一六世紀には何が起こったのでしょうか。それは、まさに今、目の前で起きていることと同じことが起こったのです。彼らはすぐさま祭壇を食卓に変えました。彼らは食卓の上の十字架像を廃止しました。彼らは「集会の座長」を信者会衆の方を向くようにしました。
フランスの司教達が編集して作った『生ける石(Pierres Vivantes)』という、公教要理を勉強する全ての子どもたちが必ず使わなければならない本の中でミサの記述を見ると、それは、プロテスタントの晩餐式の様子を描写しています。この本にはこうあります。
「キリスト者は、聖体祭儀を祝うために集まります。これがミサです。・・・キリスト者は、教会の信仰を宣言し全世界のために祈り、パンとぶどう酒を捧げます。・・・司祭は集会の座長となり、感謝の大祈祷を唱えます。・・・」云々
ところで、カトリックの宗教において、ミサを捧げるのは司祭です。司祭こそがパンとぶどう酒を捧げるのです。「座長」という概念は、そもそも、プロテスタントから直接借用したものです。考え方が変わったために用語さえも変わったのです。昔は、例えば、「リュスティジェ枢機卿様が、荘厳司教ミサを捧げます」と言っていました。ところが、ラジオ・ノートル・ダムでは、今では「ジャンマリ・リュスティジェが共同司式の座長となります」という表現を使っているそうです。
スイス司教協議会が出版した小冊子の中では、ミサがどのように語られているか、と見てみると、次のようになっています。
「主の食事は、まずキリストとの交わり(communion)を実現させます。イエズスが地上での生活の間、罪人たちと食卓に着き、実現させておられたのと同じ交わりであって、感謝の食事において、御復活の日から今日まで続いているのです。主はご自分の友に共に集うようにと招き、そして主は彼らの中におられるのです。」
しかし、カトリック信者であるなら、誰でも全く断定的に、こう答える義務があります。違います!ミサとはそんなものではありません!聖書に「彼らが陸に下りると(ヨハネ21:9ー13)」という記述がありますが、ミサというのは、私たちの主が御復活の後の或る朝にガリレア湖畔で、聖ペトロとその他幾人かの弟子らと共に取った食事と同じ様な食事の続きではありません。
司祭と信者らの御聖体拝領(communion)とは、いけにえの祭壇上で自らを捧げられた犠牲と交わること(communion)です。そしていけにえの祭壇とは大きな石です。もしそうでないときには、少なくとも、いけにえの石である祭壇石がなければなりません。その祭壇石には、殉教者たちの聖遺物を埋め込みました。何故なら殉教者たちはその師のために自らの血を流しからです。私たちの主の御血と殉教者たちの血の交わり(communion)は、私たちも自分の命を捧げるように励ましています。
もし、ミサが食事であると考えたとしたら、司祭が、何故、信徒会衆の方に向かっているのかということが理解できます。一体誰が、会食を共にする人々に背を向けて食事をするでしょうか。しかし、いけにえとは会衆にではなく、天主様に捧げるものです。この理由のために司祭は信者たちの頭として天主の方に向き、祭壇を高く見下ろす十字架の方を向くのです。
ありとあらゆる機会を使って、人は『主日の新しいミサ典書』が呼び慣わすところの、いわゆる「制定の叙述」というものを強調しています。ジャン・バール・センターというパリ司教区の中央機関は「ミサの中心は叙述にある」と宣言しました。私たちはもう一度、違います!と言わねばなりません。ミサは物語の叙述ではなく、実現する行為なのです。
フランスの司教達が編集して作った『生ける石(Pierres Vivantes)』という、公教要理を勉強する全ての子どもたちが必ず使わなければならない本の中でミサの記述を見ると、それは、プロテスタントの晩餐式の様子を描写しています。この本にはこうあります。
「キリスト者は、聖体祭儀を祝うために集まります。これがミサです。・・・キリスト者は、教会の信仰を宣言し全世界のために祈り、パンとぶどう酒を捧げます。・・・司祭は集会の座長となり、感謝の大祈祷を唱えます。・・・」云々
ところで、カトリックの宗教において、ミサを捧げるのは司祭です。司祭こそがパンとぶどう酒を捧げるのです。「座長」という概念は、そもそも、プロテスタントから直接借用したものです。考え方が変わったために用語さえも変わったのです。昔は、例えば、「リュスティジェ枢機卿様が、荘厳司教ミサを捧げます」と言っていました。ところが、ラジオ・ノートル・ダムでは、今では「ジャンマリ・リュスティジェが共同司式の座長となります」という表現を使っているそうです。
スイス司教協議会が出版した小冊子の中では、ミサがどのように語られているか、と見てみると、次のようになっています。
「主の食事は、まずキリストとの交わり(communion)を実現させます。イエズスが地上での生活の間、罪人たちと食卓に着き、実現させておられたのと同じ交わりであって、感謝の食事において、御復活の日から今日まで続いているのです。主はご自分の友に共に集うようにと招き、そして主は彼らの中におられるのです。」
しかし、カトリック信者であるなら、誰でも全く断定的に、こう答える義務があります。違います!ミサとはそんなものではありません!聖書に「彼らが陸に下りると(ヨハネ21:9ー13)」という記述がありますが、ミサというのは、私たちの主が御復活の後の或る朝にガリレア湖畔で、聖ペトロとその他幾人かの弟子らと共に取った食事と同じ様な食事の続きではありません。
司祭と信者らの御聖体拝領(communion)とは、いけにえの祭壇上で自らを捧げられた犠牲と交わること(communion)です。そしていけにえの祭壇とは大きな石です。もしそうでないときには、少なくとも、いけにえの石である祭壇石がなければなりません。その祭壇石には、殉教者たちの聖遺物を埋め込みました。何故なら殉教者たちはその師のために自らの血を流しからです。私たちの主の御血と殉教者たちの血の交わり(communion)は、私たちも自分の命を捧げるように励ましています。
もし、ミサが食事であると考えたとしたら、司祭が、何故、信徒会衆の方に向かっているのかということが理解できます。一体誰が、会食を共にする人々に背を向けて食事をするでしょうか。しかし、いけにえとは会衆にではなく、天主様に捧げるものです。この理由のために司祭は信者たちの頭として天主の方に向き、祭壇を高く見下ろす十字架の方を向くのです。
ありとあらゆる機会を使って、人は『主日の新しいミサ典書』が呼び慣わすところの、いわゆる「制定の叙述」というものを強調しています。ジャン・バール・センターというパリ司教区の中央機関は「ミサの中心は叙述にある」と宣言しました。私たちはもう一度、違います!と言わねばなりません。ミサは物語の叙述ではなく、実現する行為なのです。