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そよかぜノート

読書と詩の記録

「裏庭」

2006年01月03日 | book 児童書 絵本


■『裏庭』 梨木香歩 新潮文庫

《story》 
丘のふもとのバーンズ屋敷。戦前には、英国の家族が暮らしていた。そこにはレイチェルとレベッカの姉妹がいた。レベッカは裏庭を自由に行き来出来た。戦争が激しくなり、バーンズ一家は帰国を余儀なくされた。そして数十年という長い年月が流れた。このバーンズ屋敷に庭は、高い塀に囲まれていたものの、通り抜ける場所があり、近所の子ども達の遊び場になっていた。照美と純の双子の姉弟も遊びにでかけたが、弟の純は池に落ち死んでしまう。しかし、不思議と母や父は悲しみを表さず、照美は違和感を感じていた。そんな中、バーンズ屋敷のことを話してくれていた友だちにおじいちゃんが病気になる。照美はそれをきっかけに、バーンズ屋敷に入り込むことになる。屋敷の中にあった鏡。それが裏庭に通じる入り口だった。

■頭の悪い私には難しい内容だった。キーワードは「裏庭」「双子」「きょうだい」だと思った。「裏庭」はあってはならない場所、心傷ついた人が逃げ込む場所、そんな気がした。行きたいと思うとき、それは表の場所(表の庭)から逃げ出したいと思っているとき。最後のエピローグでこんなことが書かれてあった。

「日本ではねえ、マーサ。家庭って、家の庭って書くんだよ。フラット暮らしの庭のない家でも、日本の家庭はそれぞれ、その名の中に庭を持っている。さしずめ、その家の主婦が庭師ってとこかねえ」「なるほどねえ・・・・・。庭は植物一つ一つが造る、生活は家族の一人一人が造るってことですかねえ。深い、重みのあることばです」 

照美が求めていたものは「家庭」・・それを取り戻すための旅だったのだと思う。心の傷を癒すだけではだめ。逃げていてはだめ。自分から進んでつかまなくては。照美の冒険と同時に、照美の母もまた、その祖母も似たような傷をかかえていた。続く傷。今のままでは、まだまだこれからも続く。新しい庭造り、それが新しい生きる大地となる。本当は裏庭なんかいらないんだ。真正面から家族が向き合うことで、素晴らしい庭ができるんだ。だからこそ、ファンタジーとはいえ、この異次元の世界はどろどろしたもので、ここから抜け出すことが新しい庭造りにつながっていくのだと思った。


「生きてます、15歳。」

2005年11月23日 | book 児童書 絵本
■「生きてます、15歳。-500gで生まれた全盲の女の子」
■作者 井上 美由紀
■ポプラ社 私の生き方文庫
■資料 「母の涙」

 私は生まれたときの体重が500グラムしかありませんでした。生まれてすぐお医者様から説明があったそうですが、母は私のあまりの小ささに,涙があふれて先生の説明が聞き取れなかったそうです。私の5本の指はまるでつまようじのよう、頭の大きさは卵くらい、太ももは大人の小指くらいだったそうです。それから7ヶ月間、私は病院の保育器の中で育ちました。母はその間、雨の日も雪の日も、毎日欠かさずに、私に会いに来てくれました。母が指を私の手のひらにやると、私はそれをしっかりとにぎりしめていたそうです。
 母が私に会いに来る時間になると、看護婦さんたちは、あわてて私の顔をきれいにふいたり、おむつをかえたり、大変です。なぜなら、私の顔が少しでも汚れていようものなら、母からきつく叱られるからです。
「どうして今日は顔がきたないとね。顔ぐらいきれいにふいてやらんね。忙しいとは分かる けどそれがあんたたちの仕事やろう。」
と言っていたそうです。
 生まれて5か月くらいになると、保育器から出て母に抱かれました。その軽さに母は、
「よくここまで生きてきたね。よく頑張ったね。えらかったね。」
と言って泣いたそうです。
 そのころ母は、私の目のことをお医者様から告げられました。
「美由紀ちゃんの目は、将来、ものを形として見ることができません。」
 母はそのとき、ふいてもふいても涙があふれ出て、どこをどうやって家まで帰り着いたのか、分からなかったと言います。
 でも母は、間もなく気持ちを切りかえ、「美由紀とふたりで、がんばって生きていこう。」と誓ったそうです。
 私が幼稚園のころ、母とふたりで近くの公園に行ったときのことです。遊ぶ前に母は、「ここにベンチがある。」「少し歩くと看板があるから注意しなさい。」などと、その公園の様子を、こまかく教えてくれました。

 でも、私はそこで遊んでいる途中に、その看板に頭をぶつけて、大けがをしてしまいました。ところが、母は私を助けてはくれません。また、転んでけがをしても知らん顔です。
「あんたが注意して歩かんからやろ。痛かったらもっと気をつけて遊ばんね。」
母の言葉はそれだけです。
 私が2階の階段から落ちて、本当に痛くて、動けなくなったことがありました。そんなときでも母は、上から、
「あんた、そんなところで何しようとね。」
「階段から落ちて痛くて動けん。」
と言うと、母はたった一言、
「ごくろうさん。」
それだけでした。

 でもあるとき、こんな出来事がありました。ある日、私が公園のブランコに乗って遊んでいると、男の子が3人やって来るなり、私の顔をのぞき込んで、
「こんやつは、目がみえんばい。」
そのとき母がそばに来て、
「目がみえんけん、なんね。こん子はあんたたちよりよっぽどがんばりやで、思いやりがあるとよ。分かったね。」
と言いました。そしたら、その男の子たちが、
「おばちゃん、ごめん。」
と言って、いっしょに遊んでくれました。
 私が小学校3年のころ、母とふたりで補助輪をとって、自転車に乗る練習をしました。

 私はてっきり母が、自転車の後ろの荷台を持ってくれるものだと思っていました。ところが母は、ベンチに座って、大声で叱るだけなのです。私は自転車ごと倒れてしまい、ひじやひざからは血がふきだしました。でも母は、知らん顔です。
 1回倒れたら、自転車がどこにあるかさがすのが大変です。やっとの事でハンドルをつかんでも、今度は自転車をおこすのにひと苦労です。それでも母は大声でどなるばかりです。私は腹が立って、腹が立って、「なんて冷たい母親だろう。」と心の中で思いました。
 しばらくの間、乗ってはたおれ、乗ってはたおれしているうちに、なんと自転車がスイスイ進むようになったのです。そのとき、母が私のそばに来て、
「美由紀、よく頑張ったね。何でも根性やろう。やろうと思ったらできるやろう。」
と言って、ふたりで抱き合って喜びました。抱き合っているうちに、私は母に腹をたてていたことなど、すっかり忘れていました。
 今、私は中学3年生になりました。今でも母には、いろいろなことを教えてもらっています。人に思いやりを持つこと、やろうと思ったらできるまで頑張ること、礼儀作法をきちんと守ることなどです。私はそんな母が大好きです。
 私は目が見えないので、たくさんのことはできないかもしれません。でも努力することはできます。
 今度は、母に喜びの涙をながしてもらいたい、と思います。それはふいてもふいてもあふれ出てくる、喜びと幸せの涙です。それは私が私の夢を実現できたときに、かなうことでしょう。
■世の中の厳しさ、生きるために弱音をはかない心の強さをしっかりと教えてくれます。あんなにしなくていいのにと、私なら思ってしまう。そこまで厳しくできない。だから、きっと親子ともども朽ちて倒れていくだろう。しかし、彼女の母は、未来を見ていた。だからこそ、心を鬼にしてでも、少々のけがをしてでも、強くなることを教えたのだと思う。母親自身が心を強くもったからこそできるのだと思う。

『イラクに生きる』 写真・文/佐藤好美

2005年02月10日 | book 児童書 絵本


「湾岸戦争前、識字率は90%以上といわれていたが
2002年には60%まで落ちていた。
現在は30%以下だ。学校に行くことができるのは
ほんとうにしあわせな子どもたちかもしれない。
多くの学校の窓ガラスはこわれたままになっている。
品不足がつづきガラスが高価なため、
かんたんにとりかえることができない。
雨や風はようしゃなく教室の中に吹きこむ。
砂嵐のときはどうなるのか。
氷がはるほど寒くなる冬、
生徒たちは防寒着を身につけたまま授業を受けている。
ぎゅうづけの教室、
きゅうくつそうに肩をぶつけながらノートをとっていた。
しかし生徒の表情は明るい。」


■今も世界中から注目されているイラク。戦争は人々を幸福に導くか。世界中を論争の渦に巻き込み、そして戦争というものが何なのか考えさせられた。もしイラクが、治安が安定して、民主的な政治が行われるようになったら、「あの戦争は正しかった」ということになるのだろうか。いや決してそうはならない。そのことをこの本は語ってくれる。
■劣化ウラン弾で白血病になって苦しんでいる子どもたち。こわれかけた学校で勉強する子どもたち、勉強できるだけましで、町でくつみがきをして働いている子どもたち、戦争で親をなくした子どもたち、地雷で足をなくした子どもたち・・・・犠牲あっての平和なんて・・・
■「同情、あわれみ」それだけで人を救うことはできない。今、私たちに何ができるのか。」作者は、写真の中の笑顔の子どもたちとともに語りかける。日本とは全然違う、日本と比べたらこんなに悲惨な状況の中で、子ども達は笑顔で一生懸命に生きている。「かわいそう」そんな言葉や、「何かあげよう」そんなほどこしではなく、いっしょに考えようという気持ちが大切なんだと思う。ニュースや新聞では語られない、子ども達の姿を、真実を知ろうとする気持ちや行動が必要なんだと思う。「平和」についてより深く、今よりももっと一歩、考えてみる機会です。

本『おかあさんの木』 作/大川悦生(おおかわえっせい)

2005年01月30日 | book 児童書 絵本

「この大きいのは、二郎の葉・・・・
このあつぼったいのは、三郎の葉・・・・
さきがとがって、ほそながいのが、四郎の葉・・・・
これは五郎、すばしこくて、まけんきで、たまになどあたる子でなかったのに・・・・
これは六郎、きょうだいのなかで、いちばんやさしい子じゃったが・・・・
そして、この小さいのが七郎の葉。」

と、つぶやきつぶやき、ひろいなさった。それから、ふかいいきをして、こずえのほうをみあげながら、

「なにも、おまえたちのせいではないぞえ。日本じゅうの、とうさんやかあさんがよわかったんじゃ。みんなして、むすこをへいたいにはやられん、せんそうはいやだと、いっしょうけんめいいうておったら、こうはならんかったでなあ。」

と、いいなさったそうな。


■はじめは、子どもが兵隊にとられ、戦地に行くことを栄誉に思っていた。身代わりに植えたキリの木に、「お国のためにがんばれ」を声をかけていた。はげますつもりで木を植えたのだろう。
■戦地で「お国のため」に一体何をしてほしいと願っていたのだろうか。きっとはっきりとしたイメージはなかったのだと思う。人をたくさん殺して、お国の領土を広げなさいなんて思ってない。まるで暗示にかかったみたいに「お国のために」という言葉を繰り返す。それがその時代の母の言葉だったのだ。
■メイヨノセンシヲトゲラレマシタ
これが「お国ために」の姿だった。人をたくさん殺すか、自分が死ぬか。そのどちらとも名誉ある姿なのだ。どちらにしても悲劇なのだ。「お国のために」がどれだけ冷たく悲しいことなのか、その知らせがカタカナであるところからも感じられる。植えた木に対する母の言葉は変わっていく。名誉の戦死なんてしてほしくない。本当の素直な気持ちは、生きて自分のところに帰ってきてほしいということ。
■だれもが心の底で思っていることと、表で飛び交う言葉がちがう。命を大事にする言葉を言ってはならない。それを口にすることは非国民になること。
■五郎の木にもたれた母の願いが、まるで届いたかのように、戦場から五郎が生きてもどってきた。自分のかわりに子どもの命を助けてやってほしい。戦争に追いやった自分への怒りと哀しみと後悔と。この木はそのすべてを写し出していた。もう二度とこんな木は植えたくない。母の祈りがそこにあった。
■帰ってきた五郎はその母の心を受け継いだ。その証がクルミの木だったのだと思う。あまい実は、母の気持ちと五郎の決意を確かめるかのように、次の世代に届けられるのだ。

「私たちはいま、イラクにいます」/シャーロット・アルデブロン

2005年01月27日 | book 児童書 絵本

「だから、私のことを見てください。
 よく見てくださいね。
 イラク爆撃ときいたときに
 思いうかべなければいけないことが、
 わかるはずです。
 爆撃で殺されるのは、
 私のような子どもなのです。」

■2400万人のイラク国民のうち、1200万人は15才以下の子どもたち。戦争はどんなに理由をつけたとしても、やっぱりただの殺し合い。しかも犠牲になるのは子どもたちだということがよくわかる。人種も宗教も何もかも乗り越えて、共に助け合って生きることができたらどんなに幸せな地球になることか。毎日のように報道される見えないところで、子ども達が泣き叫び、恐怖におびえ、助けてほしいと手を差し出している。今の私には、その手を握る術がない。こうして「知る」ことしかできない。共感しようと努力することしかできない。「戦争を反対してほしい」と言われればいくらでも声に出すし、署名もする。魔法でも使えたら、きっとこの世からすべての武器を消し去ってあげる。ユニセフを通して募金をすること、はるか離れた日本で思うことしか、私にはできません。

■講談社 『私たちはいま、イラクにいます』文:シャーロット・アルデブロン 写真:森住卓

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