カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

永遠のミサと現代のミサ

2017-06-15 22:54:56 | 公開書簡
教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ

ルフェーブル大司教の公開書簡 その4

永遠のミサと現代のミサ

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 1981年の御聖体大会を準備するために、或るアンケートが広く行われました。このアンケートの最初の質問項目は、こうでした。

「『ミサの聖なるいけにえ』という定義と『感謝の食事』という定義との、二つの定義うち、どちらの方を自分からそうだと思いますか」と。この様にカトリック信者に、ある意味で何らかの選択の余地を残すようなやり方でアンケートを取るその仕方、つまり、自分で決めるのではなく、そう思うしかない信仰内容において、このアンケートのように、信者たちの個人的な判断を問うというようなやり方に対しては、言いたいことが沢山あります。ミサの定義というのは、ちょうど自分がどの政党を選んで投票するのと同じ仕方で、自分で選ぶことではないのです。

 ところがこのアンケートを作った人は、不手際で、意図せずに、そのようなことを暗に意味してしまったのではないのです。このことを良く知らなければなりません。典礼改革は、意図して、いけにえ(Sacrifice)という現実の概念を、食事ということに取り替えようとしているのです。今、人が聖体祭儀や晩餐式について語るのは、そのような意味においてなのです。そしていけにえという言葉は、ますます使われなくなっています。お説教でも聞かれなくなったように、公教要理の手引き書にも殆ど全く消え失せてしまったのです。聖ヒポリットのカノン(典文)と呼ばれている第二奉献文には、いけにえという言葉が一度も出てきません。

 このような傾向は、御聖体における主の現存について、既に私たちが見た傾向と同調しています。いけにえ(sacrifice)がもはや存在しないのなら、犠牲(victime)の必要ももはや無いのです。何故なら犠牲というのはいけにえを捧げるために無ければならないものだからです。ミサを、記念の食事や兄弟たちの食事にしてしまうことは、プロテスタントたちのした誤謬です。

 一六世紀には何が起こったのでしょうか。それは、まさに今、目の前で起きていることと同じことが起こったのです。彼らはすぐさま祭壇を食卓に変えました。彼らは食卓の上の十字架像を廃止しました。彼らは「集会の座長」を信者会衆の方を向くようにしました。


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