幕末の大老井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸脱藩藩士らに暗殺されたのは安政7年(1860年)3月3日でした。死者8名、負傷者13名を出した。直弼は籠を刀で刺されたうえ、引きずり出されて首をはねられている。この事件では数々の謎が残されている。
暗殺は刀ではなく銃ではなかったのか?。これまでは狩野芳崖作の[桜田変絵巻](籠から引きずり出された直弼が這い回って逃げようとしているところを首をはねられる絵)がもとになって刀説が有力であった。ところが検視を担当した彦根藩の医師岡島玄達によれば致命傷は太ももから腰に掛けての貫通銃弾だといっている。つまり襲撃合図で最初に籠を真掛けて離された銃弾ですでに死んでいたことになる。
事件は水戸藩脱藩浪人が起こしたことになっているが、水戸藩の徳川斉昭が主犯では?と疑われている。というのは斉昭は銃の収集家であった。また襲撃には5丁以上の銃が使われており,その銃のち調達は水戸藩シンパの豪商中居屋重兵衛であり、斉昭の命を受けて銃を調達したのではと疑われ、翌年には姿を消している。
さらに直弼の当日の行動にも疑問が残る。安政の大獄で多くの人々の命を奪ったので、尊皇派から恨みを買っていることは、本人も自覚していたと思われる。それに、当日登城直前に危険を知らせる書状が投げ込まれるが、警護を増やすことなく、事件に遭遇することとなる。
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