5月は太陽の出ている日は家事に励んで、
気持ちのいい日を
あまり楽しまずにすぎてしまった。
さらさらとした空気の5月は、もう遠い日の
記憶といったものでしかなくなるのだろうか?
ここのところ、からだのメンテナンスで忙しく
本もたいして読み切っていないのが残念。
今読んでいる本の1冊は・・・
C.マラン『熱のない人間』(法政大学出版局)
その前に
外須美夫の著書2冊を読んだ。
彼は麻酔医。
文学の中に「痛み」を見つけながら、「痛み」の
当事者と相対している。
明治から昭和にかけての文学を担ってきた人のなかで
痛みを抱えて執筆した人のことを書いている。
読みながら、書いている人の思いを想像するには
面白い本だったが、
「痛み」を「受け入れる」「ユーモアに」してしまう、
などといった痛みの受容の「すばらしさ」といった
点に着目しているのが引っかかた。
そんなに簡単に「痛み」は受容できないと
わたしは感じているし考えている。
死に直結する痛みと、慢性疼痛と、克服した痛みは
それぞれやはり意味が違うような気がする。
死を前にしてもまだ痛むからだをユーモアで昇華する
ことはできるのだろうか?
むしろ見ないように、目をそらすようにしながら
痛みの弱くなった瞬間に書きとっていた文章や句であり、
痛みはやはり人を弱くするとしか思えない。
弱さを受け入れて初めて痛みも自分の道連れに
できるのだと。
『熱のない人間』の帯に
「治癒をもたらさすことなく治療をすることは
可能か」とある。
ある文章に(一部省略)
>病者や障害者らについても
>自分の被っている暴力を隠し元気であるふりをする
>自分自身を隠蔽すること
>あまりに長く病人であってはならない
>障害を負っていないふりをする
>病人でないふりをする
>その負担の重さを否定することが求められる
>病む人は、苦しみを最小化するというゲームを
>演じることによってはじめて、社会空間の中に
>自分の居場所を見出すことができる
などと書かれていた。
身体というもの、
健康であることをどうかんがえるか、
そういったことにも言及している。
技術が侵入したことで身体観が変わってきたしまった。
痛みや違和感があって初めて、自分の身体を対象として
感じ考えることができるということ。
などなど、痛みの当事者でありつつも、
痛みを相対化して考えている・考えられる人の著作を読む
ことが、今のわたしにとっては大事。
まだまだわたし自身の痛み学、当事者性を
考えていくことが続きそうだ。
気持ちのいい日を
あまり楽しまずにすぎてしまった。
さらさらとした空気の5月は、もう遠い日の
記憶といったものでしかなくなるのだろうか?
ここのところ、からだのメンテナンスで忙しく
本もたいして読み切っていないのが残念。
今読んでいる本の1冊は・・・
C.マラン『熱のない人間』(法政大学出版局)
その前に
外須美夫の著書2冊を読んだ。
彼は麻酔医。
文学の中に「痛み」を見つけながら、「痛み」の
当事者と相対している。
明治から昭和にかけての文学を担ってきた人のなかで
痛みを抱えて執筆した人のことを書いている。
読みながら、書いている人の思いを想像するには
面白い本だったが、
「痛み」を「受け入れる」「ユーモアに」してしまう、
などといった痛みの受容の「すばらしさ」といった
点に着目しているのが引っかかた。
そんなに簡単に「痛み」は受容できないと
わたしは感じているし考えている。
死に直結する痛みと、慢性疼痛と、克服した痛みは
それぞれやはり意味が違うような気がする。
死を前にしてもまだ痛むからだをユーモアで昇華する
ことはできるのだろうか?
むしろ見ないように、目をそらすようにしながら
痛みの弱くなった瞬間に書きとっていた文章や句であり、
痛みはやはり人を弱くするとしか思えない。
弱さを受け入れて初めて痛みも自分の道連れに
できるのだと。
『熱のない人間』の帯に
「治癒をもたらさすことなく治療をすることは
可能か」とある。
ある文章に(一部省略)
>病者や障害者らについても
>自分の被っている暴力を隠し元気であるふりをする
>自分自身を隠蔽すること
>あまりに長く病人であってはならない
>障害を負っていないふりをする
>病人でないふりをする
>その負担の重さを否定することが求められる
>病む人は、苦しみを最小化するというゲームを
>演じることによってはじめて、社会空間の中に
>自分の居場所を見出すことができる
などと書かれていた。
身体というもの、
健康であることをどうかんがえるか、
そういったことにも言及している。
技術が侵入したことで身体観が変わってきたしまった。
痛みや違和感があって初めて、自分の身体を対象として
感じ考えることができるということ。
などなど、痛みの当事者でありつつも、
痛みを相対化して考えている・考えられる人の著作を読む
ことが、今のわたしにとっては大事。
まだまだわたし自身の痛み学、当事者性を
考えていくことが続きそうだ。