○簡単なこと。
多数他人から評価されることを目的にやっていることで挫折すると、簡単に無差別暴力に走る傾向が強い。
以前あった銃乱射事件の容疑者も、学力が高かったのに成績順位が下がったことで気分的「嫌気」によって銃乱射事件に走ったと言われる。
ボストンマラソンテロのジョハール:ツァルナエフ容疑者も、ボクシングの成績が悪くなったことで無差別報復テロに走ったようである。
多数他人からの評価を得るためにやっていることというのは、そこに個人の純粋な動機がなく。その結果として多数他人からの評価が得られなくなると簡単に無差別報復に暴走するのである。
多数他者からの評価や報酬がなくても、純粋に自己自身の生き甲斐として行っていることであれば、多数他人からの評価賛同がなくても続けられるものである。
無差別テロの類でなくても、原発の危険性を放置したりする社会的無責任さの根源も、そこに個人の主体的意志が介在していないのが原因である。
自律的な社会的責任判断というものは、多数他人や権威からの評価賛同に迎合しておいて出来るようなものではない。
自律とは自発の中にあり、他にはない。
原発事故の前に東京電力の中で原発の危険性を指摘すれば会社内で排除差別の対象にされる可能性は高い。会社を追われて生活が苦しくなる可能性も高い。
こうした場面において「生きるためには。」だとか「個体の生存にとって有利な選択。」をしていたからこそ原発の危険性は放置され続けたのである。
もし、東京電力社員の多くが原発の危険性を指摘し、クビ覚悟で世間に公表していたら原発の危険性は放置されなかった可能性は高い。
組織の体質というのは会社を構成する個人によって作り出されるものであって、特定責任者の無責任性だけで作り出されるものではない。
ヒトというのは多数派に迎合することで個体の生存に有利な「戦略」を採って来た生物であると言える。だが、こうした多数派迎合性というものは個人の主体的自律判断を不具にし、社会全体の安全性や持続可能性を破壊することにつながるのである。
「死にたくない。」というのは先天的に組み込まれた本能が促す恐怖感によって作り出されるものであり、これ自体に個人の主体的「意志。」選択は介在しないのである。
自分の遺伝子を自分で選択していない以上、自分の脳自体も、大脳辺縁系が促すあらゆる行動バイアスも、これらは個人の本質的目的選択である「意志」には相当しないのである。
本能習性気分感情といったものに関わらず選択する意志とは何か。
それはその場限りの気分感情に左右されることのない論理検証性である。
ヒトである以上理性だけで行動が決定することはない。そもそも理性というのは人畜無害の論理性に過ぎないからである。
ヒトにはあらゆる気分感情というものがあり、他人を陥れようとする感情も、他人を思い遣る気持ちもある。自分にとって最も理想となる社会の姿とはどのようなものであるかを検証すれば、先ず自らが理想とする社会の一員として振る舞わなければならないのは当然の話である。
「どうせ自分だけ正直に生きても誰も評価してはくれない。」などと称して社会的破壊行動を採るのは非常に簡単なことである。
それはとても簡単なことなのである。
簡単なことしか出来ない者を「バカ」と言う。
ヒトが自律的に社会的利益を優先する行動選択を採るためには、「評価してくれる他者。」を求めてはならない。
安っぽい宗教であれば「良い行いは神様が見てくれている。」などと言うであろう。おいらは神でも変態でもないので、この世のバカの行動のいちいちを四六時中監視しているわけではない。
「他者からの評価。」という「アメ」がなければ正しい行動が採れないことを、「自律がない。」と言うのである。
Ende;
多数他人から評価されることを目的にやっていることで挫折すると、簡単に無差別暴力に走る傾向が強い。
以前あった銃乱射事件の容疑者も、学力が高かったのに成績順位が下がったことで気分的「嫌気」によって銃乱射事件に走ったと言われる。
ボストンマラソンテロのジョハール:ツァルナエフ容疑者も、ボクシングの成績が悪くなったことで無差別報復テロに走ったようである。
多数他人からの評価を得るためにやっていることというのは、そこに個人の純粋な動機がなく。その結果として多数他人からの評価が得られなくなると簡単に無差別報復に暴走するのである。
多数他者からの評価や報酬がなくても、純粋に自己自身の生き甲斐として行っていることであれば、多数他人からの評価賛同がなくても続けられるものである。
無差別テロの類でなくても、原発の危険性を放置したりする社会的無責任さの根源も、そこに個人の主体的意志が介在していないのが原因である。
自律的な社会的責任判断というものは、多数他人や権威からの評価賛同に迎合しておいて出来るようなものではない。
自律とは自発の中にあり、他にはない。
原発事故の前に東京電力の中で原発の危険性を指摘すれば会社内で排除差別の対象にされる可能性は高い。会社を追われて生活が苦しくなる可能性も高い。
こうした場面において「生きるためには。」だとか「個体の生存にとって有利な選択。」をしていたからこそ原発の危険性は放置され続けたのである。
もし、東京電力社員の多くが原発の危険性を指摘し、クビ覚悟で世間に公表していたら原発の危険性は放置されなかった可能性は高い。
組織の体質というのは会社を構成する個人によって作り出されるものであって、特定責任者の無責任性だけで作り出されるものではない。
ヒトというのは多数派に迎合することで個体の生存に有利な「戦略」を採って来た生物であると言える。だが、こうした多数派迎合性というものは個人の主体的自律判断を不具にし、社会全体の安全性や持続可能性を破壊することにつながるのである。
「死にたくない。」というのは先天的に組み込まれた本能が促す恐怖感によって作り出されるものであり、これ自体に個人の主体的「意志。」選択は介在しないのである。
自分の遺伝子を自分で選択していない以上、自分の脳自体も、大脳辺縁系が促すあらゆる行動バイアスも、これらは個人の本質的目的選択である「意志」には相当しないのである。
本能習性気分感情といったものに関わらず選択する意志とは何か。
それはその場限りの気分感情に左右されることのない論理検証性である。
ヒトである以上理性だけで行動が決定することはない。そもそも理性というのは人畜無害の論理性に過ぎないからである。
ヒトにはあらゆる気分感情というものがあり、他人を陥れようとする感情も、他人を思い遣る気持ちもある。自分にとって最も理想となる社会の姿とはどのようなものであるかを検証すれば、先ず自らが理想とする社会の一員として振る舞わなければならないのは当然の話である。
「どうせ自分だけ正直に生きても誰も評価してはくれない。」などと称して社会的破壊行動を採るのは非常に簡単なことである。
それはとても簡単なことなのである。
簡単なことしか出来ない者を「バカ」と言う。
ヒトが自律的に社会的利益を優先する行動選択を採るためには、「評価してくれる他者。」を求めてはならない。
安っぽい宗教であれば「良い行いは神様が見てくれている。」などと言うであろう。おいらは神でも変態でもないので、この世のバカの行動のいちいちを四六時中監視しているわけではない。
「他者からの評価。」という「アメ」がなければ正しい行動が採れないことを、「自律がない。」と言うのである。
Ende;