本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(60p~63p)

2016-01-10 08:00:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、『銅鑼』第九號に詩「永訣の朝」を發表した。又上京してエスペラント、オルガン、セロ、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席してフィンランド公使と農村問題について話し合った。
昭和二年(一九二七)  三十二歳
六月、詩「裝景手記」を書いた。
肥料設計はこの頃までに約二千枚書かれた。
九月、『銅鑼』第十二號に詩「イーハトヴの氷霧」を發表した。
上京して詩「自動車群夜となる」を創作した。
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱して來た。
二月、『銅鑼』第十三號に詩「氷質の冗談」を發表した。
三月、『聖燈』に詩「稲作挿話」を發表した。
<『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年7月5日
再版発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(7) 昭和41年発行
大正十五年(一九二六) 三十歳
十二月四日 上京して神田錦町三丁目十九番地上州屋に間借りした。
上京の目的は、エスペラントの学習、セロ、オルガン、タイプライターの習得であった。
十二月十二日 神田上州屋より父あて書簡。
 ――今日午後からタイピスト学校で友達となつたシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出て見ました。
昭和二年(一九二七)  三十一歳
六月 裝景手記
   月末までに肥料設計は二千をこえた。
九月 『銅鑼』第十二号に「イーハトヴの氷霧」を発表。
昭和三年(一九二八)  三十二歳
二月 『銅鑼』第十三号に詩「氷質の冗談」を発表。
三月 花巻の人梅野健三氏編集の『聖燈』に詩「稲作挿話」を発表。
<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、
昭和41年3月15日発行)より>
(8) 昭和44年発行
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、『銅鑼』第九號に詩「永訣の朝」を掲載。
月初めに上京、二十五日間ほどの間に、エスペラント、オルガン、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席、フィンランド公使と農村問題、言語の問題について話し合ったり、セロの個人授業を受けたりした。
昭和二年(一九二七)  三十二歳
六月、「裝景手記」を書く。
肥料設計はこの頃までに二千枚書かれた。
九月、『銅鑼』第十二號に「イーハトヴの氷霧」を發表。
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥(<*>)料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱してきた。
二月、『銅鑼』第十三號に詩「氷質の冗談」
を發表。
三月、『聖燈』(發行所花巻町)に詩「稲作挿話」を發表。
<『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房、昭和44年3月
第二刷発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
<* 筆者註> 
  肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱してきた。
とあるが、旧字体で記載されてあることから推してここは以前のものをそのまま使ったと思われる。
(9) 昭和52年発行
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
一九二七(昭和二)年 三一歳
九月一日(木) 「銅鑼」第一二号に<イーハトヴの氷霧>を発表。
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。
<『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房、昭和52年
10月30日発行)「年譜」より>
(10) 平成13年発行
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。 ……………○現
一九二七(昭和二)年 三一歳
九月一日(木) 本日付発行の「銅鑼」第一二号に<イーハトヴの氷霧>を発表。
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
二月九日 湯本村伊藤庄右衛門の依頼をうけ、農事講演会に出席。堀籠文之進のあとを受けて講演
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。
     <「新校本年譜」(筑摩書房、平成13年12月10日発行)より)>
以上
 「宮澤賢治年譜」の変化
 このように並べてみると、まず第一に言えることは、関登久也の『宮澤賢治物語』が昭和31年に『岩手日報』に連載される以前の「宮澤賢治年譜」のいずれにおいても、昭和2年の賢治については
  ・九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
と記されていたのだが、この新聞連載の時期をほぼ境としてこの事項が消滅していったという不思議である。つまりこの連載を境として、以降、賢治は「宮澤賢治年譜」上では昭和2年には上京していなかったことになっていったということである。
 その第二は、同じくそれまでは昭和3年の1月においては
  ・過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
とあったのが、ほぼ時を同じくして消え去ってしまったことである。
 先に私が「二つの事項に着目して抜き出して」といった「二つ」とはこれらの二つの事項のことであったのである。
 したがって、ここまでを振り返って見てみれば、
 関登久也の『宮澤賢治物語』が新聞連載された頃を境として、それまで通説になっていた「賢治年譜」が大きく書き変えられ、澤里の証言が当てはまらないような新たな「賢治年譜」が作られていった。
という見方ができることになる。
 なお注意深く見てみれば、先の【表6】の中の「(6) 昭和32年発行」がその境目であり、過渡期とも言えそうだ。なぜならばそれまでは次の二つの事項「上京、詩「自動車群夜となる」を創作す」及び「漸次身體が衰弱してきた」についてはそれぞれ「九月」「一月」と月が限定されて明記してあったのに、(6)ではそれらが明記されず、それ以降のものは事項そのものまでが消え去っているからである。
 ということは、この「昭和32年」とはもしかすると何か重大なことが起こっていた年なのだろうか。それまでの流れが大きく変化していったのは何故なんだろうか……。
 この不可思議な経緯こそが、私がつぶやいた「いや、もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになった」の意味である。したがってこれらのことに鑑みれば、大正15年12月2日の「現通説」は歴史的事実に基づいていないのではなかろうかという指摘を実は澤里の証言自体がしており、その検証をせねばならぬという問題提起がそれこそ澤里によってなされているという見方もできよう。
 沈黙する澤里に
 一方その澤里についてだが、『チェロと宮沢賢治』の中に次のようなことが述べられている。
 遠野市芸術文化協会の会長、登坂慶子さんは幼いころから、向かい側に住む学校の先生の先生の家に遊びに行って、よく話を聞かされた。
 この先生の話は「ミヤザワケンジという先生がいてなあ」というもので、登坂さんはミヤザワケンジは先生の先生程度にしか思っていなかった。が、そのミヤザワケンジが東京にチェロを習いに行ったとき、自分が花巻駅までチェロをかついでいった、という先生の話をいまでも覚えている。そのうち向かいの先生が結婚して、あまり遊びに行かなくなったが、ミヤザワケンジという人はいつの間にか世の中で有名人になっていた。そうなると向かい側の先生はどういわけか、ミヤザワケンジのことを口にすることがなくなった。再びミヤザワケンジの話をするようになったのは、晩年になってからである。
 この先生こそ賢治の愛弟子、沢里家に養子に迎えられた沢里武治なのだ。…(中略)…
 沢里が晩年になって再び賢治のことを話すようになったのは、実弟清六さんの許しを得てからという律儀さだった。それまでは神様のように尊敬していた賢治のことを自分には語る資格がない、傷つけてはいけないと思っていたようだ。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)
239p~より>
 この登坂さんという方は私も存じ上げており、聡明なご婦人である。その方の澤里武治に関する証言を知り、澤里の身の処し方の意味がわかったような気がした。また同時に、上掲の後半部分の横田氏の見解になるほどと私は合点がいった。
 そういえば、以前に澤里武治の長男裕氏の証言
 近しい人に対しては別として、父は一般的には公の場で賢治のことをあれこれ喋るようなことは控えていた。一方、家庭内では興が乗ると賢治の真似をし、身振り手振りよろしく賢治の声色を真似て詩を詠ったものだったが。
があることを述べたが、このこととも符合する。たしかに、ある時期から澤里は賢治のことに関しては沈黙するようになったということが言えそうだ。ただし家の中ではそうでもなかったようだが。
 なおこの澤里の沈黙に関しては、後程、第八章の中の「緘黙する澤里」で再考したい。
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