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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ペテン師松沢哲郎。

2013年05月02日 15時08分13秒 | 意識論関連
○松沢哲郎のペテン。

 ヒトとサルとの差異をどんなにたくさん並べ立てても、ヒトという種の生物特有の性質の論証にこそなれ、それが短絡的に「人間」としての論証には全くならない。

 道具を使うだけなら振り込め詐欺師でも通り魔でも使えるであろう、そんな「サルとヒトとの違い」から「ヒトが人間足りうる」論証を導き出すことは構造原理的に不可能なのである。

 気分感情を短絡的に「心」と言い張るのはとんでもないペテンである。本能や常識によって促される気分感情というものは決して人間としての「心」ある行動を促さない。

 「未来を憂うから人間だ。」などというのも嘘である。

 東電社員が自分の未来を憂いて原発の危険性を放置してでも自分が所属する組織の利益を優先することは「人間」としての判断ではないからだ。

 単なる「想像力」だけなら振り込め詐欺師も、カモの行動を想像しているからこそ詐欺れるのであって、単に「想像」するという性質だけで人間の論証だと言い張るのは、もはや科学でもなんでもない詐欺ペテンに他ならない。

 松沢はサルの断片的利他行動の抽出から「人間としての社会性を立証可能である。」と言い張ったポンコツである。こんなバカを公費で雇い続けるのは国民に対する反逆行為に他ならない。

 松沢の論証というのは、あまりに稚拙で検証性が悪すぎる。年功序列で権威が決定されているから実力のないバカが教授権威面で踏ん反り返っているのである。

 そもそも「人間としての社会性。」というのは、おいらが「ヒトの本能的な社会形成習性は短絡的に人間としての社会性の論証にはならない。」と言ったことに対する悪あがきに過ぎない。

 本能習性という「結果」だけから人間としての意識的「目的」行動を抽出することは原理的に不可能であり。これに対して従来の生物学の観念を持ち出して反論を試みている時点で科学者としても人間としてもポンコツである。

 実際にはおいらが予言したように、サルの利他行動は人間としての社会性を証明することは出来ておらず。自分の利益にならないことに気付いた途端にサルは利他行動を採らなくなり、松沢の論理的根拠のないペテンは立証されているのである。

 「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」などという話は、文科系大衆迎合マスコミを、その場限りにぬか喜びさせるには充分であろうが。これは論理的根拠の全くないペテンに過ぎない。

 生物学界の権威性を用いて大衆をペテンに陥れることに血道を上げる現在の生物学界というのは組織的に腐敗しているのである。それを多数の大衆が理解出来ないことを良いことに放置するというのは、大学や研究機関の内部審査の怠慢の証明である。

 未だに放送大学では松沢の講義を垂れ流しており、ふざけているとしか言いようがない。岡部学長は単なる「お飾り」で内部審査に全く関与していないのであろうか、理工学系の人間だから「良く解らない。」で済まされる話ではないのである。

 気分感情だけで行動が決定していれば「ヒト」であっても「人間」ではない。気分感情というのは環境依存的反射に過ぎず、本質的な個人の意識的選択を介さない。意識が働いていない以上「目的」が出てこないのは当たり前の話である。

 気分感情によって促される本能的習性をどんなにたくさん並べても、それはヒトという種の生物の本能習性すなはち無意識行動バイアスの論証にしかならない。

 無意識な行動を多数抽出しても、意識的「目的」行動選択は原理的に絶対出てこない。

 すなはち、ヒトの行動習性からは「人間としての社会性」を論証することは原理的に不可能なのである。原理的に論証不能の観念にいつまでも囚われているというのは、原発を暴走させた東電組織の腐敗性と構造的には全く同じものである。


 「ヒトとは平和的で、頭が賢く、無意識な行動習性のままに行動していれば、全ては正しい結果に導かれるものである。」とでも思っておけば、文科系大衆マスコミは気分的に安心満足して論理検証を放棄することが出来るのであろう。

 それを「バカ」と言っているのである。




Ende;

簡単。

2013年05月02日 15時07分10秒 | 意識論関連
○簡単なこと。

 多数他人から評価されることを目的にやっていることで挫折すると、簡単に無差別暴力に走る傾向が強い。

 以前あった銃乱射事件の容疑者も、学力が高かったのに成績順位が下がったことで気分的「嫌気」によって銃乱射事件に走ったと言われる。

 ボストンマラソンテロのジョハール:ツァルナエフ容疑者も、ボクシングの成績が悪くなったことで無差別報復テロに走ったようである。

 多数他人からの評価を得るためにやっていることというのは、そこに個人の純粋な動機がなく。その結果として多数他人からの評価が得られなくなると簡単に無差別報復に暴走するのである。

 多数他者からの評価や報酬がなくても、純粋に自己自身の生き甲斐として行っていることであれば、多数他人からの評価賛同がなくても続けられるものである。

 無差別テロの類でなくても、原発の危険性を放置したりする社会的無責任さの根源も、そこに個人の主体的意志が介在していないのが原因である。

 自律的な社会的責任判断というものは、多数他人や権威からの評価賛同に迎合しておいて出来るようなものではない。

 自律とは自発の中にあり、他にはない。

 原発事故の前に東京電力の中で原発の危険性を指摘すれば会社内で排除差別の対象にされる可能性は高い。会社を追われて生活が苦しくなる可能性も高い。

 こうした場面において「生きるためには。」だとか「個体の生存にとって有利な選択。」をしていたからこそ原発の危険性は放置され続けたのである。

 もし、東京電力社員の多くが原発の危険性を指摘し、クビ覚悟で世間に公表していたら原発の危険性は放置されなかった可能性は高い。

 組織の体質というのは会社を構成する個人によって作り出されるものであって、特定責任者の無責任性だけで作り出されるものではない。

 ヒトというのは多数派に迎合することで個体の生存に有利な「戦略」を採って来た生物であると言える。だが、こうした多数派迎合性というものは個人の主体的自律判断を不具にし、社会全体の安全性や持続可能性を破壊することにつながるのである。

 「死にたくない。」というのは先天的に組み込まれた本能が促す恐怖感によって作り出されるものであり、これ自体に個人の主体的「意志。」選択は介在しないのである。

 自分の遺伝子を自分で選択していない以上、自分の脳自体も、大脳辺縁系が促すあらゆる行動バイアスも、これらは個人の本質的目的選択である「意志」には相当しないのである。

 本能習性気分感情といったものに関わらず選択する意志とは何か。

 それはその場限りの気分感情に左右されることのない論理検証性である。

 ヒトである以上理性だけで行動が決定することはない。そもそも理性というのは人畜無害の論理性に過ぎないからである。

 ヒトにはあらゆる気分感情というものがあり、他人を陥れようとする感情も、他人を思い遣る気持ちもある。自分にとって最も理想となる社会の姿とはどのようなものであるかを検証すれば、先ず自らが理想とする社会の一員として振る舞わなければならないのは当然の話である。

 「どうせ自分だけ正直に生きても誰も評価してはくれない。」などと称して社会的破壊行動を採るのは非常に簡単なことである。

 それはとても簡単なことなのである。

 簡単なことしか出来ない者を「バカ」と言う。

 ヒトが自律的に社会的利益を優先する行動選択を採るためには、「評価してくれる他者。」を求めてはならない。

 安っぽい宗教であれば「良い行いは神様が見てくれている。」などと言うであろう。おいらは神でも変態でもないので、この世のバカの行動のいちいちを四六時中監視しているわけではない。

 「他者からの評価。」という「アメ」がなければ正しい行動が採れないことを、「自律がない。」と言うのである。


Ende;

。。

2013年05月02日 15時06分29秒 | 意識論関連


 社会心理学者達がこぞって立証したがる「利他的行動結果」というのは、大衆ウケの良いご都合主義的なヒトという種の生物種自体の正当化に過ぎず、ヒトが人間足りうるためには何が必要であるかを無視した大衆迎合に過ぎず。科学としての社会的役割を放棄している。

 ヒトでありさえすれば常に絶対に人間としての行動を採るわけではないことは自明であり、ヒトという種の生物種自体を正当化すること自体が原理的に不可能なのである。

 ヒトの脳というのは進化の過程において論理検証を行い自律的に社会的責任判断をするような進化過程を経ておらず。中世近代の暴力を用いた覇権争いをしていたヒトと現代のヒトとの間に、進化生物的な変化をもたらすためには数百年程度ではあまりに短過ぎ、進化生物学的には何ら変化しているとは言えない。

 ヒトの多くは社会的責任よりも個体の生存にとって有利な選択を採るものである。組織的統率行動というものも、結果的に個体の生存にとって有利に働く可能性は極めて高く、シエラレオネの少年ゲリラのような組織的統率は結果的には「個体の生存。」にとっては有利なのである。

 断片的に集団内部における利他的行動によって、集団の存続維持を結果的にもたらしたとしても。これがその種の生物の環境との調和可能性の論証にもならない。

 ウニとサンゴモの共生関係が沿岸の砂漠化を促すことからも、断片的共生関係は環境持続可能性とは直結しない。

 振り込め詐欺師集団が、その内部での統率協調性を発揮し、集団の存続だの個体の生存だの種の保存に適したとしても、これが短絡的に社会の持続可能性や安全性には全くならないのと同じである。

 断片的立証だけでヒトの「人間としての社会性」を立証したかのように言い張るあらゆる研究者達は、科学者としてポンコツと言わざるを得ない。

 本気でヒトの無意識性の危険性について検証考察しない時点で、人間としても出来損ないである。



Ende;

2013年05月02日 15時05分38秒 | 意識論関連


 体罰を経験した人の41.7%が体罰を必要だと言い、体罰を経験していない人は13.1%しか体罰を必要だと言わなかったという。

 体罰もまた虐待同様「連鎖」する傾向があるようだ。


 体罰という強制力は、「指示待ち人間。」を作り出し、個人が主体的に行動を選択しないようになってしまうのだと言う。

 指示されていない自発的行動の責任を採ろうとしなくなるからであろう。

 それは「自律的な社会的責任」も採らなくなるようにもなる。

 暴力というのはヒトから論理性を喪失させ、機械条件反射的無意識行動しか採らなくさせる最も簡単な手法である。だから軍隊というのは暴力的なのである。

 戦争のようなバカげたことをさせるためには暴力を用いた強制的服従統率行動は有効だが、原発や高速バス、その他あらゆる自律的責任を伴うものには害しかもたらさない。

 やたらと安倍晋三首相が言いたがる「規範意識」というものは、単なる「従順さ。」を強制させるだけのものであって。こんなもので「イジメを無くす」ことは構造原理的に不可能であるばかりか、むしろ助長するものなのである。

 イジメ集団内部の規範とはイジメに同調することであり、「規範意識」という無意識性には自律が介在する必要性がないのである。所詮「政治」家風情に自律的社会的責任の重要性を理解することは出来ないのであろう。「政治」とは多数派迎合に過ぎず、大衆のご機嫌取りに過ぎないからである。

 イジメや体罰虐待というのは多数の第三者が見ている場所で行われるものではない、従って個人が自律的責任判断がなければイジメも体罰も虐待も、あらゆる犯罪や「人災」も構造原理的になくならない。




Ende;