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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

あれこれ2。

2012年08月26日 17時49分32秒 | 意識論関連


○気分の問題。

 アイヒマン実験における権威への服従性、プロパガンダにおける多数迎合性、多数派同調による気分的安心感といった現象の結果として、ヒトには本能的に封建的統率行動習性が組み込まれている。

 本能習性のままにプロパガンダを鵜呑みにし、統率協調的に暴力を振るい、略奪搾取をしていた方が生物の「生体にとって好ましい行動選択。」であると言えるだろう。

 それなら時折発生する絶滅虐殺の結果として、ヒトという種の生物は自律的論理検証を拒絶し多数派同調迎合して統率的協調行動を採る者だけに淘汰されているということである。

 平時にはこうした性質習性は「ほとんど」「概ね」発揮されることはないだろうが、環境によっては簡単に排除差別という行動は発現するのである。

 東電社員達による原発の危険性放置というものも、仲間意識という集団心理的思考バイアスによって統率的に行われたものである。

 イジメに限らずあらゆる危険性放置には、統合的な社会全体の安全性や持続可能性を無視した、目先の共感による安心の追求が根源にある。

 目先の共感による安心の追求というのは、要するに本能習性が促す無意識行動ということである。

 そして、こうした気分的安心追求というのは、何せ気分的には安心であるために無意識的危機意識/気分的恐怖感が働かないのである。

 意識的危機意識というものは、そこに自律的論理検証性が働かなければ生じることはないのである。



 本能習性による「概ね」「ほとんど」の安全性をどんなにたくさん抽出枚挙しても、それはヒトという種の生物の論理的安全性の証明にはならない。それは大多数の原発が暴走していないことの枚挙によって、原発安全性の論証であると言い張るのと全く同じである。

 ヒトの多くは自分自身に危険性があること、頭が悪い傾向があることを認識したがらない。それは本能的に気分的が悪く「嫌」な話であるからだ。

 逆に「ヒトとは社会的で安全で、頭が良いものである。」ことの蓋然性でも枚挙しておけば満足し、安心してバカに陥ることは簡単である。故に生物学の観念が温存されているのであろう。

 自然淘汰による結果的本能習性だけで「ヒト=人間」の論証をしようとする生物学の非科学性を放置しておけば、あらゆるヒトが引き起こす「人災」の根源的対策は立たない。

 ヒト引き起こすあらゆる「人災」というものは、無意識な本能習性の「結果」によって導き出されるものであり。意識的「目的」行動選択が介在しないからこその暴走の「結果」である。

 大衆に迎合する生物学や脳神経科学というのは、科学的なヒトの危険性検証を放置するものである。

 科学というのは大衆に迎合して多数人気を得ることが社会的役割ではなく、科学的に検証することこそが社会的役割なのである。科学的/論理的検証を放棄してウケ狙いに走る生物学や脳神経科学界というのは科学としても社会的役割責任を全く果たしておらず、税金の無駄遣いにしかなっていない。

 ウナギの養殖技術開発など目先の金儲けにしかならず、公的機関でやらなければならないものではない。

 ウナギが食えなくても人災や犯罪を減らすことの方が公的研究機関においては優先されなければおかしいのである。



 毎週金曜に国会議事堂前で原発廃止をヒステリックに怒鳴り散らしているが、原発を停止させることによって命の危険に曝される社会的弱者の救済策を立てることの方が先である。

 いうなれば電力会社には社会的弱者を人質にされているようなものであるから、社会的弱者の安全性を確保しないことには、単なる間接的未失殺人にしかならない。

 特定組織を糾弾しておけば気分的には満足であろうが、それでは根本的解決には全くならない。

 原発を廃炉にするためには順序、ロードマップというものが必要であり。ヒステリックに拒絶しておけばどうにかなるような短絡的最終解決法に溺れるべきではない。

 低温発電技術をもっと推進させれば、火力発電の効率をさらに向上させることも不可能ではない。どうすれば更なる節電が可能であるかは誰にでも考えることが出来るはずのものである。優先されるべきは「多数で騒ぐこと。」ではなかろう。

 個人的にも騒々しいのは大嫌いである。

 原発の代替案なら本当はいくらでもあるはずで、決して都知事が言うような感傷ではないことを証明するためにも、感情的行動よりも具体的実効性のある行動を採るべきである。

 乳幼児を炎天下にさらしておいて社会安全性もすったくれもあったものではない。

 原発さえ廃炉にしておけば社会の危険性の全てがなくなるわけではなく、むしろ感情的でヒステリックな解決策に暴走するヒトの普遍的習性の危険性というものを個人が認識することが先決であろう。



Ende;

○言語。

 言語の全てが論理的思考を促すわけではない。

 ルワンダやナチスの虐殺を扇動したラジオ放送によるプロパガンダは言語を用いたものである。養老やニーチェの文章もまた言語であり、巷で大量に交わされる論理整合性のない無駄話の類の全てには論理的思考は伴わず。ヒトというのは言語会話によって、多数他者との気分的共感による安心感を獲得して、本能的気分の満足をしているだけに過ぎない。

 ヒトの多くは自分達の不毛な会話を正当化するために、「言語=理論的思考」であるとしておきたいだけなのである。

 言語が必ずしも論理的思考を促す論証はない。ましてや自律的論理検証を促すことなど皆無に等しい。そもそも他人の文章を読んでから検証していたのでは自律でも何でもないからである。

 大衆の多く、ヒトの多くは本論を論理的には理解してはおらず。何が理論的に正しいのかを検証することは出来ないのであろう。

 文系観念上では、文章を読むことによる気分的安心感や感情的感動共感性ばかりが優先されており。文章の論理的内容理解など全く意識されてはいないのである。

 文系大衆の気分的安心感や感情的感動共感が得られなければ、ビジネスとして金儲けにつながらないばかりか。反って反感を買う可能性も高い。それは太平洋戦争の時に大阪の新聞社が反戦記事を載せた際の大衆からの不買運動に屈したのと全く同じである。

 目先の金儲けこそが人間としての価値であるならば、大衆観念に屈服して無責任なご機嫌取りをしておくことこそが人間の価値ということになるのである。

 世間から疎外されれば生存には適していないであろう。ナチスに反対したベンヤミン同様、自律的に社会的責任判断をしても生物的な「生体にとって好ましい」結果が得られる保証などない。

 それなら自分達が所属する組織の利益を優先し原発の危険性を放置した東電幹部達の選択も正当化されるのである。

 それを人間としての価値であるとするのは、あまりにバカげている。


Ende;

○らしい。

 文系大衆観念的には、人間らしい振る舞いとして相手の感情を読む、感情の動きを察するといったことを「人間性」だの「社会性」と言い張るが。相手の感情を読む能力であれば振り込め詐欺師でも可能な能力であり、なんら人間性を伴った社会性の論証にはならない。

 現状世間に迎合するだけの能力は、個体の生存には有効で、且つ平均的で安心感を与えるであろうが、それを短絡的に人間性を伴った社会性と形容するのは、論理的根拠のない実証不能の大衆観念に過ぎない。

 「らしい。」などという、あやふやな定義を持ち出すこと自体が文系大衆観念特有の論理検証性の欠落である。

 普通で平均的で多数派でありさえすれば、気分的には安心して迎合することが出来るであろうが、それを短絡的に安全性の証明であると思い込むのは論理検証性が欠落している。

 自律的論理検証性とは、個人の社会的責任判断である。自分自身が社会的責任判断を放棄しておいて、他人にだけ社会的責任を求めるのは支離滅裂で身勝手であることを、多くのヒトは自覚認識していない。



 養老孟司のように支離滅裂で無責任な発言をしていても、論理検証性のない大衆からの人気が得られれば世間的には成功することも可能である。それを生物学的に「生体にとって好ましい行動。」であるとするのであれば、如何なる無責任さも正当化されるのである。

 養老やニーチェによる支離滅裂な話というのは、読み手が気分的に安心して自分の自律的社会的責任判断を放棄することが正当化できるかのような錯覚を促すために、無思考で論理検証性の欠落した大衆から多数人気を得ることが出来るのである。

 芸術に分類される文学であるならば、どんなに論理整合性の欠落したお伽話をするのも勝手というものであるが。科学的根拠に基づいた理論であるかのように偽装された話を鵜呑みにするのは、ただのバカに過ぎない。

 どんなに気分的に安心出来るとしても、気分的安心によって思考停止に陥り呆然と実証不能の観念を鵜呑みにしている状態というのは洗脳に過ぎない。

 「洗脳」という言葉における「洗」とは、気分的にスッキリして安心している状態を指しているものであり。瞑想などによって得られる気分的快楽と同様、自律的論理検証性を失いバカになることの本能的快楽性を指すのである。

 ヒトという種の生物には、自律的論理検証を放棄してバカになることが本能的に快楽な性質があるのだ。

 こうした本能習性(気分感情)に流されないようにするのが本質的意識の役割である。

 ヒトという種の生物に、先天的に組み込まれた本能という仕組みに無意識に流されることなく、自己自身の本能習性を理解し、誤った判断をしないように自分自身で検証することによって、はじめて一人の人間であると言うことが出来るのである。


Ende;

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