カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

蔓延する典礼崩壊

2017-06-14 16:49:26 | 公開書簡
蔓延する典礼崩壊

 しかしそんなことは些細な改革に過ぎません。このごろではもっと頻繁に普通の発酵菌のはいったパンの聖別の話を聞きます。それは「評価を絶する賜物(Inaestimabile Donum)」という教皇様の指導書の中で最近、純粋な無発酵の小麦粉から作られたパンだけを使用しなければならないといわれているにもかかわらずです。全ての制限はこれられています。アメリカの司教様は牛乳と卵とイーストと蜂蜜とマーガリンから作ったケーキをホスチアに作ることを勧めているのも見ました。非神聖化は、天主の奉仕に身を捧げた人々にまで広がりました。司祭は司祭服を着ずに、修道者は修道服を着用していません。敬称抜きのファースト・ネームで呼ばれ、「君(tu)」と相互に呼び合い、新しい原則として世俗化した生活様式を取り入れていますが、それは一生懸命そう信じ込ませようとしはしているものの、必要上に迫られたからではありません。その証拠に町中のアパートを借りて住み、修道院の囲みの外に出ている修道女たちがいます。こうして二重の経費がかかっているのです。彼女たちはもうベールを被っていませんので美容院に通いその費用もかかります。

 聖なるものの喪失は、涜聖へとつながっています。フランスの西部の新聞によると、1980年バトンガールの全国コンクールがヴァンデ地方で開かれたそうです。その時にミサがありました。そのミサの最中にはバトンガールが踊っていたのです。そのバトンガールの幾人かはその次ぎに御聖体を授けました。さらに、儀式は演舞で締めくくられました。そして司祭は祭服を着たままその演舞に参加したのです。私はここで私たちが目にする乱用の一覧表を示すつもりはありません。ただこうしていくつかの例を見せて何故今日のカトリック信者がどこででも困惑し、さらには躓いているかを示したいだけです。別にこれは秘密の話でもありませんでした。日曜の朝には、テレビが全ての家庭に司教達がキリストの御体に対して公になす許されない無遠慮とぞんざいな態度を放送しているのです。例えば1981年11月22日のテレビ放映されたミサでは、チボリウムの変わりにかごを使って[御聖体を入れ]信者は次から次へとそれを回して最後にはそのかごを聖変化した御聖体のはいったまま床においたのです。

 ポワチエでは、同じ年の聖木曜日に共同司式があり、その見物は複数のテーブルに置かれたごちゃ混ぜのパンとぶどう酒のはいったいくつかのピッチャーの聖別でした。そして各自はそのテーブルに来て自分で取って食べたり飲んだりするのです。

共通点はミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられていること

2017-06-14 16:48:51 | 公開書簡
共通点はミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられていること

 これらの躓きになる光景には共通のものがあります。それはミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられていることです。装飾、楽器、態度、服装などの低俗さです。さて、カトリックという名の付く雑誌は、教会の入り口で売られ、このようなやり方でミサをたてられていることを批判するのではなく、反対にこれらのやり方を推薦するために写真を載せているのです。ラ・ヴィ[La Vie]と言う雑誌は、これだけでは足りないと思ったようです。たいていは読者の便りの抜粋を使ってこの雑誌の考えていることを無責任に書くのです。例えばこうあります。「典礼改革は更に進めなければならないと思います・・・。同じことをくり返したり、いつも同じ祈りがあったり、このような典礼規定は真の創造性にストップをかけています。」ではミサはどうあればいいのでしょう?こう言います。「私たちの問題は沢山あります。私たちの困難な状況は大きくなるばかりで、教会はまだそのことに気が付いていません。ミサが終わって帰路についてもしばしば疲れています。私たちの生活、私たちの今の問題と日曜日に私たちに項生きなさいというその教えとの間には何かギャップのようなものがあるのです。」

 ミサが私たちを天主へと引き上げるのではなく、人間のレベルにまで私たちを降ろすものであったら、そしてミサを変に理解して、「問題」から人を超越させることを許さないものであるなら、確かにミサが終わっても疲れてかえるだけでしょう。この典礼改革を更に進めようというかけ声は、聖なるものを破壊しようという故意の意志があることを示しています。キリスト信者にとって何か必要なもの、キリスト信者が願うものをこうやって取り上げてしまっているのです。何故ならキリスト信者は天主にかかわりのある全てのことを崇敬し尊敬したいと思っているからです。そうなら天主の御体となり御血となるミサのいけにえに関してはどれほどの崇敬を払いたいと思うことでしょうか。何故ホスチアを灰色や焦げ茶で作るのでしょうか。糠の混じったホスチアを作るのでしょうか?新しいミサの中からは削除されてしまっている古い祈りhanc immaculatam hostiam(この汚れなきホスチア)という祈りを忘れさせようとしたいのでしょうか。

典礼改革

2017-06-14 16:48:12 | 公開書簡
教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ

ルフェーブル大司教の公開書簡その3

典礼改革



 いま私はカトリック系の出版物が掲載した写真を見ています。これはよく捧げられるやり方でたてられたミサの写真です。一瞥しただけでは、これがミサのいけにえの一体どの部分の写真であるか殆ど分かりません。木製の普通のテーブルがあって、これは余り綺麗そうでもなく祭壇布が一枚も敷いてありません。このテーブルの後ろに二人の人がいて背広を着てネクタイを締めています。一人はカリスをもう一人はチボリウムを手に持ち、奉挙している、あるいは会衆に示しています。添え書きの説明によると、この二人は司祭で一人はカトリック・アクションの指導司祭とのことです。テーブルの同じ側に第一司式司祭の横にズボンをはいている二人の女の子がいます。第二司祭の横にはセーターを着た二人の男の子。丸い腰掛けにはギターがもたれかかっています。

 別の写真。或る部屋の隅が写っています。この部屋は若い夫婦の家の一室かも知れません。司祭はテゼの白衣を着て立っています。彼は、馬小屋にあるような腰掛けを前に祭壇にしています。陶器で造った茶碗とやはり陶器の器が見えます。二本のちびけたロウソクがともっています。五人の青年たちが床にしゃがんでそのうち一人がギターを手にしています。

 三枚目の写真は、数年前にあったことの写真です。幾人かのエコロジストの調査船が、ミュリュオラ小島でのフランスの核実験を阻止しようとしています。そのヨットの甲板の上で司祭が一人、二人の別の人とともにミサをたてています。三人とも短パンをはいています。しかもそのうちの一人は上半身裸です。司祭はホスチアを上に挙げていますきっと奉挙しているのでしょう。司祭は立っても跪いてもいません。司祭は座っています。むしろ船の上層部に対して窮屈に身を屈めています。