写真で綴る気ままなすぎさん

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上野東照宮 参道

2022年09月21日 07時27分00秒 | 東京散歩

上野東照宮 徳川家康公の遺言により 1627年、藤堂高虎と天海僧正によって、東叡山寛永寺の屋敷地であった上野に1627年に東照宮が造営された。1646年には正式に東照宮の宮号、1651年に三代将軍・徳川家光公が大規模に造営替えをした。現存する社殿で、金箔をふんだんに使い、大変豪華であった事から「金色殿」とも呼ばれている。 東叡山寛永寺の一部でしたが、戦後神仏分離令により寛永寺から独立した。 その後、戦争や震災などにも焼失せず一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物です。

大石鳥居 1633年(寛永十年)酒井忠世奉納 国指定重要文化財 ★石材には備前の御影石を使用。関東大震災の折にも少しも傾かなかったほど工事が頑丈だったそうです。

中門

入ってすぐには、上野東照宮ぼたん苑

石灯寵 200基以上、ほとんどが現在の金色殿の建築の年1651年(慶安四年)に諸大名より奉納。大石鳥居の脇にある大きな灯寵は1631年(寛永八年)に佐久間勝之より奉納されたもので、高さ6.8mとある。名古屋の熱田神宮、京都南禅寺の大石灯寵と合わせて日本三大石灯寵のひとつです。

五重塔 上野東照宮の一部として、1631年(寛永8年)に土井利勝によって創建されたが、1639年(寛永16年)に焼失。同年、幕府の作事方の棟梁だった甲良宗広らによって再建された(重要文化財)。明治の神仏分離令に伴う廃仏毀釈の運動により、上野東照宮の五重塔も取り壊される運命にあったが、当時の宮司が五重塔は寛永寺の管理であることを国に申し出た事により取り壊しを免れた。以後、寛永寺の五重塔として存続したが、管理が困難である事から、1958年(昭和33年)、東京都に寄付された。塔の初層には、東大寺仏師の法眼康猶が造立した釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来が安置されていたが、現在は東京国立博物館に寄託されている。

銅灯寵 全48基。国指定重要文化財 諸大名から奉納された。台座が円形のものは創建の1628年(寛永五年)藤堂高虎からの奉納、他は1651年(慶安四年)の金色殿造営時の奉納です。

狛犬 三大石工の一人とされた「井亀泉」酒井八右衛門の作で、筋骨隆々の力強さが特徴。狛犬は左が閉口した吽形、右が開口した阿形で、左右で阿吽(あ・うん)の形となっています。

唐門への参道

唐門 1651年(慶安四年)造営。国指定重要文化財。正式名称は唐破風造り四脚門 唐破風というのは日本特有の屋根の建築技法です。

唐門 柱内外の四額面には左甚五郎(ひだりじんごろう)作の昇り龍・降り龍の彫刻・上部の錦鶏鳥・銀鶏鳥の透彫は精巧で美しく、当時の技術を集大成したもの。角の獅子の隣には牡丹が、中央の獅子の裏にも牡丹が彫られています。百獣の王、百花の王の獅子と牡丹はよく見られる構図です。獅子には体に寄生する虫が唯一の弱みであり、その薬になるものが牡丹の花の夜露だという伝説があります。

柱内外の四額面には左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。偉大な人ほど頭を垂れる(立派な人ほど謙虚である、目下の者をも気にかける)ということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれています。

唐門両側の6基は、内側より紀伊・水戸・尾張の徳川御三家より2基ずつ寄進されたものです。

社殿拝観 次のブログ紹介します。

出来事
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