で寝食を共にしていた人物(千葉恭)がいたことはもしかすると周知の事実だったのではなかろうか、ということである。ところが時の流れは事実を風化させたり変えたりすることがある。誰かが、それも大きな影響力を持つ誰かが事実と違うことを言い出したりすれば…。その典型的な一つ事例なのではなかろうかと。
 そして二つ目は、少なくとも昭和28年より前には「独居自炊」という修辞は使われておらず、多くは〝自炊〟という修辞が多い。この変化の切っ掛けは一体何だったのだろうか。そこには何かがあるはずだということである。

2 高村光太郎の随筆集『獨居自炊』
 当初は「独居自炊」というキャッチフレーズで修辞されることのなかった賢治の「下根子桜時代」だったが、いまではどんな本でも賢治の「下根子桜時代」は決まって「独居自炊」と修辞されていると言っていいだろう。
 実際、『校本宮沢賢治全集』(筑摩書房、昭和32年版)の年譜では
「四月、花巻町下根子櫻に自炊生活を始め、附近開墾し畑を耕作した」
のように〝自炊〟だけであったのが、時代が下って『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房、平成13年版)の年譜になると例に漏れず
「四月一日(木) 豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊生活に入る」
となっていて、いつのまにか決まり文句の「独居自炊」に書き替えられているのである。
 さて前にも触れたように、
「少なくとも昭和28年より前には「独居自炊」という修辞は使われておらず、多くは〝自炊〟という修辞が多い。この変化の切っ掛けは一体何だったのだろうか。そこには何かがあるはずだ」
という疑問を私は抱いた。
 一方、一般に「独居自炊」が話題になる詩人や作家といえば、私は宮澤賢治そして高村光太郎の2人でありこの2人しか知らない。そこで、光太郎の周辺を探ればそのヒントがあるかもしれないと直感したので彷徨いてみたならば、光太郎のある著書が目に留まった。それはずばり高村光太郎の随筆集『獨居自炊』である。そしてその発行は昭和26年6月であった。昭和26年といえば、昭和20年花巻(太田村山口)に「自己流謫」してから7年目となるから、花巻に疎開していた時の出版となる。
 因みにこの随筆集の巻頭を飾るのが次の随筆で、それこそ題が「獨居自炊」であり、
    獨居自炊
 ほめられるやうなことはまだ為ない。
 そんなおぼえは毛頭ない。
 父なく母なく妻なく子なく、
 木っ端と粘土と紙屑とほこりとがある。
 草の葉をむしつて鍋に入れ
 配給の米を餘してくふ。
 私の臺所で利休は火を焚き、
 私の書齋で臨濟は打坐し、
 私の仕事場で造花の營みは遅々漫々。
 六十年は夢にあらず事象にあらず、
 手に觸るるに隨って歳月は離れ、
 あたりまへ過ぎる朝と晩が来る。
 一二三四五六と或る僧はいふ。
             ―昭和一七・四・一三―
<『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)>
というものであった。
 この随筆集の発行は昭和26年だから、この随筆『獨居自炊』も太田村山口に疎開している頃に書かれたものかと最初は思った。ところが、実はこれは昭和17年4月13日にしたためたもののようだから光太郎は早い時点から自分の生活を「独居自炊」と規定していたということになる。実際調べてみるとたしかに光太郎は昭和14年からアトリエで既に独居自炊生活を送っていたのだった。
 もちろん花巻に疎開してからも光太郎は太田村山口でまさしく「独居自炊」生活をしたいたわけだから、疎開7年目の昭和26年に『獨居自炊』というタイトルの随筆集を出版するのは至極自然で、そのタイトルはさもありなんと当時の人たちは思ったに違いない。そこで私は推理した、
☆この昭和26年の高村光太郎の随筆集『獨居自炊』がこの変化の切っ掛だったのではなかろうか。
と。出版の時期昭和26年というタイミングも、そのタイトルもちょうどピッタリであるからである。
 当初は賢治の「下根子桜時代」の修辞としては使われていなかった「独居自炊」であったが、昭和26年発行の光太郎の随筆集『獨居自炊』の出版が切っ掛けとなり、この時を境にして賢治の「下根子桜時代」に対しても「独居自炊」というキャッチフレーズが冠されるようになっていったのではないかと推測した。他ならぬ高村光太郎のそれであればなおさらに。
 そして、その先鞭をつけたのが『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)であり、小倉豊文が初めて次のように使い始めてからではなかろうか。
 大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。
<『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』の小倉豐文「解説」>
 ただししばらくはこのキャッチフレーズは定着しなかった。ところがいつの間にか、おそらく昭和50年代に入った頃からは次第に定着していったのではなかろうか、と推理してみたのだが…。

あとがき
 えっ違ってたんだ。「独居自炊」じゃなかったんだ!
ということを知ってから始めた千葉恭を尋ねる旅もこのの辺でひとまず終えたい。もうこれ以上のことは現時点では私には分からないからである。
 当初、なかなか入り口の見つからない旅だったが、多くの人のお陰である程度の地点までは辿り着けたと思うし、私自身としては結構稔り多い旅だった。
 これまでに次のようなこと
・千葉恭の出身地
・千葉恭が穀物検査所を辞めた日、復職した日
・千葉恭が松田甚次郎を下根子桜の別宅で直に見てい
た日
・千葉恭は賢治から肥料設計をしてもらったこと
などを明らかに出来たし、
・千葉恭が下根子桜で賢治と一緒に暮らしていた期間をある程度推測出来た
からである。
 いままでは、宮澤賢治は下根子桜時代の二年四ヶ月を独居自炊生活したとばかり思っていたが、調べてみたならばそうとばかりは言えなさそうである。やはり、下根子桜時代の賢治はかなりの長期間、もしかすると下根子桜時代の約三分の一の長きにわたって千葉恭という人物と一緒に暮らしていたようであるからである。したがって、下根子桜時代の賢治は厳密には独居自炊生活であったとは言えなさそうである。
 なお、これだけ時代が下ってしまうと当時の検証は極めて難しいことなのだということをつくづく思い知らされた旅でもあった。とはいえ、逆に言えば今がそれを出来る最後のチャンスなのかも知れないとも思っているので、これからも引き続いて千葉恭に関しては調べて行きたい。必ずや、いまだ知られていない彼に関する資料が眠っているはずだということを期待しながら。
 最後になりましたが、千葉恭を尋ね廻るに当たってお世話になりました安藤勝夫氏、牛崎敏哉氏、菊池忠二氏、イーハトーブ館、大船渡市立図書館、奥州市立胆沢図書館、新庄ふるさと歴史センター、新庄市立図書館の各位、各機関そして現段階では明らかに出来ないが「あるルート」とその担当の方にもそれぞれ感謝を申し上げ、取材に応じて下さった千葉恭のご子息千葉益夫氏及び千葉滿夫氏、同僚の千葉啓氏にも厚く御礼申し上げます。また、いろいろと助言をしてくれた鈴木修氏にも感謝したい。
平成23年11月9日 
著者
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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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