負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

名人の腕が見せる幻想

2004年06月30日 | 詞花日暦
身体のあらゆる部分が、抑圧から解放され、
自由になにかを歌っている
――渡辺保(演劇評論家)

 能の一部分を曲全体から切り離し、稽古場などで舞うのを「仕舞」という。能役者は面も装束も着けず、紋付袴のまま、扇一つで舞う。ごく内輪の会合で、渡辺保はすでに引退した喜多流・友枝喜久夫の仕舞を観る機会に恵まれた。
 彼はそこで奇妙な経験をすることになる。たとえば「阿漕」では、扇をかざした向こうに火に燃える車が見え、舞台の老人の顔には恐怖の表情が浮かぶ。「遊行桜」では、微動もしない舞い手の姿が朽木の柳の精に見える。「桜川」では、失った子を探す狂った母親の緩慢な動きの周りに桜の花が咲き、散っていく。
「なんの粉飾もなく、なんの装置もない」仕舞の何とふしぎなことか。扇の動き、軽く踏む足拍子、無造作な立ち姿、微細な動きが、はるか昔の人、世にないもの、未知の世界を出現させる。渡辺は「それは一つの記号であり、虚構のなかでの真実に達するもの」という。名人の腕でしか見えないものがある。日本人の芸や芸能とは、何と奥深いものだろうか。