◇功徳と悪徳◇
存在の成長には功徳を積むことが大事であるという類のことがよく言われますが、実はこれは誤りなのです。
功徳はむしろどうでもよいくらいのことで、重要なのは悪事を行わないことなのです。
一つでも悪事を行ってしまうと、いくら善い行いをしても帳消しになることはありません。
一点の汚点が取り返しの付かないことになることもあります。
この世界、即ち私という存在はそのように出来ていると私は考えています。
それはどうしてなのか、少し説明します。
善い悪い等の概念は二元的な囚われですので、本来そのような基準はありません。
ですから、行いが誰かに評価されたり、裁かれることもありません。
ではなぜ、悪行はいけないのか。
私は、人として生まれてくる存在は、本性(本心と言ってもいいです)として善的志向を持っていると考えています。
誰しも、根の部分では人に迷惑を掛けたくはないし、傷つけたくはないのです。
できることなら、善いことをしたいのです。
どんなに悪事を重ねているような者でも、根の部分ではそうなのです。
ですから、本心に背いて悪事を働くと、根の部分で自分が自分を許せず、自責、後悔により、深く苦しむことになるのです。
そして、それは後の世に影響し、何世も苦しむことになるのです。
私たち個々の世は、過去世で蓄積された印象(業と言ってもいいです)が大きく影響していると私は考えています。
この印象は、善いことをしたときは殆ど残らないくらい薄いのに対し、本心に背いて悪事を働いてしまったときは深くしっかりと残ってしまうのです。
このため、いくら善行を重ねても、悪事を帳消しにすることはできないし、たった一つの悪事が大変な傷として残ってしまうのです。
ですから、私たちは自らの本心に向き合い、慎重かつ丁寧で生きる必要があるのです。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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功徳はむしろどうでもよいくらいのことで、重要なのは悪事を行わないことなのです。
一つでも悪事を行ってしまうと、いくら善い行いをしても帳消しになることはありません。
一点の汚点が取り返しの付かないことになることもあります。
この世界、即ち私という存在はそのように出来ていると私は考えています。
それはどうしてなのか、少し説明します。
善い悪い等の概念は二元的な囚われですので、本来そのような基準はありません。
ですから、行いが誰かに評価されたり、裁かれることもありません。
ではなぜ、悪行はいけないのか。
私は、人として生まれてくる存在は、本性(本心と言ってもいいです)として善的志向を持っていると考えています。
誰しも、根の部分では人に迷惑を掛けたくはないし、傷つけたくはないのです。
できることなら、善いことをしたいのです。
どんなに悪事を重ねているような者でも、根の部分ではそうなのです。
ですから、本心に背いて悪事を働くと、根の部分で自分が自分を許せず、自責、後悔により、深く苦しむことになるのです。
そして、それは後の世に影響し、何世も苦しむことになるのです。
私たち個々の世は、過去世で蓄積された印象(業と言ってもいいです)が大きく影響していると私は考えています。
この印象は、善いことをしたときは殆ど残らないくらい薄いのに対し、本心に背いて悪事を働いてしまったときは深くしっかりと残ってしまうのです。
このため、いくら善行を重ねても、悪事を帳消しにすることはできないし、たった一つの悪事が大変な傷として残ってしまうのです。
ですから、私たちは自らの本心に向き合い、慎重かつ丁寧で生きる必要があるのです。
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