カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

ミサを改悪して以来、カトリック教会の凋落は始まった

2017-06-18 20:06:34 | 公開書簡
 何故なら、私は本当のことを言い、私が間違っているという怖れなく次のことを断言しなければならないからです。すなわち、ピオ5世によって法文化されたミサは、(よく人はピオ5世によって作られたものだと誤解しているのですが)明らかに次の3つの現実を曖昧さもなく表明しています。それは、ミサが犠牲であることと、主の御聖体における現存と、司祭の司祭職です。このミサはトレント公会議が明確にしたように、人間が天主にかかわることを黙想するように心を挙げるためには何か外的な助けが必要であるという、人間の本性をよく知っています。これまでに確立された多くの習慣は偶然できたことではありませんでした。これらは、出し抜けに、何らの損害を受けずに、変更したり廃止したり出来ないものです。このミサの改革を取り入れて以来、どれ程多くの信者が、どれ程多くの若い司祭たちが、どれほどの司教達が、信仰を失ってしまったことでしょうか!自然と信仰とに真っ向から反対すればその仕打ちを受けるのは当然です。

 ところがまさに、人々は私たちにこう言うのです。現代の人は今から1世紀前の人とはもはや同じではない、現代人のどっぷりと浸かっている技術文明によって人間の本性は変化したのだ、と。何と愚かなことでしょうか!改革者たちは、プロテスタントへ寄り添いたいという自分の望みを、信者たちには隠そうとするのです。彼らは変化という、別の議論をします。ストラスブールの夕べの神学学派に、ある人はこう説明しました。

「私たちは今日、真実の「文化的変動」の時代に生きているということを認めなければならない。主の記念を祝うための、かつてのある一つのやり方は、或る宗教世界univers religieuxに結ばれていた。しかし、かつての宗教世界は、もはや私たちのものではない。」つまり、言い替えると、かつての世界は、いまではさっさと簡単に片づけられて、全ては消え失せてしまった、ゼロからスタートしなければならない、ということです。これが、私たちの信仰を変えさせようとして人々が使う詭弁です。では一体、彼らの言う「宗教世界」とは何なのでしょうか?もっと率直になってこう言ったら、もっと良かったでしょう。「しかし、かつての宗教は、もはや私たちのものではない」と。

トリエントミサがない時は、新しいミサに与ってもいいのか?

2017-06-18 20:04:25 | 公開書簡
トリエントミサがない時は、新しいミサに与ってもいいのか?

 しかし、司式者の意向はどうやって判断したらいいのでしょうか。司祭たちの信仰が弱まるにつれ、彼らが「教会が常にしていたことをする」という意向をもはや持たなくなるにつれ、(というのは、教会はその意向を変えることができませんから)ますます有効なミサが少なくなっているということは全く明らかなことです。いわゆる現在「神学生」と呼ばれている人たちの受けている養成では、有効なミサを捧げられるようにとは、彼らを準備していません。神学校では、ミサ聖祭の犠牲が司祭生活の基本的な事業であるなどと考えるようには彼らに教えていないからです。

 他方で、全く一つも誇張なしに、ほとんどの[新しい]ミサは、祭壇石もなく、低俗な祭具で、種入りのパンで、カノンの真っ最中でさえも世俗の話が導入されるなど、涜聖であり、そのようなミサは信仰を減少させ、信仰を失わせます。これらのミサの非神聖化のために、ミサの超自然的な性格、「信仰の神秘」を失っています。[新しいミサにおいて]もはや自然宗教の行為以外の何ものでもなくなっています。

 皆さんの「どうなってしまったか分からなくなった」ことは、次のような形を取るかも知れません。

 つまり「古いミサが無いときには、主日の義務を果たすために、私は、有効だけれども涜聖のミサに与ることができるのでしょうか?」という質問の形です。この答は簡単です。これらのミサは義務の対象にはなりません。更に私たちはこのミサに、信仰を危険にさせる行為、あるいは涜聖の危険のある行為に参与・参加することに関する、道徳神学と教会法の規則を適応させなければなりません。

 新しいミサは、たとえ敬虔深く典礼規則を遵守して捧げられたとしても、上記と同じミサに対する態度をとらねばなりません。何故なら新しいミサはプロテスタントの精神が染み込んでいるからです。新しいミサはそれ自体で信仰に対する非常に有害な毒を含んでいます。そのことを確認すると、今日ではフランスのカトリック信者は宣教地のと同じ宗教生活をする条件下にいると言わざるを得ません。宣教地の住民たちは、1年に3、4回しかミサに与ることができません。フランスの信者たちも、聖寵と聖化の本当の源である、昔の「永遠のミサ」にがまだ捧げ続けられているところに行って、そのミサに1月1回与るために努力をしなければならないことでしょう。