◇自覚の手応えは腑に落ちるまで◇
ここ何週間か、自覚や私を捉えることの手掛かりについて、何かよいヒントになるものはないかと考えていました。
この点について、やっと今の私なりの結論に到達しましたので、書いておきたいと思います。
自覚とは、最も単純化して言えば、私に意識を向けることでです。
しかし、その肝心かなめの私は、あるとも無いとも言えない捉えどころのないものです。
ですから、そもそもところ、私に意識を向けることも、私を捉えることも、とてもやり難く、困難なことなのです。
そこを敢えて取り組んでいこうとするのが、自覚なのです。
ですから、自覚の行程は、ああでもない、こうでもないという手探り、試行錯誤の連続となります。
自分の感覚だけが頼りです。
しかし、そのような暗中模索の行程にも、時折、確かな手応えを得られるときがあるのです。
例えば、「私がこれをやっているんだ!」とか、「私が考えに囚われていたんだ!」とか、「私がそう考えていたんだ!」ということに、ハッキリと気づいたり、それが腑に落ちるときがあるのです。
これは自覚を続けていれば、必ずあるのです。
どうか、その手応えが得られるまで続けていただきたいと思うのです。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッション、10時間個人セッション等のご案内は、こちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
あるともないともいえない自己を、あるともないとも言えないまま、「注意と共に置いておく」(leave it as it is with caution)という感じでいると、目の前の風景がクッキリハッキリしてきました。感覚的で、うまく言葉で言えないんですが、そういう感じでやっていこうと思います。
そのニュアンス、伝わってますよ。
気付きの意識(観照意識)に触れておられるのだろうと思います。
「観ているのは、誰だ!」
ハートという言葉は、「胸」という意味と、「中心」「真ん中」という意味がありますよね。
善悪、損得、正誤、美醜、物質と精神、そういう片側を握ってジャッジしないと、「真ん中」に行けますね。
観照の意識の入り口に帰ってきた感じです。
知らなかったw
でも、私の中心、意識の中心、世界の中心ということで間違いないです。
>そういう片側を握ってジャッジしないと、「真ん中」に行けますね
そうなんです。
ハートの中心、あるいは意識の中心を捉えるには、善い悪い等の二元の囚われを手放す、受け入れる、あるいは呑み込む必要があるのです。