2 Sola fides(信仰のみ)即ち、善業なし
ルターは救いのためには信仰のみで十分であり、その他の善業は不必要だという。施し、断食、苦行、修道生活における完徳の道、これらは功徳がないと言う。ルターは、人はそれらすべての善業において罪を犯しているのだとさえ言った。
ア)聖書の中にはこのプロテスタントの誤謬を論破する明らかな断言がある。
聖ヤコボの手紙にはこう書いてある。「善業のない信仰も死んでいる」(2;26)
黙示録の中には、主において死ぬ人々は幸いである何故なら「業は彼らに従うからである」(14;13)とある。
またマカベの書下には勇敢なユダが募金を行って、罪償のいけにえを捧げるようにエルサレムに送った話がある「これは聖い信心深い考えである」(12;45)
ルターは自分の「信仰のみ」という説を擁護するのが困難であるということを良く知っていた。そのため聖ヤコボの手紙を「藁くずの手紙」として簡単に捨て去り、黙示録を疑わしいとし、マカベの書を外典としたのだった。
イ)信仰と業との間と、霊魂と肉体からなる人間の本性との間との関係には類比が存在する。
霊魂は体を通して表現し、体は霊魂の道具である。この二つの間には相互関係があり、相互に影響し合っている。例えば、もし私が御聖体の前で跪くとすると、キリストの現存についての(内的)信仰を(外的に)表明するのである。他方で、外的なしぐさは、例えば、十字架のしるし、御辞儀などはそれをするたびごとに、私の信仰を強めてくれる。霊魂は外的な印によって内的に養われる。さらに、死による霊魂と肉体との分離の後には、霊魂と肉体とがもう一度その一致と相互補足を得る最後の審判のその日まで分離が続くが、それは一時的な状態でしかないということも忘れてはならない。
信仰と業との間にある関係についても類比によって見てみなければならない。一方で、信仰は業によって表明され、業は信仰の延長として現れる。他方で、善業は信仰を強める。信仰無くしては、業は、ちょうど霊魂をなくし死んだ肉体と同じく死んでいる。同じく、善業無くしては信仰は全く弱々しいか死んだも同然だと言わなくてはならない。
我々は、ちょうど霊魂と肉体とが2つ揃って初めて人間を構成するように、信仰と善業は天主の前で2つ揃って初めて功徳となるのだと言える。
人間の肉体も栄光へと呼ばれている。そして肉体の栄光化も人間の永遠の幸福の一部をなしている。
この類比の光の下で、我々はこう考えることができる。善業は我々の義化・聖化・光栄化に貢献する。
ウ)ロゴス(御言葉)は人となった。御言葉は霊魂と、目に見える人間の肉体を取った。。それと同様に、類比的に、信仰は「托身」する傾向にある。私たちのカテドラル、至聖所、教会、巡礼、行列、神学校、修道院、キリスト教施設、これらは皆目に見えるようになった私たちの信仰であり、さらに言えば石の建物、目に見える社会組織(例えばカトリック家庭、修道院、カトリック国家など)において「托身」した信仰なのである。
エ)教会は、我らの主イエズス・キリストの延長、続き、継続である。教会は従って、目に見える位階制度と、目に見える秘蹟を持つ。
秘蹟とは実に目に見えない聖寵を意味しかつ含み、伝達する目に見える印である。教会とは信仰と聖寵とを含む器のようである。善業は秘蹟と同じ仕方で信仰を含み強める。善業はただ単に信仰の結果ではなく信仰を生きることである。
オ)キリスト教の神秘はただ単に精神を照らす神秘ではない。霊魂の全機能とさらには肉体さえも完全に関与する神秘なのである。信仰は知性を照らし、天主の愛は意志を燃え立たせ、永遠の美しさは心を揺り動かし、肉体は霊的となる。
では、愛徳はどのようにして表現されるのか。もちろんそれは業によってである!
もし、業をキリスト教的愛徳のしるしと実りであると考えると、「信仰のみ」の教えは徳のうちでもっとの偉大な徳である愛徳を殺すものになる。
聖パウロは愛徳は信仰と希望に勝り、信仰・希望は死後廃れても、愛徳だけは永遠なもの故に永遠に留まると言った。
ルターは救いのためには信仰のみで十分であり、その他の善業は不必要だという。施し、断食、苦行、修道生活における完徳の道、これらは功徳がないと言う。ルターは、人はそれらすべての善業において罪を犯しているのだとさえ言った。
ア)聖書の中にはこのプロテスタントの誤謬を論破する明らかな断言がある。
聖ヤコボの手紙にはこう書いてある。「善業のない信仰も死んでいる」(2;26)
黙示録の中には、主において死ぬ人々は幸いである何故なら「業は彼らに従うからである」(14;13)とある。
またマカベの書下には勇敢なユダが募金を行って、罪償のいけにえを捧げるようにエルサレムに送った話がある「これは聖い信心深い考えである」(12;45)
ルターは自分の「信仰のみ」という説を擁護するのが困難であるということを良く知っていた。そのため聖ヤコボの手紙を「藁くずの手紙」として簡単に捨て去り、黙示録を疑わしいとし、マカベの書を外典としたのだった。
イ)信仰と業との間と、霊魂と肉体からなる人間の本性との間との関係には類比が存在する。
霊魂は体を通して表現し、体は霊魂の道具である。この二つの間には相互関係があり、相互に影響し合っている。例えば、もし私が御聖体の前で跪くとすると、キリストの現存についての(内的)信仰を(外的に)表明するのである。他方で、外的なしぐさは、例えば、十字架のしるし、御辞儀などはそれをするたびごとに、私の信仰を強めてくれる。霊魂は外的な印によって内的に養われる。さらに、死による霊魂と肉体との分離の後には、霊魂と肉体とがもう一度その一致と相互補足を得る最後の審判のその日まで分離が続くが、それは一時的な状態でしかないということも忘れてはならない。
信仰と業との間にある関係についても類比によって見てみなければならない。一方で、信仰は業によって表明され、業は信仰の延長として現れる。他方で、善業は信仰を強める。信仰無くしては、業は、ちょうど霊魂をなくし死んだ肉体と同じく死んでいる。同じく、善業無くしては信仰は全く弱々しいか死んだも同然だと言わなくてはならない。
我々は、ちょうど霊魂と肉体とが2つ揃って初めて人間を構成するように、信仰と善業は天主の前で2つ揃って初めて功徳となるのだと言える。
人間の肉体も栄光へと呼ばれている。そして肉体の栄光化も人間の永遠の幸福の一部をなしている。
この類比の光の下で、我々はこう考えることができる。善業は我々の義化・聖化・光栄化に貢献する。
ウ)ロゴス(御言葉)は人となった。御言葉は霊魂と、目に見える人間の肉体を取った。。それと同様に、類比的に、信仰は「托身」する傾向にある。私たちのカテドラル、至聖所、教会、巡礼、行列、神学校、修道院、キリスト教施設、これらは皆目に見えるようになった私たちの信仰であり、さらに言えば石の建物、目に見える社会組織(例えばカトリック家庭、修道院、カトリック国家など)において「托身」した信仰なのである。
エ)教会は、我らの主イエズス・キリストの延長、続き、継続である。教会は従って、目に見える位階制度と、目に見える秘蹟を持つ。
秘蹟とは実に目に見えない聖寵を意味しかつ含み、伝達する目に見える印である。教会とは信仰と聖寵とを含む器のようである。善業は秘蹟と同じ仕方で信仰を含み強める。善業はただ単に信仰の結果ではなく信仰を生きることである。
オ)キリスト教の神秘はただ単に精神を照らす神秘ではない。霊魂の全機能とさらには肉体さえも完全に関与する神秘なのである。信仰は知性を照らし、天主の愛は意志を燃え立たせ、永遠の美しさは心を揺り動かし、肉体は霊的となる。
では、愛徳はどのようにして表現されるのか。もちろんそれは業によってである!
もし、業をキリスト教的愛徳のしるしと実りであると考えると、「信仰のみ」の教えは徳のうちでもっとの偉大な徳である愛徳を殺すものになる。
聖パウロは愛徳は信仰と希望に勝り、信仰・希望は死後廃れても、愛徳だけは永遠なもの故に永遠に留まると言った。