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社会防衛。

2012年08月26日 17時43分50秒 | 意識論関連

○社会防衛。

 多数派で同調しておけば気分的に安心であるため、ヒトの多くは多数派で共感しておくことが余程安心なのかも知れないが。その気分的行動バイアスに流されているからこそ論理的根拠のある合理的安全性を見失うことになるのである。

 特定個人を悪者として扱い、多数で糾弾攻撃しておけば気分的には安心なのであろう。故に刑法などという実効性の乏しい制度手続きが漫然と大金を投じて温存されているのである。

 罰というのは与える方の気分的満足に過ぎない。

 社会防衛の立場から見れば、危険人物を安全性が担保されるまで社会から隔離しておくことが必要である。しかし、刑罰というのは犯罪者の危険性を取り除くことを意図しておらず。司法は服役者の再犯について全く考慮にいれず、責任を持たない。

 司法は大衆のご機嫌取りとして科料罰の程度を決定しているだけであって、犯罪者の危険性そのものについては何ら合理性のある対策を取らない。

 出所後の再犯防止対策というのは、小手先の対策によって刑法の持つ根本的問題点を放置するための取り繕いに過ぎない。司法は自分達の既得権益を守るために刑法自体の無効性を隠蔽しているのである。

 「組織の利益を優先し、社会安全性を無視。」とは、原発事故調査委員会における東電の利己性を述べたものである。

 危険人物を社会から隔離することと、犯罪者に罰を与えて気分的に満足することは趣旨が全く異なるものである。危険人物の危険性を放置したまま罰だけ与えて気分的に満足し、社会に解放してしまうのが刑法制度の問題点である。その根本的問題点を放置したまま、小手先の再犯防止対策だけでごまかそうとするのは、司法による「組織の利益優先」という身勝手なごまかしである。

 社会防衛の立場からすれば、とりたてて危険性のない人物を刑務所に監禁する必要性はなく。逆に法律には触れていなくても危険性が高い人物であれば隔離或は監視しておく必要性がある。

 なにより重要なのは、危険人物というものが、なぜ他のヒトと異なり危険なのかを論理的に原因究明し、再犯の危険性を取り除くための対策を立てることである。これは司法刑罰とは無関係なものである。

 社会安全性を優先するためには、気分的満足を得るだけの司法刑罰そのものの問題点を認識し、ヒトという種の生物が持つ危険性について検証し、合理性のある対策を立てることが必要なのである。それを司法は自分達の既得権益を優先せんがために放棄しているのである。

 こうした司法の怠慢を許しているのは、大衆マスコミ代議士がバカで無思考だからである。

 犯罪者がなぜ犯罪を犯すのか、組織犯罪というものにおける封建的統率がどのように形成されるのか、そういったことを科学的に検証する必要性がある。目先の対策にばかり意識を奪われ、意識狭窄状態に陥っているからこそ検察聴取のビデオ記録公開が進まないのである。

 組織犯罪というのは、動物本能的な社会形成習性によって統率的協調行動を促すヒトの習性によるものであり、一種の洗脳マインドセットである。

 オウム教団事件においてはマインドコントロールだとされているが、東電同様に集団的マインドセットによる無意識的集団暴走であることに変わりはない。教祖には意識的「目的」がなかった故の「暴走」なのである。

 暴力団に限らず、組織犯罪というものは、要は誰にも意識的「目的」がないまま服従迎合する本能のままに行動した結果として暴走的に反社会行動に陥るのであって、その無意識性、自律的論理検証性の欠落こそが問題なのである。検察聴取を非公開にしておけばどうにかなるというようなバカみたいな話は不要である。ここにも検察による組織的隠蔽が働いている可能性がある。

 組織の不透明性というものは、組織が腐敗している証拠である。統合的な観点から見て、社会全体における持続的安全性の確立を優先するためには、機械的に刑法だけを優先しておけば全ては解決するような簡単な話ではない。

 オウム教団事件なども含めた組織的犯罪というものの科学的「真実」を解明せずに、ただ漫然と現象の結果だけを取り上げ極刑にしているというのは司法の手抜きである。

 司法従事者であれば、こう反論するであろう。「司法とは、制度上そういうものである。」と。これは制度という決まり事への機械的条件反射行動を正当化するための言い逃れに過ぎず、制度を理由に社会的役割を放棄して許されるという勝手な思い込み、マインドセットに他ならない。

 そもそもヒトの意識的目的行動と、動物的行動学習の結果を厳密に区別しない生物学や認知神経科学、社会心理学や哲学の手抜きが背景にある。

 社会全体の利益を考えずに、偏った組織の利益だけを優先する盲目性というものは、動物本能的な封建的社会を無意識に形成して安心してしまう習性があるからだ。組織の利益を優先しておけば、その組織内部における自分の地位権利が保全できるという利己性、組織依存性こそがあらゆる「人災」の根源にある。

 無差別殺人犯であっても、社会全体という組織への依存が根源にあり、社会への報復という感情的短絡最終解決しか頭が働かないからこその無差別殺人である。自律的に社会安全性を求めていれば無差別殺人などという無意味な行為に走るわけがないのだ。

 単なる事象の重大さだけでなく、あらゆる事象において共通するヒトの習性傾向について検証しなければ、本質的な犯罪抑止対策には全くならない。これを妨害するあらゆる公的組織もまた、反社会的組織と言わざるを得ない。

 SQ的に「自分は社会的責任意識が高い」などと思い込んでいれば気分的には満足であろう。しかしそれはオウム教団が「人類の救済」だと思い込んでいたのと何ら変わりはないのである。

 バカであれば合理性のある社会安全性を追求しなくても、気分的に安心であれば地下鉄に毒ガスを撒き散らしておくことこそが「人類の救済」なのである。司法や生物学の怠慢を放置するというのは、現在の社会制度の問題点を無視し、放置し、社会的責任を放棄しているのと等価であることを認識すべきである。

 何も「考え」ずに、愚かであることは罪なのである。

 理性を持たないことは気分的に楽であろうが、それをイノセントであると「思う」のは錯覚に過ぎない。






Ende;

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