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そらと風に《メイサートンによせて》

空が好き。風をからだに受けながら,ボーっとするのも …ごぶさたしました。13年ぶりに再開です。

梅雨は「痛み」に厄介なのだ。

2018-06-09 06:25:05 | 本や映画、絵
5月は太陽の出ている日は家事に励んで、
気持ちのいい日を
あまり楽しまずにすぎてしまった。
さらさらとした空気の5月は、もう遠い日の
記憶といったものでしかなくなるのだろうか?

ここのところ、からだのメンテナンスで忙しく
本もたいして読み切っていないのが残念。

今読んでいる本の1冊は・・・
C.マラン『熱のない人間』(法政大学出版局)

その前に
外須美夫の著書2冊を読んだ。
彼は麻酔医。
文学の中に「痛み」を見つけながら、「痛み」の
当事者と相対している。

明治から昭和にかけての文学を担ってきた人のなかで
痛みを抱えて執筆した人のことを書いている。

読みながら、書いている人の思いを想像するには
面白い本だったが、
「痛み」を「受け入れる」「ユーモアに」してしまう、
などといった痛みの受容の「すばらしさ」といった
点に着目しているのが引っかかた。

そんなに簡単に「痛み」は受容できないと
わたしは感じているし考えている。

死に直結する痛みと、慢性疼痛と、克服した痛みは
それぞれやはり意味が違うような気がする。
死を前にしてもまだ痛むからだをユーモアで昇華する
ことはできるのだろうか?
むしろ見ないように、目をそらすようにしながら
痛みの弱くなった瞬間に書きとっていた文章や句であり、
痛みはやはり人を弱くするとしか思えない。
弱さを受け入れて初めて痛みも自分の道連れに
できるのだと。

『熱のない人間』の帯に
「治癒をもたらさすことなく治療をすることは
 可能か」とある。

ある文章に(一部省略)

>病者や障害者らについても
>自分の被っている暴力を隠し元気であるふりをする
>自分自身を隠蔽すること
>あまりに長く病人であってはならない
>障害を負っていないふりをする
>病人でないふりをする
>その負担の重さを否定することが求められる
>病む人は、苦しみを最小化するというゲームを
>演じることによってはじめて、社会空間の中に
>自分の居場所を見出すことができる

などと書かれていた。

身体というもの、
健康であることをどうかんがえるか、
そういったことにも言及している。

技術が侵入したことで身体観が変わってきたしまった。

痛みや違和感があって初めて、自分の身体を対象として
感じ考えることができるということ。

などなど、痛みの当事者でありつつも、
痛みを相対化して考えている・考えられる人の著作を読む
ことが、今のわたしにとっては大事。

まだまだわたし自身の痛み学、当事者性を
考えていくことが続きそうだ。

わたしの痛み。

2018-05-11 22:12:00 | 日常生活あれこれ
投稿しなくなって久しい。
親指を除いた指先、右も左もどうしてか痛い。
原因不明。
キーをたたくのが億劫になってしまう。

ところで、わたしを悩ませるわたし自身のからだの
あちこちの痛み。
いろいろな手を講じているがなかなか良くならない。

最近またはやっているのか、
認知行動療法による痛みの緩和も
わたしには効き目がなかった。

2年間、その手のカウンセリングを受けたけれど
一定のところで立ち止まったままだ。

脳内の物質、
・セロトニンを増やす
・ノルアドレナリンを低くおさめる
・オピオイドによって痛みを緩和させる物質を増やす
 (その物質、名称がが出てこない・・・)
・眠りを改善してメラトニンを増やす
ほか、やれることは試しているがそううまくいかない。


「ヨブ記」に書かれているような、
痛みを原罪を介してとらえることで克服する
という考え方はは、しっくりこない。

痛みを痛みとして受け入れるということが、
いまひとつピンとこない。
けれど、正岡子規や石田波響
石田波郷とか、パスカルやカントや
モネといった他大勢の人たちが痛みつつも
生きていた事実がある。

どう考えればいいのだろう?
どう感じればよいのだろう?

外という麻酔医の本を2冊ほど読む。
考えながら読む。

多肉植物を買う。

2018-04-09 09:27:01 | 日常生活あれこれ
多肉植物を買ってきた。
一鉢250円也。5鉢。

ずっと鉢物を買うのを自分に禁止していた。
育てられなくてきっと枯らしてしまうから。
それではかわいそうだし、身勝手だし。

でも偶然、観葉植物と多肉植物を扱う専門店の
前を通りがかってしまい、ながなが覗き見て
買わないつもりでいたのに、
多肉植物系女子っぽい人たちが次々と鉢をかごに
いれているのを見たら、
もう手がとまらなくなってしまった。

また偶然、某テレビ局で放送中の
「植物男子・・・」をみていたら、多肉植物の
恋物語がはじまり、そこに買ってきた種類のものが
2つも登場していたので、
これは単なる偶然とは言えない、
運命的な出会いだと勝手に解釈している・・・
そんなわたしであった。

今朝も、鉢が輝いている。
まだ水やりは厳禁だ。

けやき新緑。

2018-04-08 19:07:48 | 俳句や詩
 

 今日の句


  いつの間に空せばめしやけやき新緑


元気になってきた。
きちんとした投稿はまた次回。

『文豪の朗読』と愚痴。

2018-04-04 16:34:54 | 本や映画、絵
身体が何となく重い状態が続いている。
気持ちも重い。
呼吸が浅くなったのはいつ頃から?
仕事をしなくなって、人と話をしなくなったのは
あんがい大きい要因かもしれない。

それもあって、朗読の練習をしようと
思わず買ってしまったのが『文豪の朗読』。
平積みになっていたので。
文豪の文章がちょっとづつ載っていて、
朗読には最適。

おまけに本の帯には
「2019年2月9日から1年間の期間限定で
 インターーネット上に朗読音声の一部を
 無料公開します」
と書いてあった。

さっそくネットで検索した。
ところが示されたHPにいっても、
その無料公開コーナーがみつからない。

しかたがないので、メールで無料公開の件を
聞いてみたのだけれど、なしのつぶてで連絡なし。

朝日新聞出版!朝日新書なのにそんなことあるかしらん?
わたしの探し方がいけないのなら、
その旨知らせてくれればいいのに・・・

ということで、
ネットの朗読公開も含めて出したつもりの本の代金、
ちょっと損した気がしてしまった。

声を出さない・人と話さないというのは
からだにもよくないと思う近頃。
声を出すのも、身体の緊張を解くには必要かもしれない。
読むだけでも『文豪の朗読』読まなくちゃ。

逆行的小児体験。

2018-04-02 02:08:45 | 本や映画、絵
30年近く仕事をしてきて、いろいろな経験をした。
からだと心に浸みこんでしまったものからは、
もういい加減解放されて来ていると思い込んでいたが、
実際はそう簡単なことではないようだと
改めて実感する。

『小児期トラウマがもたらす病』
『トラウマと記憶』の2冊を並行して読みながら、
わたしの抱えているものはトラウマといってもいいのだと、
ようやく納得した。

アメリカ中心に、ACE(逆行的小児体験)というとらえ方が
受け入れられてきつつあるようだ。

子どものころの虐待やネグレクトといったはたから見て
わかるようなものだけではなく、
長時間続く親の不安感や、親自身がつらさで手いっぱいの時の
感情などが、こどもの身体的脆弱性につながるというような
報告が出されている。

ちょうどいいストレスは子どもを強くするが、
安心感のないところで受けるストレスは脳細胞・神経・ホルモン
遺伝子にまで影響する。
女性が中年を過ぎて発症する免疫系の疾患も、そういった
背景を伴うことがしばしばあるという。

どうすれば、このトラウマを克服できるのか?
暴露法は一時期はやったが、今では問題視されているし、
記憶は後から書き換えられたものであるという考え方も、
またいちがいに肯定できない。

身体に感情と共に刻まれてしまったものは、身体で取り戻す
ことが必要だし、記憶も、顕在記憶ではなく無意識の領域で
働く記憶をコントロールしなくてはならない。

まずは感情と記憶をあわせて外化すること、ナラティブとして
語ることが一つの最初の方法。
でもこれすら一人では難しい。

まだまだ時間がかかりそうな課題をもっているけれど、
いづれはからだの痛みもともに解消または低減できると
気楽に考えるしかなさそうだ。

天職というけれど。

2018-03-29 22:21:51 | 日常生活あれこれ
先日、ある訴訟を起こした女性の支援の会に
行ってきた。
彼女は大学の先生。
同僚からパワハラを受け、講義をできない状態になって
しまっている。
この状態の改善を要求した訴訟を、同じ大学の
先生たちや仲間で支援している。
その会に行ってみたというところ。

最初に、彼女の専門としていることについて
研究発表のような講義を聞き、そのあとで
訴訟の段階についての説明があった。

自己紹介もかねての講義。
このなかで
「教育は私の天職です。」
と彼女がうれしそうに語ったのが印象深かった。

ハラスメントを受けても、天職としての職業に戻る
希望に満ち満ちていること。

わたしにはそういう気力や余力や・・・いろいろなものが
すでになくなっている。
そもそも天職などというものはなかった。
いつも、これではいけないと思うばかりで達成感もなく、
どのサイドからも非難を受けてばかりだった。
もちろん、時々は仕事をしていてよかったと思える瞬間も
あったことは事実だ。
優しい言葉を生徒たちからかけてもらった。
でも、本業の教える内容については懐疑ばかり、
改善の必要性ばかりだったから、
じつは今、仕事から解放されて「天国」にいる
とさえいえるかもしれない。
時間に追われず、びくびくすることもなく、
具合が悪ければ休んでいられる。

それにしても、なぜか彼女の希望に満ちた顔が
わたしの心に引っかかって離れない。
思ったより、わたし自身の負った傷が深かったようだ。
また、トラウマやPTSDに関する本を注文してしまった。
脳科学によってどこまで解決できるか、
ちょっとした手掛かりでも大事に思う。

トラウマやPTSDという言葉は、
今ずいぶんと拡大解釈されて、なんでもトラウマといって
しまう風潮があるけれど、もう少し厳密に語られなければ
ならないと感じている。

なにもかも、精神の病気にしてしまうのも間違いだし、
気質や遺伝子に還元してしまうのも間違いだ。
発達段階での問題と、社会環境と、様々な要因がからみ
問題が複雑になっている。
だからこそ、解決が難しいし意見も割れている。
だからこそ、知りたいことばかり。
少しでも、わたしの現状をよくするために。


福島県葛尾村のこと。

2018-03-16 10:45:06 | 世間のこと
録画しておいたテレビ番組(ドキュメンタリー)を
みた。
福島県葛尾村の戦後の歴史を3人の家族を中心に
追ったものだ。

葛尾村は福島原発事故で強制避難区域に指定
されて、去年その指定が解けたところ。
小学校も新築されたが、小学生はだれ一人
戻ってきていない。
村にいた若い世代のほとんどが帰っては来ない。

「こんな風になったのは、なにも原発事故が
 あったせいだけではない。
 事故がなかったとしても、同じことになっただろう。
 10年・20年先に来ることが、早く来てしまった
 ということに過ぎない。」
と、農業を続けようとしている70代近くの男性が
土地のことばで話していた。

今年、避難解除をきっかけに村長を辞めた人は、
こう話す。
「生きるってことは難しいんだ。
 若い人を責めるわけにはいかない。いったん、
 ここを離れて生活してみれば、教育だの、生業だの
 いろんなことで今の生活がいいっていうのは
 当然のことだろう。
 みんな、わたしも欲しい欲しいばっかりだったから。
 (原発誘致・道路など公共事業に頼った生活も含め)
 生きるってのは難しい。」

限界集落という名をつけたり、少子化といったり
いろいろ問題は語られるけれど、どこからどう
手を付けていけばいいのだろう。

フランスではもうかなり前から、少子化が見えていた
からそれに備えて少子化を食い止める政策をとって
きたという。
だから、今、少子化に歯止めがかかりつつある。

日本の場合、すでに子どもを生める若者の絶対数が
減ってきてしまっているから、今から子どもを
増やそうといってもすでにフランスのように
元には戻らない。



過疎の村・荒れた森や田畑・原発自己の処理のことを
遠い場所のことだとつい思ってしまう。
でも、それはすでに自分のこととして関係してくるし、
問題が自分にも降りかかってくるまでもうすぐだ。


生きるのは難しい、
ということばは重く重く残るけれど、
それでもなんとかにこにこして生きていく。
自分自身が幸せになることも、大事な条件。
同時に見知らぬ人も幸せになってくれるのも
また大事なこと。


わたしも、考えてみれば原発事故のあった
時あたりから、あちこちが痛み始めた。
ずっと病院めぐりをしてきたことに思いつく。
7年過ぎても、痛みは身体にしがみつきやっかいだ。
でも、少しづつ解決の糸口は見つかり、治療や
生活の仕方を変えらるし、変えてきている。
7年しかまだ過ぎていないのだけれど、
それでも時間は過ぎる。
歴史には残らなくとも、できることなら幸せに生きて
生きたいと思う。



朗読あれこれ。

2018-03-07 07:34:35 | その他
昨日は朗読のことを書いた。
書いた後で、間違いに気づく。
仕入れたのは、機材とアプリではなく、ソフトというものだった。

わたしはパソコン用語にめっそう弱い。
ことばの意味を知らずに使っている機能がたくさんあって、
調べないとなぁと思いつつそのままでいる。
これはまずい。けれど後回し。

そのソフトも、すっかり使い方を忘れている。
宝の持ち腐れだ。
ただしこのソフトは、あくまで指定を受けたそのNPOに
使用権を認めているものだから、私用には使わないことが
おそらく条件になっている。
だから、今のところあくまで練習用に使うしかない。

ところで、朗読は読むのが一番大事な仕事と思うのが
ふつうだろうけれど、ところがどっこいである。
読む前の準備が一番大変なのだ。

まとまりのいいところまで全体を読んで、
書かれていることのおおよその意味をつかんでおかなくては
ならない。
どこを強調すべきか、音をたてる(はっきりきわだたせる)
ところをチェックしておく。

読めない漢字・曖昧な漢字はないか、あったらかならず
辞書で確認。それをすべて一覧表に書き出す。
とくに人名や地名はできるだけ確認しておかなくては
ならない。

次にアクセント。ここが難しい。
自分で知っているつもり・正しいと思い込んでいるアクセントが
あんがい間違っているから。
アクセント、イントネーションを辞書で確認。

こうして確認作業の連続ののち、朗読となる。
ベテランさんたちは
「ここまでくれば、あとは読むだけだからすぐよ。」
というが、新人は、これから読みの練習がある。
つっかえないように、音を立てるところ、間をとるところ、
とそれぞれ考えながら読むことになる。

小説はとくに間合いが大事だ。
場面転換、心情の変化、環境の変化など、間で表すところは多い。
録音するときは、息が大きな音で入ってしまうと
編集しなくてはならないから、息継ぎもうまくしなくては
ならない。

こんなことをまた練習して感を取り戻せるだろうか・・・
仲間がいない状態で。

でも、朗読したい。
気長にやるしかないか。



わたしの埋没資源。

2018-03-06 17:01:36 | その他
テレビで、神奈川県のある地域の中で使われている
地域通貨のことを知る。「萬」という通貨だ。
使う・もらうなどは通帳にプラスで書き込み、
やってあげる・何かをあげると通帳にマイナスで書き込む。
相手とは対面して通帳に記入・サインすることで、
地域の人的交流も進める力になるという。
あげる一方つまりプラスばかりがたまる人もいれば、
野菜などもらうばかりで通帳にはマイナスがどんどん
たまっていく人もいる。
でもこれを追い目に感じることはないというのがすごい。
相手の埋没していた能力を引き出したことになるので、
これも地域への貢献となるそうだ。

そんなニュースを聞いていたら、わたし自身の隠れている
力(!?)を思い出してしまった。

数年前に半年間、週1回のペースで、朗読の講習を受けたことがある。
もともと地域のNPO主催で、地域の広報などを朗読し図書館に
収めるためのボランティア養成の講習だった。
発音・活舌からイントネーション・小説や新聞・雑誌・
表やグラフ、挿絵の読み方なども習い、朗読用の機材も
アプリも入手し本格的にボランティアを始める寸前まで
行って親の介護の関係で引越ししなくてはならなくなって、
そのまま。

今では活舌も悪く、声も続かず、一回練習しなおさないと
ならないけれど練習すれば何とかなるかもしれない。
朗読を必要とする人、
なにも視覚障害を持つ人に限らず、本や文章を読んでほしい人は
あんがいいるのではないかしら。
そういう人にわたしを届けてあげればいいかも!

そんな夢をまたもってしまった。
夢見がちな年ごろか??



ブックカフェではなく・・・

2018-03-04 17:12:28 | 日常生活あれこれ
ある新聞に、
柳美里と佐藤弘夫著『春の消息』(第三文明)刊行の記事が
載っていた。

初めて知ったのは、柳美里が2015年に福島の南相馬市に
移住していたということ。
そこでブックっカフェ「フルハウス」というのを
開くこと。

この本にも興味があるけれど、ブックカフェも
行ってみたくなる。

ブックカフェ、というタイトルがついている雑誌など
つい手に取りたくなってしまうし、行ってみたい
と思うけれど、実際はあまり行ったことがない。
ブックカフェ・・・あこがれるなぁ・・・

と思ったところで、昨日アップしたわたしの夢と
ブックカフェはどう交わるか?考えてみた。

ブックカフェは、静かな時間を一人ゆったり味わうところ。
だから、わたしの夢の場所は一人というところで
残念なことに一致しない。

認知症カフェと子ども食堂を合わせたような、
そんなところかもしれない。

第一に居場所にならなくてはならない。
気軽によれて、ずっといられる。
冬はあったかくて、夏はそこそこ涼しい。

そのうえで、
お互い過干渉にはならないけれど、
そこそこ話しやすい感じを醸し出しているところ。
大声は出さないルール。
緑もいっぱいで、できればみんなで育てたい。
絵本と、私の持っている本や持ち寄ってくれた本が
自由に読めるところ。

おなかがすいていたら、軽く食べたり飲んだり。
高齢者と子ども、母親、病気を持っているけれど外で
話をしたい人、障害もOK。
いろいろな人が集まって、それぞれが遊んで
めんどうをみあっていけるところ。
こっそり泣けるところと、ニコニコできるところ
両方が必要。
からだの心配や学校の心配、老いの心配
世間の心配について肩ひじ張らずにしゃべれるところ。

そんな居場所が作れたらいいと思うのだ。
居場所があれば、べつにわたしが相談を受けなくても
ただの管理人になればいいから。

二日にもわたって同じことを書いているけれど、
こういう夢を語るのは楽しくて・・・

ゆるーいつながりがもてる場が欲しい今。
本の話がしたい今。
そんな今だ。

こんな夢。

2018-03-03 17:24:31 | 日常生活あれこれ

仕事を辞めて、いわゆる社会参加ができなくなっている状態が続いている。
一番困っているのは、身体の衰え。

まずは人と話さないから、声を出す力や表情筋をほぼ使わない。
(夫と話すときには、緊張がかからないから、意識的な筋の使い方は
なかなかできない)
あと、座っているにしろ、立っているにしろ、垂直を保つ筋力が
落ちっぱなしだ。
そして、ことばを発しない・書かないから、ことばが出てこないし
語彙が減っている。

といったいろいろをそろそろ何とかしたい。
そう強く思ってい現在。
なんとか腰を上げて、来週ボランティアの見学に行くことにした。



じつは、わたし、ある夢をもっている。


お寺のようなところ
天井が高くて、木で囲まれていて、縁側があって日当たりのあるところで、
子どもも高齢者も、若いお母さんたちも好きな時に寄って、
話を聞いてあげたり、何か手伝ってあげたり、
本をよんでみたらどう?と勧めてみたり、
一緒にお茶を飲んだり、
そんな
よろず相談所もどきを開くこと。



ゆったりした時間とお茶と縁側が大事だ。
そこで介護保険や発達障害の関係施設などにたどり着くよう
話をしたりなど、福祉や教育の制度と人をつなぐような
お手伝いをしたりする。
もう少しいえば、メンタルな面のかんたんなアドバイスで
お医者さんや保健所とつなげたり、
学校での教員との関係の取り方とか発達障害のなやみ話を聞いたり、
認知症の問題を一緒に考えたり、
親との関係についてもいっしょに考えたり・・・
片麻痺の生活とか、脳梗塞とリハビリのこともいっしょに考えたいし。

こうしたことを少しだけお金に結び付けて(持ち出しをしないで済むようにして)
わたしのできることをする場所が欲しい。
と、そんなことをときどき考える。
本に投資した分くらいは、何か役に立つことをしたいもの。
持っている本もリサイクルだけでなく、公開した方が
もったいなくない。
最近はやりのクラウドファンディングなどはめっそうもなく、
楽にやりたいと、夢想するでけで。
ダブルワークが流行るようになる中で、ちょっと夢見ごこちになったりしている。

エキタスのデモ。

2018-02-28 08:40:33 | 世間のこと
ブレディみかこさんが書いていた、市民団体「エキタス」が、
<裁量労働制はいらない><毎日、残業させるな>と声をあげ、
今月25日に新宿でデモを行ったと先日の朝日新聞に載っていた。

同日の新聞には、労働基準法の規定見直しが厚生労働省の
有識者検討会で本格化とも書かれていた。

現在、残業などからくる未払い賃金の請求は過去2年までさかのぼれる
ことになっている。
しかし、2020年の改正民法の施行で、債券の消滅の時効が原則5年となる。
とすると
この5年と労基法の2年で齟齬が生じることになるわけだ。
労基法改正案は来年の国会に出る可能性がある。
ここで、民放と労基法の関係がきちんと議論されるかどうか
忘れずに見守っていかなくてはならない。

阿部首相の今国会の答弁について、資料を巡って批判が大きくなっている。
しかし、そもそもアンケートなどから作る統計は、質問票の作り方
次第で結果はどうにでもなるような面があることを、
指摘しなければならない。
質問の仕方、回答の仕方を変えれば、聞いている内容はほぼ同じでも
結果が違うというのは、社会学でも行動経済学でもいわれていることだ。

長妻議員がアンケートの質問を公開するように要求したところ、
ほぼ真っ黒の状態の結果が公開されたという。

大事なところはあまり議論の対象にならないことが多い中、
問題がどこにあるのか、
自分で探していかなくてはならないということだろうか。

でも、わたしは人のことを言えないくらい忘れっぽいから、
忘れないという課題はとてつもなく重い。
自分の身に降りかからないことはとくに忘れる。
消費して終わる。
自分の住む世界を広げよということなのかもしれない。

今日は朝からまじめなことを書いてしまった。
頭痛が少しばかり改善したからかも。

marimekkoのカードセット。

2018-02-25 09:46:47 | 日常生活あれこれ
朝からくもっている。
こういう日は身体の調子も心持もどうもすっきりしない。

そんなことを思いながら洗濯機をかけ、
本を読んでいたら、
アマゾンからのお届け物が早くも届いた。

marimekkoのカードセットとシールのセット。
生活必需品でもないのに、ちょっとぜいたくだが、
見逃せなかったので思わず購入。
でも中身を見て、やっぱりうれしくなって、
少しばかり幸せになる。

わたしはハガキ(カード)に目がない。
画材屋さんに行っても、文房具屋さんに行っても
本屋さんのアートコーナーに行っても、旅先でも
気になるとすぐに手が出てしまう。

切手も同様。

買う数に比べたら、はがきを出す機会はそんなに多くはないけれど、
たくさんの中からこの人にはこのはがきでと思うのが
なんともうれしい。

というわけで、
この曇った空の中でも、楽しみはあるのだった。

突然のお別れ…

2018-02-20 14:16:30 | 日常生活あれこれ
1年半以上、週に一度くらいの間隔で
マッサージをお願いしていた人が、
急にお店を辞めてしまったと今日初めて知った。
先週の木曜日、
「6月までには少し身体を引き締められるよう
ほぐしておいた方がいいですね。」
と話して、
「ではまたよろしくお願いします。」
といって別れたばかりだったのに・・・
マッサージというより、
頭痛と身体の痛みをとってもらうことが主な目的だったから、
わたしにとってはショックが大きい。
これから、この痛みの緩和どうしようか…と路頭に迷うような気さえする。
大げさかもしれないけれど。

なにしろ突然の別れというのは、ポカンと穴の開いたような…
ずっと前、髪を切ってくれていた人が辞めた時もそうだった。
わたしは別れに弱い。

気持ち変えるためにDVDを借りてきた。
予告編で見た限り、元気が出そうなおばぁちゃんの話だったのだが…
これまた全然違ってしまった。
リサーチ不足!

『92歳のパリジェンヌ』という映画。
車の運転ができなくなって、92歳を迎えたもと活動家の
おばぁちゃんが、尊厳死を宣言してやり遂げる話だ。

尊厳死とか安楽死とかいったことばが、
日本でももてはやされた時期があった。
マスコミで騒いだ時期だ。
今では下火になっているとわたし自身は感じているが、
形を変えて尊厳死と同じような死を求める動きはまだ
ある。

「平穏死」というタイトルの本はよく目にする。
受精卵や出生以前の子どもの遺伝子を検査する
という方法で、生にラインを引く動きもある。

生き死にを人間の意志・判断に任せるという行為に
今のわたしはなじまない。

できるだけよい生を全うしたい。
身体が動かなくても、判断ができなくなっても
やりたいことを全うするというのならいい。
生を狭めることはしたくない。

ということで、
この映画、ピンとこなかった。
見ていていい気持ちにはならずに終わってしまった。
ただ、映画の中でおしゃれしているおばぁちゃんが
きれいだと感じたのは確か。
死よりもおしぇれのほうが好きだ。

全然ハッピーな映画ではなかったけれど、
見ていたら、マッサージの件の気が晴れたから
人間というのはいいかげんなものだ。

明日からはマッサージに頼らないでいけるよう、
方法を考えようと思う。
暖かい午後、
もうすぐ3時だ。