私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

久しぶりに近況など

2019年05月08日 21時30分27秒 | 個人的なこと
◇久しぶりに近況など◇

お久しぶりです。
約半年ぶりの投稿です。

私は元気にしています。
仕事も、職場がいろいろボロボロでして、そんな職場に対して泣き言を言いながらも続けています(笑)。
もう大分嫌になってきてはいますが、まだ続けられそうです。
基本は定年まで続けようと思っています。

昨年末から、FXを頑張ってます。
FXを頑張ってみようと思ったのは、私の好きな下げ相場の雰囲気が出てきたのと、自分のトレード能力を試してみたい(ゲーム感覚ですね)と思ったのと、大金を手にしてみたいと思った(笑)からです。
成績は、それが苦戦中でして(苦笑)。
トントンかちょっとだけ儲かってる感じ。
やっぱり相場は難しいなぁと実感してます。
相場には相場に対する集中力と徹底的にやるんだという決意が必要なのですが、そこがちょっと弱いのが難点でしょうか。
直ぐに甘くなってしまって、負けてしまいます。

身体の状態については、2012年12月の明け渡し体験からゆっくりと体質の改善が続いています。
現状は、花粉症がまだ結構厳しいのと、血圧がまだ少し高いのと、腎臓機能が低下したままなのが課題です。
その他の変化としては、脚にあった直径約1センチ弱のほくろがここ半年で急に盛り上がってきたと思ったら、最近になって硬化して瘡蓋のようになってきて取れそうです。
昨年の頭にあったイボが取れたのに続いて、ほくろやイボが取れていきます。

性格的な変化も続いています。
基本的には相変わらずいいヤツではあるのですが、徐々に素の自分を出していくようになってきています。
ただ、いま出てきている素の部分が、激しい部分や、破壊的な部分、もっと言えば少し攻撃的な部分でして、これには上手く言えませんが、自分でも少し戸惑っていると言いますか、まだ不慣れというか、そんな感じです。
そう言えば思い返すと、小さい頃から自分の中に、攻撃的なまでの強い破壊衝動があったのです。
それがいま、表出してきているのかも知れないと思ったりもしています。
この傾向は、まだまだ続きそうな感じがしています。

取り留めのない内容ですが、今日はこの辺で。
また書きますね。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


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読んで頂いてありがとうございました。

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23 コメント

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メールアドレスに送れなかったのでコメント欄に書かせていただきます。 (高橋)
2019-05-18 20:53:27
お久しぶりです、以前skypeでお世話になった高橋です。慧空さんとの最初のセッションの中で鬼和尚が提唱されている「無認識」という悟りの段階があるらしいと私は言いました。

なんですが、一度「慧空さんが無認識になれるかどうか」試していただけないでしょうか?

一応無認識について鬼和尚が説明されている記事を下に貼ります。
下のリンク先のブログで赤文字で大きな文字で書かれている箇所です 。

http://onioshyou.blog122.fc2.com/category3-5.html


鬼和尚自身、無認識という目覚めの段階は彼自身が認識を厭離(=無認識)した後、非二元の本を読み漁って自身の体験と照らしてそのような目覚めの段階がある、と認識したそうです。そして「無認識」を大悟、「無我」を小悟として無認識を目覚めの最高の段階として提唱しています。

私自身としては慧空さんが無認識へ至っても至らなくても関係ないのですが、もし無認識という段階が「確かにある」なら慧空さん目線とてつもなく大きな見逃しをしていることになる、と感じたので今回話を伝えに来た次第です。

鬼和尚は無認識という段階へ至るにはまず観照が起こり無我に至り(この段階は慧空さんはクリアしていると思われます)その後、認識の働く作用を観察すれば認識(阿頼耶識)が厭離(手放し)されるそうです。

認識の働く作用というのは例えば目の前のりんごを「りんごだ」と瞬時に記憶と照合し認識する作用を観れればいいそうです。
認識を観察できる段階であろう慧空さんならこれほど簡単なことはないと思いますので、「無認識」という段階があるのかどうか一度トライしてみてはいかがでしょうか?

鬼和尚が「認識を観るとはどういうことか」を解説している箇所をネット掲示板から引っ張ってきました、下に記載します。

「何かを観たり聞いたりすれば、その特徴から記憶が照合されるのがわかるじゃろう。
それが認識されることとされているのも気づくのじゃ。
無我であればもはや認識の働く早さに関係なく詳細に観られるのじゃ。
記憶から認識したということもわかり、それを認識としていることもわかるのじゃ。
実際には記憶を観ていると気づくのじゃ。
言葉通りではないがのう。
実践によって確かめるのじゃ。」

「例えば感覚を観察し、厭離する時、その機能を観察し器官を観察しその働き等を観察するということをするのじゃ。
視覚ならば目という器官を観察し、目による機能を観察し、見るという領域等を観察するのじゃ。
そのように詳細に観察して厭離も起こるのじゃ。
認識もその通りに認識するものと、認識の働きと、認識の働く領域等を観察すれば完全に厭離できるのじゃ。
人によっては半分でも観察することで認識にきづき厭離が起こることもあるじゃろう。」



とのことです、無我にならないと自我(鬼和尚は自我という言葉を自己同一化の観念と定義しています)が障壁となり認識の働くプロセスを観ることはできないが、無我になれば(観照が起こってしまえば)容易に認識の働くプロセスを観れるそうです。
返信する
高橋さんへ (慧空)
2019-05-18 22:43:00
コメントありがとうございます。
上の高橋さんの文章と、リンク先の鬼和尚のページの文章を読みました。
鬼和尚の言葉と私の概念の定義というか捉え方が少しずれているなと感じたのと、鬼和尚の言う認識が厭離(手放し)された状態に対する説明が余りなく、そこが特に分かりにくいと感じましたが、なんとかお答えしてみますね。

まず鬼和尚は、観照が起こったら無我に至ると言っています。
この観照が起こった状態を無我と言うのは、賛成できませんが、私は観照を知ってしる(体験している)ので、この部分については分かります。

次に、認識が自己同一化という意味での自我を生じさせているという点についても、分かりますというか、知っています。

最後に、その認識が厭離した状態についてです。

以下、引用です。
>自我が無くなっても、未だそれを観るものがある。
>自我によって認識があるのではなく、認識によって作られていたものが自我なのだから、自我が無くなっても未だ認識はある。
>その自我を作っていたものこそ、阿頼耶識に他ならないのじゃ。
>自我が消えた後も、未だそれを観ている阿頼耶識を厭離しなければ、大悟徹底とは言えないのじゃ。

上記の引用部分の最後の部分「自我が消えた後において、未だそれを観ている阿頼耶識を厭離する」についてですが、いまの私はその状態です。
観照が落ちています。

しかし、おそらく鬼和尚が言う阿頼耶識を厭離した状態と私のこの状態と全く異なる状態なのだろうと思います。
鬼和尚は、「大悟徹底すれば更なる無為、平等、大円鏡智、 妙観察智などの智恵や境地が輝き現れる」などと言っていますが、私には無為、平等、大円鏡智、 妙観察智には当てはまりませんから(笑)。

無為、平等、大円鏡智、 妙観察智ですか、、、
そういうものではないんですよ。
返信する
補足です (慧空)
2019-05-19 09:02:43
昨晩はいつもの寝る時間を過ぎてしまったので、とりあえずエイヤとまとめてアップしてしまいました。
ちょっと説明不足な部分がありましたので、補足しますね。

鬼和尚が言う観照が起こった状態で、感覚、思考、感情、記憶の照合等が起こる様を観察するという取り組みは、私もやったのです。
それこそ、徹底的にやったのです。

問題はここからです。
鬼和尚は、そのような観察により認識からの厭離が起こると言っています。
鬼和尚は、その認識が落ちた状態のことを無認識と言っているのだと思います。
しかし、ここがいまひとつ不明確であり、鬼和尚の理解の甘さを感じるところです。

このあたりのことについて、少し説明してみますね。
観照が起こっている状態で様々の事象を観察しているとき、そこには、観照しているもの(視点)と、その観照の対象となる事象との間に分離(正確には分離しているという感覚)があります。
この状態を鬼和尚は小悟と言っているようですね。
私もこの状態を小悟と言っていて、ここまでは、鬼和尚の理解と一致しています。

問題はここからです。
その観照が起こった状態からさらに悟りが進むと、観照が落ちると言うか、観照の視点が落ち、対象だけになると言うか、主客の統合が起こる悟りの通過点に至ります。
鬼和尚は、これを無認識と言っているのかも知れませんが、おそらく違うのではないかと私は感じています。
なぜなら、もしそれを知っているのなら、もっとそれらしい言葉を発するはずだと思うからです。

観照が落ちても、追求はさらに続きます。
そうした追求の先に、自分自身を含めたこの世界は、識の連鎖であることを理解します。
私はこの理解を大悟と言っています。

しかし、悟りの行程にはまだ先があるのですが、今日はこのあたりで止めておきます。
返信する
返信ありがとうございます。 (高橋)
2019-05-21 10:47:49
なるほど、慧空さんはそのように思ってらっしゃるんですね。

鬼和尚いわく
「認識(阿頼耶識)を厭離すればすべての観念(これはパソコンだ等)が厭離される」
と言っていました。ゆえに鬼和尚には
「男女の区別もない」らしいです。「男女の区別(これは男だ、これは女だ)」なんて細かな観念は普通の探求者は手をつけないとおもいます。

でも鬼和尚は認識を厭離しているから男女の区別も同時になくなったと、そういう訳らしいです。

これは単なる鬼和尚の思い込みとは思えません。
返信する
高橋さんへ (慧空)
2019-05-21 13:54:54
>これはパソコンだ等が厭離される

鬼和尚はそんなことを言っているんですね。
困ったもんだ。
鬼和尚には、まだまだ囚われがあります。
そんな寝ぼけたことを言っているようでは、気づけないでしょうが。

高橋さん
あなたも、無用なお節介はやめた方がいい。
私のことより、あなた自身のことをもっと考えた方がいい。
返信する
Unknown (高橋)
2019-05-21 16:24:49
わかりました、ありがとうございました。
返信する
鬼和尚の件に関連して (慧空)
2019-05-21 16:33:23
今回の鬼和尚に関連したやり取りで思ったことを2点ほど書きます。

1点目は、鬼和尚のいう無認識についてです。
「無認識」であると言ってるのは、鬼和尚です。
そう言っているからには、「無認識」であるという認識、あるいは理解が生じはずです。
「無認識」を認識している「無認識」とは、これ如何に。

2点目は、コメントです。
悟りの行程において、自我や分別が消失したと言い出す人がちらほらといます。
鬼和尚もそういう方々の一人のようです。
どうも、悟りの行程の途中に、無我や無分別に関する思い込みが生じてしまう特殊な境地(魔境のひとつと言ってもいいでしょう)があるようです。
原因はおそらく、無我や無分別に対する強い思い込みによるものなのだろうと思います。
返信する
Unknown (高橋)
2019-05-21 17:03:16
1点目については私もおかしいと感じています。
その点について鬼和尚自身ある見解を示しており、その内容は
・仮の自我を作れば生活自体は送れる

・認識に自己同化した意識が厭離されるのであって認識そのものが根本的に消失するわけではない

というものです。「仮の自我」とはどういうことかは私もわかりません。

それから認識そのものが厭離されないならなぜ「これはパソコンだ」という観念が厭離されるのかの説明がつかない

そう感じています。

返信する
高橋さんへ (慧空)
2019-05-21 17:15:44
>1点目については私もおかしいと感じています

だったら、わざわざ私のところに鬼和尚の「無意識」を持って来なくてもいいでしょうにw
まあ、いいでしょう。

>仮の自我を作れば生活自体は送れる

なんじゃそりゃ。
恥ずかしげもなくよく言えるなぁ。
自分の言っていることがどれほど出鱈目なのか、分かってないようですね。

>認識に自己同化した意識が厭離されるのであって認識そのものが根本的に消失するわけではない

はい。
これなら合っています。
しかし、鬼和尚の理解はまだまだですね。
一貫性がなく、ちぐはぐこの上ない。
返信する
Unknown (高橋)
2019-05-21 17:39:06
私にとっては鬼和尚が正しいと思っていたんで多少おかしいと感じるところはあっても慧空さんに伝えた方が何も伝えずに黙っているよりいいかなと思ったんです。

それでは、これで失礼します。
返信する

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