第二バチカン公会議を機に、カトリック教会の変化と凋落は始まりました。伝統派が敗北し、リベラルが勝利し、事実上、教義が刷新された公会議です。
(解説)第二バチカン公会議
2、準備期間
会議の準備に2年が費やされた。その間、まず世界中のカトリック教会関係者から公会議の議題に関する意見書が集められ、次に教皇に任命された10の各準備委員会がそれらの意見書を検討したうえで、公会議の議題の草案(ラテン語で単数形schema と書き「スケーマ」と発音する、複数形は、schemata で「スケーマタ」と発音する。フランス語では、単数形 schéma (複数形 schémas )と書き「シェーマ」と発音する)を作成した。
2-1、前準備委員会(commissio antepraeparatoria)
1959年5月17日、教皇ヨハネ23世は、当時国務長官であったタルディーニ枢機卿を委員長として、前準備委員会(commissio antepraeparatoria)を任命した。
1959年6月18日、前準備委員会は、全世界の司教、修道会、カトリック大学などに公会議で討論すべき話題の提案を求めた。司教たちのからの返答によれば、カトリックの教理的な明確さを要求した司教は殆どいなかった。
1960年6月5日、ヨハネ23世は、自発教令『スペルノ・デイ・ヌートゥ』Superno Dei Nutu によって、第2バチカン公会議の準備のための10の委員会(commissiones praeconciliares)と3つの事務局が設立された。同時に、これらの委員会の上に、120名から成り立つ「公会議中央準備委員会 (Central Preparatory Commission for the Council)」 を置き、その委員を任命した。公会議中央準備委員会は、世界の司教たちからの提案をもとに 10の準備委員会によって起草された草案を吟味する責任があった。
1960年6月6日、日本の土井辰雄枢機卿を含める36人の中央準備委員が任命された。中央準備委員会、各委員、顧問(consultor)の数は、その後の任命によって更に拡大し、1961年 2月までに、710人(内訳は委員393人、顧問317人)に達していた。更に1961年 12月には、827人となっていた。1962年 6月まで、中央委員会は多くの会議を開き、公会議の準備を進めていった。
すでにこの中央準備委員会の内部で、対立する枢機卿たちの闘いが繰り広げられていた。つまり、検邪聖省長官代理アルフレド・オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会とそれに協調する「ローマ派」と、キリスト者の一致促進のための事務局事務長アウグスティノ・ベア枢機卿とその補佐ヤン・ウィレブランとそれに協調するリベラル派であった。
2-2、準備委員会顧問名簿
1961年6月15日、中央準備委員会の第1回総会で、1960年6月に指名された準備委員会の顧問名簿と公会議の規定との間に矛盾があることが告発された。 顧問名簿の中で、イヴ・コンガール、アンリ・ドゥ・リュバック、カール・ラーナーの少なくとも三人は、教会当局から制裁措置を受けた事があり、本来なら顧問になる資格がなかったにもかかわらず、名簿にその名前が記載されていた。しかし、オッタヴィアーニ枢機卿はこの告発を取り上げなかった。教皇がそれを望んでいたのだった。
2-3、中央準備委員会の総会
1962年1月20日、中央準備委員会の総会で、オッタヴィアーニ枢機卿は自分の草案「純粋に守るべき信仰の遺産について」を発表した。アルフリンク枢機卿は「一つの哲学派にとらわれている」と批判した。ベア枢機卿は「スコラ哲学的な言い回し」を攻撃した。そこでリエナール、フリンクス、アルフリンク、デフナー、ケーニッヒ、レジェーの進歩派とルッフィーニ、シリ、ララオナ、ブラウンの保守派とが、深刻に厳しく対立していた。
1962年2月23日、マルセル・ルフェーブル大司教は、これらの対立を調停するように、公会議が二つの種類の文書を作ることを提案している。一つは、保守派のスコラ的で正確な学問的な表現で、現代の誤謬を拒否する「排斥文 canon」付属の草案、もう一つは、進歩派が望むような司牧的で肯定的な短い文書であった。しかし、この提案は何もされず、そのままになった。
2-4、中央準備委員会の典礼についての討議
1962年 3月から4月まで、中央準備委員会の総会では、典礼に関して討議された。
1962年3月27日、アンニバレ・ブニーニ神父の臨席のもと、ララオナ枢機卿はブニーニ神父草案のミサの通常文の改革計画を出席者の教父たちに説明した。ララオナ枢機卿はこの改革に抵抗試みたが、自分の前任者であったガエタノ・チコニャーニ枢機卿が署名していたので、やむなくそうした。
この草案は革新的な原則に従って、典礼全体を体系的に改革する計画であった。リベラルな教父たちは賞賛した。デフナーは「中央委員会に提出された全ての草案の中で、最も注目するに値するものの一つである」と賛美した。レルカノもこの草案に賛成した。
「ローマ派」の枢機卿たちは反対した。オッタヴィアーニは「過度な革新に大きく門を開きすぎる」と批判した。ゴッドフレ枢機卿は異議を唱えた。この改革は「キリスト教徒らに驚愕を引き起こす革命的な改革」(オッタヴィアーニ)であり、礼拝を捨て去り聖伝を蔑視するという意味で反典礼的だった。
1962年3月30日、アガジアニアン枢機卿は、宣教国のために自国語のミサを提案した。ルフェーブル大司教は「典礼と典礼様式に関して、司教評議会が法規を制定することができる、という原則が受け入れられると、それがたとえ教皇の承認をもってはじめて許可されるとしても、民族的典礼と国民典礼様式とに回帰してしまう、典礼の一致のための過去の二世紀のすべての努力が無駄になってしまう、芸術とグレゴリオ音楽は没落する、無秩序状態になる危険がある」と指摘した。
http://fsspxjapan.fc2web.com/qa/qa3.html
(解説)第二バチカン公会議
2、準備期間
会議の準備に2年が費やされた。その間、まず世界中のカトリック教会関係者から公会議の議題に関する意見書が集められ、次に教皇に任命された10の各準備委員会がそれらの意見書を検討したうえで、公会議の議題の草案(ラテン語で単数形schema と書き「スケーマ」と発音する、複数形は、schemata で「スケーマタ」と発音する。フランス語では、単数形 schéma (複数形 schémas )と書き「シェーマ」と発音する)を作成した。
2-1、前準備委員会(commissio antepraeparatoria)
1959年5月17日、教皇ヨハネ23世は、当時国務長官であったタルディーニ枢機卿を委員長として、前準備委員会(commissio antepraeparatoria)を任命した。
1959年6月18日、前準備委員会は、全世界の司教、修道会、カトリック大学などに公会議で討論すべき話題の提案を求めた。司教たちのからの返答によれば、カトリックの教理的な明確さを要求した司教は殆どいなかった。
1960年6月5日、ヨハネ23世は、自発教令『スペルノ・デイ・ヌートゥ』Superno Dei Nutu によって、第2バチカン公会議の準備のための10の委員会(commissiones praeconciliares)と3つの事務局が設立された。同時に、これらの委員会の上に、120名から成り立つ「公会議中央準備委員会 (Central Preparatory Commission for the Council)」 を置き、その委員を任命した。公会議中央準備委員会は、世界の司教たちからの提案をもとに 10の準備委員会によって起草された草案を吟味する責任があった。
1960年6月6日、日本の土井辰雄枢機卿を含める36人の中央準備委員が任命された。中央準備委員会、各委員、顧問(consultor)の数は、その後の任命によって更に拡大し、1961年 2月までに、710人(内訳は委員393人、顧問317人)に達していた。更に1961年 12月には、827人となっていた。1962年 6月まで、中央委員会は多くの会議を開き、公会議の準備を進めていった。
すでにこの中央準備委員会の内部で、対立する枢機卿たちの闘いが繰り広げられていた。つまり、検邪聖省長官代理アルフレド・オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会とそれに協調する「ローマ派」と、キリスト者の一致促進のための事務局事務長アウグスティノ・ベア枢機卿とその補佐ヤン・ウィレブランとそれに協調するリベラル派であった。
2-2、準備委員会顧問名簿
1961年6月15日、中央準備委員会の第1回総会で、1960年6月に指名された準備委員会の顧問名簿と公会議の規定との間に矛盾があることが告発された。 顧問名簿の中で、イヴ・コンガール、アンリ・ドゥ・リュバック、カール・ラーナーの少なくとも三人は、教会当局から制裁措置を受けた事があり、本来なら顧問になる資格がなかったにもかかわらず、名簿にその名前が記載されていた。しかし、オッタヴィアーニ枢機卿はこの告発を取り上げなかった。教皇がそれを望んでいたのだった。
2-3、中央準備委員会の総会
1962年1月20日、中央準備委員会の総会で、オッタヴィアーニ枢機卿は自分の草案「純粋に守るべき信仰の遺産について」を発表した。アルフリンク枢機卿は「一つの哲学派にとらわれている」と批判した。ベア枢機卿は「スコラ哲学的な言い回し」を攻撃した。そこでリエナール、フリンクス、アルフリンク、デフナー、ケーニッヒ、レジェーの進歩派とルッフィーニ、シリ、ララオナ、ブラウンの保守派とが、深刻に厳しく対立していた。
1962年2月23日、マルセル・ルフェーブル大司教は、これらの対立を調停するように、公会議が二つの種類の文書を作ることを提案している。一つは、保守派のスコラ的で正確な学問的な表現で、現代の誤謬を拒否する「排斥文 canon」付属の草案、もう一つは、進歩派が望むような司牧的で肯定的な短い文書であった。しかし、この提案は何もされず、そのままになった。
2-4、中央準備委員会の典礼についての討議
1962年 3月から4月まで、中央準備委員会の総会では、典礼に関して討議された。
1962年3月27日、アンニバレ・ブニーニ神父の臨席のもと、ララオナ枢機卿はブニーニ神父草案のミサの通常文の改革計画を出席者の教父たちに説明した。ララオナ枢機卿はこの改革に抵抗試みたが、自分の前任者であったガエタノ・チコニャーニ枢機卿が署名していたので、やむなくそうした。
この草案は革新的な原則に従って、典礼全体を体系的に改革する計画であった。リベラルな教父たちは賞賛した。デフナーは「中央委員会に提出された全ての草案の中で、最も注目するに値するものの一つである」と賛美した。レルカノもこの草案に賛成した。
「ローマ派」の枢機卿たちは反対した。オッタヴィアーニは「過度な革新に大きく門を開きすぎる」と批判した。ゴッドフレ枢機卿は異議を唱えた。この改革は「キリスト教徒らに驚愕を引き起こす革命的な改革」(オッタヴィアーニ)であり、礼拝を捨て去り聖伝を蔑視するという意味で反典礼的だった。
1962年3月30日、アガジアニアン枢機卿は、宣教国のために自国語のミサを提案した。ルフェーブル大司教は「典礼と典礼様式に関して、司教評議会が法規を制定することができる、という原則が受け入れられると、それがたとえ教皇の承認をもってはじめて許可されるとしても、民族的典礼と国民典礼様式とに回帰してしまう、典礼の一致のための過去の二世紀のすべての努力が無駄になってしまう、芸術とグレゴリオ音楽は没落する、無秩序状態になる危険がある」と指摘した。
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