私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

無常無我苦と私

2024年08月26日 14時15分10秒 | 悟り
◇無常無我苦と私◇


つい最近、無常無我苦は私のことを言っているのだと改めて納得したところがありまして、記事にしてみようと思います。

悟りの捉え方は種々ありますが、悟りとは私を知っていくことだと言うこともできます。
その過程で、無常無我苦に関する理解が自ずと進んでいきます。
重要なのは、無常無我苦が私というものの別のところにあるのではなく、私そのものを言っているのだというところです。

私という存在は、意識であり、この世界そのものであり、微細に見ると映画フィルムのコマのようにパッパッパッと連鎖的に連なる識です。
そして、この識の連鎖のことを縁起と言います。
このような私と、無常無我苦の関係について説明してみたいと思います。

まず、無常無我苦についてのおさらいから。
無常とは、ものごとは常に移り変わっていくものであるということです。
無我とは、一切のことがらに実体(あるいは絶対)が無いということです。
苦とは、一切のことがらは苦であるということです。

早い話が、私、即ち世界とは連鎖的に連なる識であるということが腑に落ちてしまえば、連鎖的に生滅する識は幻のようなものですから、無常と無我についての理解は自ずと伴って来るのです。
これはシンプルで明白なことなんです。

無常、無我と識の連鎖と関係について、念のために簡単に説明しますと。
識は留まることなく、次々と連鎖的に展開していきますから、識、即ち無常となる訳です。
また、識は幻の如く生滅を繰り返しますから、識、即ち無我となる訳です。

無常、無我に関する理解がややこしくなるのは、悟らずとも日常的な考え方の範疇でそれらの考え方に触れられるからだろうと思います。
このため、誤解が生じたり、わかった気になってしまいやすいのです。

次に、苦についてですが、これがやっかいなのです。
苦はある意味、無常、無我よりも日常的な概念や感覚としてそれに触れられるものです。
このため、無常、無我よりもさらに誤解が生じやすく、わかった気にもなりやすいのです。

しかし、苦は無常、無我よりもさらに深淵なのです。
なぜなら、識の連鎖である縁起を悟ってもなお、苦の理解には届かないからです。


苦についてどう説明しようかと考えていたのですが、途方に暮れてしまいました。
端的に言えば、私、即ちこの世界そのものが苦なのです。
連鎖する識の一つ、一つが苦なのです。
これをなんと説明したらよいのか、残念ながら私(慧空)には言葉がありません。
説明のための何かよい言葉を思い付いたら、書きたいと思います。
尻切れトンボですが、今回はここまでとします。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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読んで頂いてありがとうございました。

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