私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

解脱者の入滅と他者との関連

2024年09月17日 15時43分55秒 | エッセイ
◇解脱者の入滅と他者との関連◇


今回の話題に関連して、大分以前に、ある思索(1)(2)という記事を書きました。
つい先日、その記事を読んで頂いていることがわかりまして、改めて自分も読んでみました。
当時に比べて私の中でいろいろ整理が進み、わからないなりにスッキリとした部分がありますので、今回それを記事にしてみようと思いました。
今回の記事のお題は、解脱者が入滅するときに、一切が消えてしまうのか、それとも何か残る、あるいは何が残るのかというところです。

まず初めに、今回の話の前提の部分について書きます。
実は本質的なところで、解脱や入滅ということがどういうことなのかは、誰にもわからないのです。
例えば、釈迦は解脱したと言われていますが、本当に彼が解脱していたのかは誰にもわからないのです。
そして、仮に彼が解脱していたとして、その死に伴って釈迦という存在がどうなったのかも誰にもわからないのです。
私自身についても、自分自身が本当に解脱しているのかどうか、実のところはハッキリしないのです。
これ以上先の悟りは無さそうだということと、これ以上はどうしようもない、ということがわかっているだけなのです。
このようなところを前提として、話を進めたいと思います。

まず、議論のお膳立てから始めたいと思います。
それは、他者の存在についてです。

悟りの行程を歩む過程で、おそらく多くの方(全員かも)が通過するポイントがあります。
それは、世界(宇宙)に存在しているのは自分だけ、あるいは、一人に一つずつ世界(宇宙)があると理解するポイントです。
この理解はそれなりに本質を突いているのですが、この理解に関連して、起こる疑問があるのです。
それは、自分自身はそれなりに存在しているように思うのだけど、他者は存在しているのかどうなんだろうということです。
他者が存在しているように感じるのは、自分がそう認識しているだけなんじゃないのかという疑問が起こるのです。

結論から言うと、その疑問はいくら追及しても答えは得られないのです。
いくら追及しても、自分自身のことさえ存在しているのかどうかわからないのですから、他者のことなんてもっとわからないのです。
しかし、この点について私(慧空)としては、自分自身についても他者についても、断定はできないけど、存在していると考えるのが妥当だろうと考えています。
ここからは、自分自身の他に、他者も存在すると考えて話を進めます。

もう一つのお膳立てとして、自分自身の世界と他者の世界の関係について書きます。
悟りの行程の後半にて、私とは意識であり、世界そのものであると理解するポイントあるんです。
その悟りの観点から見て、自分自身の世界と、他者の世界とはどう関係しているのかというところが問題というか、謎なんです。
この謎は、おそらく本質的に解明不可能な問題なのだろうと思うのです。
それでも、その核心部分に少しでも触れられないかと思い、考えを巡らせているのですが、なかなか手強い問題なのです。
私のなんとなくの感触ですが、個々の存在の世界は、互いに重なり合いその多くを共有し合うように存在していてるのではないかと考えています。

さらにもう一つのお膳立てとして、個々の存在の発生と消滅についてです。
私は、存在(意識)には始まりと終わりがあり、その両端を繋ぐ成長の過程があるのだろうと考えています。
そして、その発生のタイミングや、成長の過程の長さや、終わりのタイミングは個々に異なるのだろうと考えています。
ちなみに、存在の終わりは解脱に伴う入滅というそれなりの原因のようなものを考えることができますが、始まりについては、それがなぜ起こったのかは残念ながら誰にも決してわからないことなのです。

次にやっと、本題についての話に入っていきます。
ちなみに、ここまでの話と同様、ここからもバリバリの想像と推測の話です。

存在が発生すると、先に発生している存在の世界との共用が始まります。
多くの存在にとって、その存在が発生したとき、その発生に伴って世界が発生するのですが、既に他の存在が先にあって、その存在たちと共有するような形で、その世界の展開が進んでいくだと考えています。
つまり、多くの存在にとって、その存在が発生したときには既に世界がそれなりに形成されており、その形成された世界を共有する形でその後の展開が進んでいくのだと考えています。
しかし、一番最初に一つ又はいくつかの存在が発生したときには、世界はまだ何も無い世界だったのではないかと考えています。
現在のような複雑な世界は、存在たちの途方も無く長い意識活動の結果、創り出されたのだろうと考えています。

そして、解脱に伴い存在が入滅するとき、その存在とともにその存在の世界が消滅するのだろうと考えています。
そのとき、消滅するのは滅人する存在の世界だけであり、他者の世界は継続して展開していくのだろうと考えています。
入滅する存在の活動により生じた世界に対する痕跡というか影響は、他者の世界に波及し、展開を続けていくのだろうと考えています。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツイート記事(20240905~)

2024年09月17日 15時01分55秒 | その他
◇ツイート記事(20240905~)◇

<9月5日>
◇今回の米騒動の関連
今回の米騒動は、裏で誰かが仕掛けたものだと考えています。
奴らがどこまで意図しているかはわかりませんが、今回の件はインフレと食糧危機の切っ掛けになるのではないかと考えています。
インフレは間違いないのではないかと考えています。
政府はカネを刷りまくり、市場に垂れ流しつづけてきてますから、インフレは必然であり、切っ掛けがあれば直ぐに起こります。
インフレが起きても、垂れ流したカネを吸い上げるのも無理ですし、金利を上げるのも無理ですから、どうしようもありません。
食料危機については、いずれ奴らが何か仕掛けてくるのではないかと考えています。
来年あたりか。

来年あたり国内が混乱するかもしれませんが、経済や人民統治が崩壊するのは、巨大地震でもない限り、日本が最初ではないと考えています。
主要国の中では、中国かアメリカが先で、その後、それが他の主要国に連鎖するのだと考えています。

<9月11日>
◇丁寧に生きる
私はブログで丁寧に生きてくださいなんて偉そうに書いていますが、自分はどうなんだろうと、今日ふっと我が身を振り返りました。
現在の私は日常生活では結構短気なところがあり、めんどくさがりで、結構雑というか荒っぽいところがあります^^;
ひょっとして、人には偉そうなことを言っておきながら、生き方も結構荒っぽいのかもしれないなぁと思ってしまいました。

それに、生き方の丁寧さってどう捉えたり、評価したらいいのかとも思い、難しい問題だなぁと思いました。
何か思い付いたら、また書くことにします。

<9月14日>
◇兵庫県知事の件と印象操作
兵庫県知事の辞職問題で騒がしくなっていますが、この件はおそらく奥があり、複雑な利害が影響しているのだろうと考えています。
実は私も、つい最近まで報道を殆ど鵜呑みにして兵庫県知事はしょうがいないヤツだと考えていました。
しかし、頑なに辞職をしない知事の様子や、核心的な情報が出てこない状況など、どうも不自然なところが多いなと思っていました。
そして、つい先日、ネットを見ていたらそれらしい裏側の情報が目に留まりました。

報道等では、知事はとんでもない問題人物とされていますが、おそらく真実は違っていて、
知事の言動にも問題は無いことは無かったのでしょうが、マスコミの印象操作が相当入っているのだろうと考えています。
知事はいくつかの利権問題の是正に取り組もうとしたいう情報があり、今回の騒動の根っ子はそこだろうと考えています。

で、何が一番言いたいのかと言うと、
マスコミ等による私たちの印象操作はかくも簡単に行われてしまうのだということです。
改めて、愕然とした次第です。

<9月16日>
◇心に刺さることを書きたい
私はこのブログを何年も熱心に書いているのですが、どうして書いているのかが自分でもよくわからいところがあるんです。
でも、やろうとしていることはそれなりにハッキリしていて、
一つは、悟り世界の地図のようなものを誰でもアクセルできるように、そして誰でもそれなりにわかるような形で開示することです。
もう一つは、心に刺さることを書きたいということです。
特に二つ目の心に刺さることを書きたいという気持ちは強いものがありまして、何をどう書いたらより心に刺さるのだろうと日々考えています。
この熱心さは何なんでしょうねw
人のことなんて放っておけばいいのに^^;
性分なのでしょうねぇ^^;

普通は一人で悟った人の多くはそのままひっそりと死んでいくのだと思うのです。
解脱に関する情報が文献等に殆ど残っていないのは、そういう理由もあるのではと思うのです。

最近、自分自身について気づいたことがありまして、
私はどうやら人が好きなようなのです。
むしろ、人が嫌いなのかと思っていたところがあるのですが、どうやら逆で、人が好きみたいなんです。
あと、動物や植物も好きみたいです。

その辺りのことも、私のこのブログ活動に関係しているのかなと思ったりもしています。

<9月17日>
◇骨折する
個人的なことなのですが、先週金曜日に農作業中に事故ってしまいまして、右足首の上を骨折してしまいました^^;
事故ったときに、足首からバリっと小さな音がした感じだったので、もしかしたら骨折もあるかと思って、今日になって、念のために病院に行ったのですが、見事に折れてました^^;
昨日は無理やりネギの土寄せ作業をしたのですが、痛いし、身体はしんどいしで、こりゃダメだと観念して医者に行くことにしました。
明日、総合病院に行ってCT撮って手術が必要かどうか診断してもらい、治療方法を決めることになります^^;
私としては、基本、手術はしない方針ですが、様子次第かなぁ。

農業の収穫作業が始まったところで、こんなことになってしまい、状況としてはかなり厳しい状況なのですが、
なってしまったものは仕方ない、出来ることをやっていくのみ、という具合に、とても落ち着いています。
普通の人とは大分違っているだと思います。

しかし、事故を起こした13日の金曜日は、身体が限界を超えるしんどさの中、無理やり作業を続けていたんです。
自分でも、今日はもう作業をやめた方がいいんだろうなぁと思いながら作業を続けていたんです。
そして、朦朧としながら力の強い管理機の作業を始めたところで、機械の操作を誤ってしまい、機械に脚を敷かれてしまいました。
限界だと思ったところで、作業を止めるべきでした。
少なくとも危険を伴うような機械作業は止めるべきでした。
反省しています。


 
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする