カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

彼らは祭壇を食卓に変え、十字架像を廃止し、神を向かず大衆の方向を向いた

2017-06-15 22:56:04 | 公開書簡
 一六世紀には何が起こったのでしょうか。それは、まさに今、目の前で起きていることと同じことが起こったのです。彼らはすぐさま祭壇を食卓に変えました。彼らは食卓の上の十字架像を廃止しました。彼らは「集会の座長」を信者会衆の方を向くようにしました。

 フランスの司教達が編集して作った『生ける石(Pierres Vivantes)』という、公教要理を勉強する全ての子どもたちが必ず使わなければならない本の中でミサの記述を見ると、それは、プロテスタントの晩餐式の様子を描写しています。この本にはこうあります。

「キリスト者は、聖体祭儀を祝うために集まります。これがミサです。・・・キリスト者は、教会の信仰を宣言し全世界のために祈り、パンとぶどう酒を捧げます。・・・司祭は集会の座長となり、感謝の大祈祷を唱えます。・・・」云々

 ところで、カトリックの宗教において、ミサを捧げるのは司祭です。司祭こそがパンとぶどう酒を捧げるのです。「座長」という概念は、そもそも、プロテスタントから直接借用したものです。考え方が変わったために用語さえも変わったのです。昔は、例えば、「リュスティジェ枢機卿様が、荘厳司教ミサを捧げます」と言っていました。ところが、ラジオ・ノートル・ダムでは、今では「ジャンマリ・リュスティジェが共同司式の座長となります」という表現を使っているそうです。

 スイス司教協議会が出版した小冊子の中では、ミサがどのように語られているか、と見てみると、次のようになっています。

「主の食事は、まずキリストとの交わり(communion)を実現させます。イエズスが地上での生活の間、罪人たちと食卓に着き、実現させておられたのと同じ交わりであって、感謝の食事において、御復活の日から今日まで続いているのです。主はご自分の友に共に集うようにと招き、そして主は彼らの中におられるのです。」

 しかし、カトリック信者であるなら、誰でも全く断定的に、こう答える義務があります。違います!ミサとはそんなものではありません!聖書に「彼らが陸に下りると(ヨハネ21:9ー13)」という記述がありますが、ミサというのは、私たちの主が御復活の後の或る朝にガリレア湖畔で、聖ペトロとその他幾人かの弟子らと共に取った食事と同じ様な食事の続きではありません。

 司祭と信者らの御聖体拝領(communion)とは、いけにえの祭壇上で自らを捧げられた犠牲と交わること(communion)です。そしていけにえの祭壇とは大きな石です。もしそうでないときには、少なくとも、いけにえの石である祭壇石がなければなりません。その祭壇石には、殉教者たちの聖遺物を埋め込みました。何故なら殉教者たちはその師のために自らの血を流しからです。私たちの主の御血と殉教者たちの血の交わり(communion)は、私たちも自分の命を捧げるように励ましています。

 もし、ミサが食事であると考えたとしたら、司祭が、何故、信徒会衆の方に向かっているのかということが理解できます。一体誰が、会食を共にする人々に背を向けて食事をするでしょうか。しかし、いけにえとは会衆にではなく、天主様に捧げるものです。この理由のために司祭は信者たちの頭として天主の方に向き、祭壇を高く見下ろす十字架の方を向くのです。

 ありとあらゆる機会を使って、人は『主日の新しいミサ典書』が呼び慣わすところの、いわゆる「制定の叙述」というものを強調しています。ジャン・バール・センターというパリ司教区の中央機関は「ミサの中心は叙述にある」と宣言しました。私たちはもう一度、違います!と言わねばなりません。ミサは物語の叙述ではなく、実現する行為なのです。

永遠のミサと現代のミサ

2017-06-15 22:54:56 | 公開書簡
教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ

ルフェーブル大司教の公開書簡 その4

永遠のミサと現代のミサ

4

 1981年の御聖体大会を準備するために、或るアンケートが広く行われました。このアンケートの最初の質問項目は、こうでした。

「『ミサの聖なるいけにえ』という定義と『感謝の食事』という定義との、二つの定義うち、どちらの方を自分からそうだと思いますか」と。この様にカトリック信者に、ある意味で何らかの選択の余地を残すようなやり方でアンケートを取るその仕方、つまり、自分で決めるのではなく、そう思うしかない信仰内容において、このアンケートのように、信者たちの個人的な判断を問うというようなやり方に対しては、言いたいことが沢山あります。ミサの定義というのは、ちょうど自分がどの政党を選んで投票するのと同じ仕方で、自分で選ぶことではないのです。

 ところがこのアンケートを作った人は、不手際で、意図せずに、そのようなことを暗に意味してしまったのではないのです。このことを良く知らなければなりません。典礼改革は、意図して、いけにえ(Sacrifice)という現実の概念を、食事ということに取り替えようとしているのです。今、人が聖体祭儀や晩餐式について語るのは、そのような意味においてなのです。そしていけにえという言葉は、ますます使われなくなっています。お説教でも聞かれなくなったように、公教要理の手引き書にも殆ど全く消え失せてしまったのです。聖ヒポリットのカノン(典文)と呼ばれている第二奉献文には、いけにえという言葉が一度も出てきません。

 このような傾向は、御聖体における主の現存について、既に私たちが見た傾向と同調しています。いけにえ(sacrifice)がもはや存在しないのなら、犠牲(victime)の必要ももはや無いのです。何故なら犠牲というのはいけにえを捧げるために無ければならないものだからです。ミサを、記念の食事や兄弟たちの食事にしてしまうことは、プロテスタントたちのした誤謬です。

 一六世紀には何が起こったのでしょうか。それは、まさに今、目の前で起きていることと同じことが起こったのです。彼らはすぐさま祭壇を食卓に変えました。彼らは食卓の上の十字架像を廃止しました。彼らは「集会の座長」を信者会衆の方を向くようにしました。

多くの教会とカテドラルは酒盛りと麻薬、ありとあらゆる汚れに身を委ねられ汚されたのです

2017-06-15 22:53:20 | 公開書簡
 世俗音楽のコンサートが教会の中で開かれるというのは今では普通のことになってしまいました。ロック・ミュージックの為に礼拝の場所を貸したりもします。もちろんいつものようにロック・ミュージックには様々なひどい醜態が付き物ですがそれも含めてです。多くの教会とカテドラルは酒盛りと麻薬、ありとあらゆる汚れに身を委ねられ汚されたのです。そしてこの償いの儀式をしたのはそこの教区の聖職者たちではなく、このような醜聞に抗議の声をあげた信者のグループだったのです。司教や司祭たちはこのようなスキャンダルに好意を寄せて、一体どうして自分たちと自分たちの民に天主様たらの呪いを受けると言うことを怖れないのでしょうか。天主様の呪いは、彼らの業の実りの無さでも既に見ることが出来ます。全ては失われ、全てはバラバラになっていきます。何故ならミサの聖なるいけにえが、こうやって汚聖され、聖寵をもはや与えなくなっている、聖寵が通ることが出来なくなっているからです。御聖体におけるキリストの現存に対する軽視は、新しい精神、もはやカトリックではない新しい精神を明らかに表す事実を、最も明らかににおわせています。いま私の言ったようなけばけばしいやりすぎにまで行かなくとも、これらは日曜茶飯事になりました。トレント公会議は全く異ななる疑問の余地も残さずに、私たちの主は聖変化したホスチアの最も小さなかけらにでさえも現存しているとはっきり宣言しました。では、手による聖体拝領は何なのでしょうか。もし聖体拝領の時に聖体拝領盆を使うと、たとえ聖体拝領する人の数が少なくてもいつもかけらが落ちてその拝領盆の上に残っています。従って、このようなかけらは信者の手に今では残っているのです。御聖体における主の現存に関する信仰は、多くの信者において揺さぶられ、特に子どもではそうです。

 この新しいやり方にはたった一つの説明しかありません。もしミサというものが友情のパンを割き、共同体の食事、共通の信仰のパンを割くことであれば、それなら御聖体に対して厳重な注意を払わなくても良いことになります。もし御聖体が象徴であって、過去の出来事の単なる思い出、私たちの主の霊的現存を具体化するものであれば、床に落ちるかも知れないパンくずに気をかけなくてもそれは全く論理に適っています。しかし、教会の信仰がそう要請するように、これは天主様の現存、私たちの創造主の現存にかかわることなのです。つい最近のローマから来た文書にもかかわらず、このような新しいやり方を認めそれを勧めるとはどう理解したらよいのでしょうか。こうやって私たちに飲み込ませようとしている考えは、まだそれに汚染されていないカトリック信者たちがそれに反して抗議の声をあげるプロテスタントの考え方なのです。この考え方を信者たちに押しつけるために、彼らに立ったままで聖体拝領をさせているのです。

 最低限の尊敬と従属の印しもなくキリストを拝領しに行くのはふさわしいことでしょうか。聖パウロはキリストの前に天のものも地上のものも地の下にあるものも膝を屈めると言っています。多くの司祭はもはや御聖体の前で跪きをしません。ミサの新しい典礼様式が跪きをしないように勧めているのです。そこに私は二つの理由しかないと思います。私たちが天主と同等であるかのように天主を取り扱わせるもの凄い傲慢があるか、あるいは御聖体に天主様が現存していないと言う確信があるかのどちらかです。

 私はいわゆる「公会議後の教会」に犯意の訴訟を起こそうとするのですかって?いいえ。私は何も思いつきでものを言っているのではありません。ストラスブールの神学部長の言うことを聞いて下さい。

「演説者の現存、とか俳優の現存とかと言うとき、それで単純に地形学的な「そこにある」ということ以外の何らかの属性を示しています。結局、誰かは象徴的な行為によって、彼自身が物理的になさなくても、誰か別の人が彼の深い意向で創造的な忠実さをもってする行為によって現存しうるのです。例えば「ベイルートの祭典」は、リチャード・ワグナーの現存を実現させるでしょう。この作品はその濃さにおいてこの音楽家に捧げられたその他の作品やたまたまのコンサートが表すよりも、優っていますから。そしてこの最後の見方において、キリストの聖体における現存を捉えるのがふさわしいと思われます。」

 ミサを「ベイルートの祭典」と比べるなんて!もちろん私たちはこの言葉についても音楽についても絶対に同意することは出来ません。(この項続く)

Mgr. Marcel LEFEBVRE: Lettre ouverte aux catholiques perplexes.

Editions Albin Michel, S.A., 1985. 22 rue Huyghens, F-75014, Paris, France.

Collection <Lettre ouverte> ISBN 2-226-02325-9.