カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

教会位階制度

2017-06-03 19:42:40 | エキュメニズム
教会位階制度

 シヨニストが司教たちをどう見ているかということを、聖ピオ10世は司教たちに描いて見せます。

「『あなたたちは時代遅れである。彼らこそが将来の先駆けである。あなたたちは、階級制度・不平等・権威と従順・古い制度を代表しており、彼らはそれらに屈することができない。』青年達はこう教えられている。『19世紀以来、教会はまだ、この世においてその本当の基礎のうえに社会を建設することに成功していない。教会は、権威・自由・平等・兄弟愛・人間の尊厳についての社会的観念を理解していない。偉大なる司教、偉大なる国王は、フランスを造り栄え高く統治したが、その人民に本当の正義、本当の幸福を与えることを知らなかった。なぜなら、彼らはシヨンの理想を知らなかったからである』と。」

「革命の息吹がそこ(シヨン)を通り過ぎて行った。わたしたちは、シヨンの教えが誤っているのであるから、その精神は危険であり、その教育は呪われたものであると結論づけることができる。」


(シヨン運動について:8)

人間の尊厳

2017-06-03 17:11:31 | エキュメニズム
人間の尊厳

 「人間の尊厳」については、シヨンはやはり誤った観念をもっています。

「シヨンによれば、人は照らされた良心、強い、独立した、自立の良心を獲得し、自ら主人とふるまい得、自分自身にしか従わず、最も重い責任さえも自らのみに帰することができるようになって初めて、人間という名にふさわしい人になるのだそうである。」

「見よ、これは、偉大な名辞によって、人の感情と傲慢を高揚しているのである。」

過去の大聖人たちは、その最高の頂点にいるとき、この尊厳をもっていたのでしょうか。これ程高く、これ程高尚に自らそそり立つこともせず、御摂理のまま、謹み深く自分の境遇に満足し、謙遜のうちに自分の義務を忠実に果たし、従順に忍耐深くこの人生を送った数多くの聖人たちは、人間の名に値しなかったのでしょうか。終わりの日に、わたしたちの主、イエズス・キリストが、彼らをその目立たない所から、天にいるご自分の民の君主たちの間におかれるでしょうが、彼らはそれでも人間の名に値しなかったのでしょうか!

 シヨンは、「将来の社会の手段」であると自称し、教師なく研究すると言っています。「研究サークルは、そのそれぞれが同時に同じく教師であり、生徒である知的共同活動の場であり、…司祭でさえも、そこに入るときは自分の崇高な司祭職を卑しめ、奇妙にもその役割を変えて生徒となり、若い青年の友と同列に身を落とし、友達にしか過ぎない存在となるのである。」

 ここから、シヨニストは教会位階制度に対立するのです。

(シヨン運動について:7)

社会正義と平等

2017-06-03 17:05:35 | エキュメニズム
社会正義と平等

 シヨンは、社会正義と平等について話しているつもりなのですが、教会の伝統的な、聖伝に基づく教えを改竄しています。

「シヨンにとって、条件の不平等は不正義であり、少なくとも正義に欠くことである。それは物事の本性に全く反対の事を教える原理であって、妬みと不正義を生み出すもの、全社会秩序を覆すものである。」

「かくて、民主主義だけが完全な正義を支配を開始すると言っている!これは他のさまざまな政治形態に対してなされる中傷、それらをある意味で全く無力な最後の手段としての地位におとしめる中傷ではないだろうか。」

 シヨンには「兄弟愛」についての考えもありますが、その「兄弟愛」はすべての考えを取り含むものです。「しかし、カトリックの教えは、わたしたちに愛徳の第1の義務は、たとえそれが誠実なものであったとしても、誤った思い込みを黙認することではなく、わたしたちの兄弟たちがずっしりと浸りつかっている誤謬や悪徳に対して、理論的にも実際的にも無関心でいることでもなく、彼らの知的、道徳的改善のために、彼らの物質的幸福のためにも熱心であることである。」と、聖ピオ10世は言います。

「これ程までにキリスト教的愛徳から兄弟愛を分離させるので、民主主義は、進歩であるどころか、文明にとって悲惨な後退となるであろう。」


(シヨン運動について:6)