ところが、カトリック文書集(La Documentation catholique)や、教区の文書を読むと、バチカンに公に認められたカトリックとルター派(ルーテル派とも言う)の合同委員会の筆になる次のような声明が載っていました。[La Documentation catholique, 3 juillet 1983, n. 1085, pp.696-697]曰く、
「第二バチカン公会議の見解のうちに、私たちはルターの要望したものが受け入れられているのを見ることが出来る。
例えば、教会を「神の民」として叙述すること(これは新教会法の中のメインテーマであって、聖職位階的ではもはやなくなった、民主主義的な教会の見方です)、
全ての受洗者が司祭職を持つのを強調すること、
信教の自由への人権を支持する教え、である。
ルターの時代にルターが要求した他のことは、今日の教会の神学と実践においてかなえられていると言える。例えば、典礼に於いて俗語を使うこと、両形色で聖体拝領すること、聖体祭儀の神学とその執行の刷新がそうである。」
このことはうまく言い当てています。ルターは自分のことをミサと教皇の確固不動な不倶戴天の敵と宣言しましたが、今教会は彼の要求をかなえているのです!
ルターは、「私はあらゆる売春宿、殺人、窃盗、姦淫も、この忌まわしいミサほど悪いものではないと宣言する」と冒涜しましたが、教会はこの冒涜者の要求したものを受け入れたのです。
「第二バチカン公会議の見解のうちに、私たちはルターの要望したものが受け入れられているのを見ることが出来る。
例えば、教会を「神の民」として叙述すること(これは新教会法の中のメインテーマであって、聖職位階的ではもはやなくなった、民主主義的な教会の見方です)、
全ての受洗者が司祭職を持つのを強調すること、
信教の自由への人権を支持する教え、である。
ルターの時代にルターが要求した他のことは、今日の教会の神学と実践においてかなえられていると言える。例えば、典礼に於いて俗語を使うこと、両形色で聖体拝領すること、聖体祭儀の神学とその執行の刷新がそうである。」
このことはうまく言い当てています。ルターは自分のことをミサと教皇の確固不動な不倶戴天の敵と宣言しましたが、今教会は彼の要求をかなえているのです!
ルターは、「私はあらゆる売春宿、殺人、窃盗、姦淫も、この忌まわしいミサほど悪いものではないと宣言する」と冒涜しましたが、教会はこの冒涜者の要求したものを受け入れたのです。