○松沢哲郎のペテン。
ヒトとサルとの差異をどんなにたくさん並べ立てても、ヒトという種の生物特有の性質の論証にこそなれ、それが短絡的に「人間」としての論証には全くならない。
道具を使うだけなら振り込め詐欺師でも通り魔でも使えるであろう、そんな「サルとヒトとの違い」から「ヒトが人間足りうる」論証を導き出すことは構造原理的に不可能なのである。
気分感情を短絡的に「心」と言い張るのはとんでもないペテンである。本能や常識によって促される気分感情というものは決して人間としての「心」ある行動を促さない。
「未来を憂うから人間だ。」などというのも嘘である。
東電社員が自分の未来を憂いて原発の危険性を放置してでも自分が所属する組織の利益を優先することは「人間」としての判断ではないからだ。
単なる「想像力」だけなら振り込め詐欺師も、カモの行動を想像しているからこそ詐欺れるのであって、単に「想像」するという性質だけで人間の論証だと言い張るのは、もはや科学でもなんでもない詐欺ペテンに他ならない。
松沢はサルの断片的利他行動の抽出から「人間としての社会性を立証可能である。」と言い張ったポンコツである。こんなバカを公費で雇い続けるのは国民に対する反逆行為に他ならない。
松沢の論証というのは、あまりに稚拙で検証性が悪すぎる。年功序列で権威が決定されているから実力のないバカが教授権威面で踏ん反り返っているのである。
そもそも「人間としての社会性。」というのは、おいらが「ヒトの本能的な社会形成習性は短絡的に人間としての社会性の論証にはならない。」と言ったことに対する悪あがきに過ぎない。
本能習性という「結果」だけから人間としての意識的「目的」行動を抽出することは原理的に不可能であり。これに対して従来の生物学の観念を持ち出して反論を試みている時点で科学者としても人間としてもポンコツである。
実際にはおいらが予言したように、サルの利他行動は人間としての社会性を証明することは出来ておらず。自分の利益にならないことに気付いた途端にサルは利他行動を採らなくなり、松沢の論理的根拠のないペテンは立証されているのである。
「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」などという話は、文科系大衆迎合マスコミを、その場限りにぬか喜びさせるには充分であろうが。これは論理的根拠の全くないペテンに過ぎない。
生物学界の権威性を用いて大衆をペテンに陥れることに血道を上げる現在の生物学界というのは組織的に腐敗しているのである。それを多数の大衆が理解出来ないことを良いことに放置するというのは、大学や研究機関の内部審査の怠慢の証明である。
未だに放送大学では松沢の講義を垂れ流しており、ふざけているとしか言いようがない。岡部学長は単なる「お飾り」で内部審査に全く関与していないのであろうか、理工学系の人間だから「良く解らない。」で済まされる話ではないのである。
気分感情だけで行動が決定していれば「ヒト」であっても「人間」ではない。気分感情というのは環境依存的反射に過ぎず、本質的な個人の意識的選択を介さない。意識が働いていない以上「目的」が出てこないのは当たり前の話である。
気分感情によって促される本能的習性をどんなにたくさん並べても、それはヒトという種の生物の本能習性すなはち無意識行動バイアスの論証にしかならない。
無意識な行動を多数抽出しても、意識的「目的」行動選択は原理的に絶対出てこない。
すなはち、ヒトの行動習性からは「人間としての社会性」を論証することは原理的に不可能なのである。原理的に論証不能の観念にいつまでも囚われているというのは、原発を暴走させた東電組織の腐敗性と構造的には全く同じものである。
「ヒトとは平和的で、頭が賢く、無意識な行動習性のままに行動していれば、全ては正しい結果に導かれるものである。」とでも思っておけば、文科系大衆マスコミは気分的に安心満足して論理検証を放棄することが出来るのであろう。
それを「バカ」と言っているのである。
Ende;
ヒトとサルとの差異をどんなにたくさん並べ立てても、ヒトという種の生物特有の性質の論証にこそなれ、それが短絡的に「人間」としての論証には全くならない。
道具を使うだけなら振り込め詐欺師でも通り魔でも使えるであろう、そんな「サルとヒトとの違い」から「ヒトが人間足りうる」論証を導き出すことは構造原理的に不可能なのである。
気分感情を短絡的に「心」と言い張るのはとんでもないペテンである。本能や常識によって促される気分感情というものは決して人間としての「心」ある行動を促さない。
「未来を憂うから人間だ。」などというのも嘘である。
東電社員が自分の未来を憂いて原発の危険性を放置してでも自分が所属する組織の利益を優先することは「人間」としての判断ではないからだ。
単なる「想像力」だけなら振り込め詐欺師も、カモの行動を想像しているからこそ詐欺れるのであって、単に「想像」するという性質だけで人間の論証だと言い張るのは、もはや科学でもなんでもない詐欺ペテンに他ならない。
松沢はサルの断片的利他行動の抽出から「人間としての社会性を立証可能である。」と言い張ったポンコツである。こんなバカを公費で雇い続けるのは国民に対する反逆行為に他ならない。
松沢の論証というのは、あまりに稚拙で検証性が悪すぎる。年功序列で権威が決定されているから実力のないバカが教授権威面で踏ん反り返っているのである。
そもそも「人間としての社会性。」というのは、おいらが「ヒトの本能的な社会形成習性は短絡的に人間としての社会性の論証にはならない。」と言ったことに対する悪あがきに過ぎない。
本能習性という「結果」だけから人間としての意識的「目的」行動を抽出することは原理的に不可能であり。これに対して従来の生物学の観念を持ち出して反論を試みている時点で科学者としても人間としてもポンコツである。
実際にはおいらが予言したように、サルの利他行動は人間としての社会性を証明することは出来ておらず。自分の利益にならないことに気付いた途端にサルは利他行動を採らなくなり、松沢の論理的根拠のないペテンは立証されているのである。
「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」などという話は、文科系大衆迎合マスコミを、その場限りにぬか喜びさせるには充分であろうが。これは論理的根拠の全くないペテンに過ぎない。
生物学界の権威性を用いて大衆をペテンに陥れることに血道を上げる現在の生物学界というのは組織的に腐敗しているのである。それを多数の大衆が理解出来ないことを良いことに放置するというのは、大学や研究機関の内部審査の怠慢の証明である。
未だに放送大学では松沢の講義を垂れ流しており、ふざけているとしか言いようがない。岡部学長は単なる「お飾り」で内部審査に全く関与していないのであろうか、理工学系の人間だから「良く解らない。」で済まされる話ではないのである。
気分感情だけで行動が決定していれば「ヒト」であっても「人間」ではない。気分感情というのは環境依存的反射に過ぎず、本質的な個人の意識的選択を介さない。意識が働いていない以上「目的」が出てこないのは当たり前の話である。
気分感情によって促される本能的習性をどんなにたくさん並べても、それはヒトという種の生物の本能習性すなはち無意識行動バイアスの論証にしかならない。
無意識な行動を多数抽出しても、意識的「目的」行動選択は原理的に絶対出てこない。
すなはち、ヒトの行動習性からは「人間としての社会性」を論証することは原理的に不可能なのである。原理的に論証不能の観念にいつまでも囚われているというのは、原発を暴走させた東電組織の腐敗性と構造的には全く同じものである。
「ヒトとは平和的で、頭が賢く、無意識な行動習性のままに行動していれば、全ては正しい結果に導かれるものである。」とでも思っておけば、文科系大衆マスコミは気分的に安心満足して論理検証を放棄することが出来るのであろう。
それを「バカ」と言っているのである。
Ende;