カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

中には無効のミサもある

2017-06-17 23:07:42 | 公開書簡
 皆さんはもう気が付いたかも知れませんが、今日では司祭のほとんどは、「主はご受難の前夜、いとも聖なる御手にパンを取り・・・」で始まるカノンの最重要部を、一気に読んでいます。しかし、聖伝のローマ・ミサ典書の司式次第には「親指と人差し指でホスチアを両手に取り、ホスチアの上に、小さい声で、しかしはっきりと、注意深く、聖変化の言葉を発声すること」と記されており、聖伝のミサでは、一休みがあり、この言葉を聖変化させる意向で発声しなければなりません。何故なら、ここで祈りの調子が変わるのです。[聖変化の]祈りは、公式命令の(=intimatoire)形式を取るからです。"Hoc est enim Corpus meum"という5つの単語は、全実体変化の奇跡を起こすのです。それはぶどう酒の聖変化の言葉でも同様です。

 新しいミサ典書には、司式者に、あたかも彼が記念を執り行っているかのように、叙述の調子を保つようにと促しています。創造性が新しいミサの規則ですので、中にはミサ典書の文を読みながらその通りにホスチアを持ってまわりに見せ、あるいは更に、その叙述の通りに、ホスチアをはっきりと分かるように割って見せる司祭もいます。4回あった跪きの内2つは廃止されました。しかも残ったたった2つの跪きは、非常にしばしば省略されています。私たちは、司祭が仮に聖変化をさせようという意向がたとえあったとしても、本当にそのことを意識しているのだろうかと、自問してしまったとしても、本当に当然です。

 その時、皆さんは「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者」から、教会がどうなってしまったのか不安を覚えるカトリック信者になるのです。つまり、皆さんが与ったミサは有効だったのか?皆さんが拝領したホスチアは本当に御聖体だったのか?と。

 これは重大な問題です。平信徒は、どうしたら判断することができるでしょうか。

 ミサの有効性のために基本的な条件があります。それは、質料と形相と意向と有効に叙階された司祭です。もしこれらの条件がそろっているなら、無効であるとどうして結論できるのか分かりません。奉献の祈り、カノンの祈り、司祭の聖体拝領の祈りなど犠牲の完全性と秘蹟の完全性のためには必要ですが、その有効性のために必要なのではありません。ミンゼンティー枢機卿は牢獄の中でパンとぶどう酒の上に聖変化の言葉を急いで見つからないように唱え、牢番に見つからないように我らの主の御体と御血で自らを養っていました。ミンゼンティー枢機卿は、いけにえと秘蹟を確かに行っていたことでしょう。

 私が既にお話しした或るアメリカの司教の蜂蜜入りのケーキでの「ミサ」は、はっきりと無効です。

それは、聖変化の言葉がひどく代わってしまったか、あるいは、省略されてなされたミサが、無効なのと同様です。私はこれを勝手に作り上げているのではありません。或る司式者が何か創造性あることをしようとそのことばかりに夢中になっていたために、聖変化の言葉をつい忘れてしまったと私に話してくれた人がいるからです。

新しいミサはルターのミサの再現

2017-06-17 23:06:05 | 公開書簡
 「供え物の祈り」の不十分さを正当化させようとする論拠をいくつか聞いてみると、それはルターのことを思い起こさせます。ルターはミサを変える移行期を上手く乗り越えることに大変努力しました。ルターは、できる限り昔の儀式をそのまま残し、しかも、その意味を変えることに精神を注ぎました。「ミサ」は大部分がその外見を残され、信者は、教会の中に入ってもほとんどそっくりそのままの装飾を見て安心し[教会に通い続け]ました。ルターは、信者の気に入るような手を加えて、ほとんど同じような典礼儀式を行いました。何故なら、今後は以前よりももっと、信者に訴えるようになったからです。ルターは礼拝儀式の中に何か重要なものがあることに気が付いていました。大きな声の歌や祈りによって、信者がもっと能動的に参加するようにしたのです。少しずつラテン語がドイツ語に席を譲っていきました。

 このルターのやり方を見て、皆さんは何かを思い出しませんか。

 実に、ルターは「教皇礼拝者どものへたくそな歌」を新しい歌に取り替えようと、歌を新たに作るのに骨を折るのです。改革とは常に文化革命の様態を取ります。

 新しいミサ司式では、使徒時代にまで遡るローマ・カノンという最も古い部分でさえ、ルター派の聖変化の形式と近づかせるために、言葉を付け加えたり、削除したりして手を加えています。さらに、フランス語訳は「pro multis(多くの人のために)」という言葉の意味を変えて訳され、ラテン語原文の変更の更に上を行っています。[どういうことかというと、pro multisの訳として]フランス語では、「・・・あなたたちと多くの人un grand nombreのために流される・・・私の血」の代わりに「あなたたちと大多数la multitudeのために流される・・・」となっています。これは同じことを意味していません。神学的にニュートラルな意味ではありません。[数千人、数万人の人々でも「多くの人」だと言えますが、「大多数」というと、数千億の全人類の少なくとも半分以上を指し、あるいは、少数の例外を除いた人類のほとんど全てをも意味しうるからです。]

ルターは犠牲を認めず、ミサから奉献の部も廃止した

2017-06-17 23:03:59 | 公開書簡
 ルターは奉献の部を廃止しました。もしも犠牲がもはや存在しないのなら、どうして染みも汚れもないホスチアを奉献する必要があるだろうか、というのが彼の論理でした。フランス語の新しいミサの式次第には、奉献の部は実際上存在していないのと同じことです。奉献の部はもはや「奉献の部」という名前さえついていません。『主日の新しいミサ典書』には奉献の部の変わりに「提示の祈りPrieres de presentation」となっています。そこの祈りの言葉は、むしろ感謝の祈り、大地の恵みを感謝する祈りで、それ以外ではないのです。その変化をよく知りたいと思ったら、新しい祈りの文句を、教会が使っていた昔の聖伝の祈りの言葉と比べてみるだけで良いでしょう。昔の祈りには「私の数かぞえ切れない罪、過失、怠りのため、全ての参列者のため、生ける、かつ、死せる全てのキリスト信者のため、この捧げものが、永遠の生命のために、私の救いと彼らの救いのためになるように、私は御身に捧げます」とあり、また、カリスを奉挙しつつ、司祭は「主よ、私たちは御身の贖いのカリスを御身に捧げ、御身の優しい心づかいによって、これを快い香りとして御身の威光の前に、私たちの救いとこの世全ての救いのために、立ち上らせて下さるように懇願します」と言うのです。こうして、犠牲の贖罪的な目的、罪を償うための目的を明らかに言及しています。

 新しいミサでは何か残っているものがあるのでしょうか。新しいミサではこう言います。「主よ、あなたは万物の創り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの。大地の恵み、労働の実り、わたしたちの命の糧となるものです。」ぶどう酒についても全く同じです。ですから、この後で「私の罪科を洗い、主を私を清めて下さい」とか「私たちの犠牲が今日御身の前で快いものとなりますように」と付け加えたとしても、いったい何の役にたつでしょうか。一体何の罪のことでしょうか。何の犠牲のことでしょうか。信者は、この捧げものの曖昧な奉献と、贖いとの間に一体どんな関係を見いだすというのでしょうか。さらに、私はもう一つ別の質問をしたいと思います。一体何故、明確な祈りの文を、その意味が完全であるその祈りの文を、謎めいた言い回しの、前後の文脈がよく合っていないものに取り替えてしまったのでしょうか。もし取り替える必要があると思われたなら、それはそれをもっとよくするために変えなければならなかったはずです。