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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

地位を失ってから

2020-03-09 20:19:07 | 賛美の心

 リーダーの地位から外されてがっかりしたり、弱気になったり、いじけたりする人のことを見聞きするたび、私はそんな人たちを見下していました。ひとりひとり教会の中で異なる役割をもっているだけのことで、上下の差があるわけではなく、私たちはみな被造物であり、気落ちする必要などないと思っていましたから。ですから、新しい信者の世話をしている時も、リーダーとして奉仕している時も、自分の地位をそれほど意識したこともなく、自分が地位にこだわる人間だと思ったこともありませんでした。実際にリーダーの立場から外されたとき、自分も同じような恥ずべき行動に出てしまうなどとは、夢にも思いませんでした。


 しばらく前のこと、私が実際の働きを何一つしておらず、いつも教義を宣べ伝えるばかりだったため、リーダーは私を配置転換しました。その時私は、自分の素質が地域のリーダーにふさわしくないとしても、せめて水を与える仕事くらいは許されるはずだと思いました。まさかリーダーが私に教会の庶務を担当させるなどとは全く予想していませんでした。「誇りある地域のリーダーだった私が、今日は使い走りをさせられているなんて。足されあれば、あるいは少しばかりの知恵があれば、教会の誰でもできるこんな仕事を私がするなんて」そう思って驚きました。こんな仕事を私にさせるなんて、どう考えても私の能力を無駄にしているのではないか。けれども教会の姉妹たちに、反抗的だとか、自分の地位を気にかけているなどと言われることを恐れ、自分の気持ちを心の中にしまっておきました。でも家に帰った私はベッドに倒れ込み、ひどく嫌な気持ちになりました。「何の地位もなくなる。兄弟姉妹たちは私をどんな目で見るだろう。」そんな思いで頭がいっぱいになりました。使い走りをさせられているなんて、一体どうしたらここから立ち直ることができるだろう。考えれば考えるほど、ますます落ち込んでいきました。

 数日後、私は私のために仕事を用意してくれたある姉妹に会いました。会うや否や、「この仕事は簡単にできるように見えますが、献身の思いをもってしなければなりません」と言ったかと思うと、その姉妹は知恵や従順といった側面の真理について話し始めました。わたしははっきりしない口調で曖昧な返事をしていましたが、心の中は煮えくりかえっていました。「まるで私が何も知らないみたいに、あなたが私に助言するの?はじめの頃、あなたに助言していたのは私よ。それなのにこんな風に私に話しをするなんて。」その姉妹の言葉はひとつも私の心に届きませんでした。それどころか、私は長々と話すその姉妹を腹立たしく思いました。話しが終わる頃にはうんざりしきってこう言いました。「それだけ?ならもう行くわ。」家に戻った私は、何故自分があの姉妹にあのような態度をとったのだろうかと思い巡らしていました。もし彼女の地位が常に私の地位より上であるか、同じであったなら、私はあのような接し方をしただろうか。おそらくしなかっただろう。間違いなくしなかった。私が彼女を導いてきたのに、その彼女が私に問題を指摘している。だから私は納得できなかったのではないのか。私が地位に執着していた証拠ではないのか。自分の恥ずべき態度に気づいた私は急に自己嫌悪を感じ、それと共に神様からの裁きに関する言葉が心に浮かんできました。「あなたがたの追求がこのようなものであればあるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。ある人の地位に対する欲望が強ければ強いほど、それだけ深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値過ぎる。このような人は地位に対する欲望を完全に捨て去るため、適切な取り扱いと裁きを受ける必要がある。あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。いのちを追求しない者は変化させられることはできない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求と入りにことに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近付くことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変化させることができるだろうか。あなたを神の国へと導くことができるだろうか。あなたの追求の目的が真理を求めることでないならば、これを機に俗世に戻ってそこでの成功を目指せばよいであろう。このようにして時間を無駄にするのは全く無価値である。なぜ自分を苦しめるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」より)神様の御言葉を読み、自分自身のことを考えていくうちに、私は気づかされました。自分は真理を求めていたのでもなく、神様に満足していただこうとしていたのでもない。それどころか、自分が求めていたのは、名声、利得、地位だったと気付いたのです。地位を得たことで、私の自信は膨れ上がりました。反対に、地位を失えば不機嫌になり、働きも出来ないほど落ち込みました。私は自分の地位に気持ちを振り回され、ささいで無意味なことに1日中心穏やかでなくなり、無駄な時間を過ごしました。そこから結局何を得たのでしょうか。今日のような恥ずべき姿でしょうか。神様が私にしてくださったこと全てを思えば、私に託すことで神様に安心していただけなかったどころか、神様が与えられた仕事を、くだらない、やりたくないと言って嫌ったのです。それならば私は自分の良心に従って行動していたでしょうか。名声、利得、そして地位ばかりを追い求めていた自分の恥ずべき姿を神様に示されました。あまりにも高ぶり、傲慢になり、地位を重視していた自分に気づかせて下さった神様に、心から感謝しました。すると、ある歌が私の心に浮かんできました。「神よ!私に地位があろうとなかろうと、私は今自分をしている、私の地位が高ければそれは貴方が私を高めたおかげで、逆に低ければそれは貴方の定めだ。神よ!私に選択の余地はなく不平もない、全てが貴方の手中にある……貴方の権威のもと従順であるべきだ。なぜなら貴方はそれを定め.……貴方が私を用いるなら私は被造物、完全にされても私は創造物で、完全にされなくても私は貴方を愛するだろう。なぜなら私は被造物に過ぎないから。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「私は取るに足りない被造物」より)私は涙と共に何度もこの歌を歌いました。そして神様の前に出て祈りました。「神様!あなたの御言葉を通して、私はあなたの意図が理解できるようになりました。地位の高低に関係なく、私はあなたによって造られたものです。あなたの定めに完全に従わなければなりません。あなたが託された本分を選り好みせず、被造物のひとりとして託された本分に全力で取り組まなくてはなりません。神様!私はあなたの定めに従い、畑で働く牛のように、あなたの意のままに用いられることを願います。自分の地位のために葛藤したり、あなたを苦しめたり傷つけたりするようなことは二度としません。ああ神様、私を更に取り扱い、裁き、地位に対する欲望を明け渡せるようにしてください。あなたに近づく妨げとなる全てのものから解放されるよう私を扱ってください。そしてさらにあなたを愛し、心から与えられた本分を全うできるものとしてください。

河南省焦作市 ホイミン


神様の御声をどのように聞き分けるのか

2020-03-08 20:00:46 | 賛美の心

参考聖書箇所
 「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

 「見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(ヨハネの黙示録 5:5)

関連する神の言葉
 受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より

 神の言葉は、外見上平易であるか深遠であるかに関わらず、人がいのちに入るには全て必要な真理であり、人間が霊と肉の両方において生存することを可能にする生ける水の泉である。神の言葉は、人間が生き続けるために必要なことがら、日常生活を送るための教義と信条、救いを得るために進むべき道、目標、方向、神の前に造られた者として持つべき一つひとつの真理、そしてどのように神に服従し、神を礼拝すべきかに関する一つひとつの真理を与える。神の言葉は、人間の生存を保証するものであり、人間の日々のパンであり、また人間が強くあり、立ち上がることを可能にする頑強な支えでもある。神の言葉には、被造物である人類がそれを実際に生きる際、正常な人間性に関する真理の現実が豊かに含まれており、人間が堕落から解き放たれ、サタンの罠を避けるための真理と、創造主が被造物である人間に与えるたゆみない教え、訓戒、励まし、慰めが豊富に含まれている。神の言葉は、肯定的な事のすべてを理解するよう人間を導き啓発する灯台であり、人間が全ての正しいこと良いことを実際に生き、所有するための保証であり、人々、出来事、物事を測る基準であり、また人間を救いと光の道へと導く道標である。人間は、神の言葉の実体験の中でのみ、真理といのちを与えられ、その中でのみ、正常な人間性とは何か、有意義な生涯とは何か、真の被造物の存在とは何か、神への真の服従とは何かを理解するようになる。その中でのみ、人間がいかにして神を思いやるべきか、被造物としての本分をいかにして尽くすか、真の人間らしさをいかにして身につけるかを理解するに至る。そうしてはじめて、人間は真の信仰や真の礼拝とは何を意味するのか、天と地と万物の支配者が誰であるかを理解するようになる。そうしてはじめて、全ての創造物の主人である方がいかなる手段で万物を支配し、導き、与えるかを理解するようになる。人間は、そうしてはじめて、全ての創造物の主人である方がいかにして存在し、現れ、働きを行うかを理解し把握するようになる。……神の言葉を実際に経験することから離れるなら、人間は神の言葉と真理に関する真の認識と洞察を持つことがない。そうした者は、まさしく生きる屍であり、まさしく抜け殻であり、また創造主に関する認識は、その者とは一切無関係である。「神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道」より

 神を知ることは、神の言葉を読み理解し、神の言葉を実践し経験することを通じてなされなければなりません。「私は受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知ることができるのか」と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、神の愛と人類の救い、そして人類を救う神の方法を見ることができます。神の言葉は人間を使って書かせるのではなく、神自身によって表現されるからです……それは神によって直々に表現されるのです。つまり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待を表現しているからです。神の言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はなんと厳しいのかと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、あらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は神の侵すことを許さない性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出向いたりする価値はありません。今、人々が神の前に出向けるのは、ひとえに神の恵みです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義から見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。「受肉した神をいかにして知るか」より

 今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような神の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。「神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか」より

 神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。「神の働きと人の働き」より

 イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、のんきであってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど幸運ではない人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自らをいい加減に扱ってはならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より


神の導き-誘惑に打ち勝つための2つの秘訣を教える

2020-03-07 17:48:49 | 賛美の心

 【編集者メモ】この社会には、邪悪な風潮がはびこり、私たちはいつも誘惑に負けて、罪を犯さずには生きることができません。その結果、私たちは神から忌み嫌われ、霊が暗くなっています。ならば、私たちはどうすれば誘惑に打ち勝って、神の導きと加護を受け続けることができるのでしょうか。

 第1に、いつも神に祈りを捧げ、神の御前で生きることで、積極的に誘惑から距離を置く
 この物質主義で、お金中心の世の中、特に高級ホテルや高級レストラン、カラオケ、その他の娯楽の場はサタンの誘惑で満ち溢れています。罪に打ち勝つ力を持たない私たちは、富と権力を持つ人々をとても羨ましがり、彼らがそういった場所で裕福な生活を満喫している様子を見ると、大金を稼いで彼らの仲間入りをしたいという欲望が沸いてきます。その結果、お金とそれがもたらす物質的快楽が私たちの心を完全につかみ、私たちの心は神からどんどん離れて行ってしまいます。これ故に、私たちクリスチャンは、神の御前で暮らせるように、そして私たちを誘惑する人々、出来事、物事から前向きに距離を置いていられるように、常に神に祈りを捧げて、私たちをお守りくださるようにとお願いするべきなのです。これは霊的背丈の低い人々は特に行う必要があることです。これについて聖書にはこう書かれています。「賢い者は災を見て自ら避け、思慮のない者は進んでいって、罰をうける。」(箴言22:3)そして神もこう仰いました。「あなたの心を外に引き付けるものに触れてはならない。また、神からあなたの心を引き離す可能性のある人々と接してはならない。あなたの心が神に近付くのを邪魔する可能性のある物事は何であれ、全て捨てるか、近付かないようにしなさい。その方があなたのいのちにとってより有益である。」この御言葉より、誘惑から積極的に距離を置くことは賢明な選択であることが分かります。

 

 ヨブを例に挙げてみましょう。誰もが知ってのとおり、彼は神を恐れ、悪を避けました。彼は莫大な富に加え、山一面を覆うほどの羊と牛を持っていましたが、常に神の御前で生きていけるようにと身勝手なことはしませんでした。敬虔な心を持っていた彼は、神を怒らせることを不安に思い、頻繁に捧げ物をしました。それに、彼は肉の快楽を楽しもうと自分の富を利用することもなく、息子や娘たちと酒宴を供にすることもありませんでした。彼は神を恐れ悪を避ける道を歩むことだけを貫いたのです。このようにして、ヨブは私たちが従うべき良い模範を示してくれました。

 第2に、サタンの策略を見抜いて誘惑を振り払うことができるように、神の御言葉に従って物事をとらえ、神の御心を求めるようにする
 サタンはいつどこにいても私たちを誘惑して私たちの生活を妨害することを楽しみます。ならば、誘惑される時、私たちは何をしてそれに打ち勝てばよいのでしょうか。『いのちの供給ための説教集』にはこのように書かれています。「これらの誘惑や魅惑を拒むには何を備えていなければならないか?真理を備えていれば、あなたはこれらのものが極めて明確に見えるでしょう。この問題の本質がはっきり見えてからは、自分の行動が他人にどのような害を及ぼすのかが分かり、他の人がどのように心が傷つくかが分かり、自分がどれほどその人の人格を破壊したかが分かります。そして、これらの事柄を自覚すれば、あなたはそれらを引き起こすような行動を取らなくなるでしょう。こうした思考や考えが頭をよぎっても常に拒むことができます。それらに心を動かされることはないため、関心を持つことも気に留めることもないでしょう。」この言葉から、神の御言葉に従って物事をとらえることは非常に大切であることが分かります。神の御言葉を読むことに集中し、それによって真理を理解する場合に限って、私たちは従うべき道を手にするのです。主イエス様はこう仰いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14:6)真理は神から出るものです。神の御言葉は私たちの生活の原則として私たちの生活を導いて下さいます。なので、私たちはもっと神の御言葉と御心を理解する努力をするべきなのです。そうすれば、私たちはサタンの策略を見抜くことができるようになります。例えば、私たちが主のために誠心誠意、努力をしている時に、親戚や友人が突然大金を稼げる仕事の話を持ち出してきて、一緒に行こうと私たちを誘ってくるとします。しかし、それに乗ってしまうと、教会の集会に参加したり、教会の任務を果たす時間がなくなってしまい、神との正常な関係が損なわれてしまいます。そのような時は、神の御言葉を読み、そして神の御心を求めて、何を追い求めることに最も意味があるのか、そしてそれをどのように選択すれば良いのかを理解する必要があるのです。お金の誘惑に関する見識を持つことができれば、それを振り払うことができるでしょう。主イエス様はこう仰いました。「神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。…富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」(マルコによる福音書10:24~25)「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。」(ルカによる福音書9:25)

 神の御言葉から、お金は世俗的な物であることが分かります。私たちはその仕事からより多くのお金を稼ぎ、肉の快楽をさらに楽しむことができるかも知れません。しかし、それが真理の追求を遅らせて、私たちが創造物としての本分を尽くすことに影響を及ぼすとしたら、私たちが最終的に神に認めていただいて、祝福を受けるということはないでしょう。また、お金を追い求めていたら、私たちは神から離れてします。更にひどい場合は、一日中お金稼ぎに没頭して、自らの健康を損なってしまう人もいるでしょう。人によっては主を信仰し続ける熱意を失ってしまい、お金を益々稼ぐにつれて肉の快楽に夢中になり、自らを破滅させてしまうこともあるでしょう。私たちは、こういった有害な行動を目にしたら、その誘惑を自然と振り払うようでなければいけません。さらに、私たちがお金を欲しがることやお金を追い求めるようにと親戚や友人たちに誘惑されると私たちはそれついて行ってしまうということをサタンは知っており、私たちはそれを明確に認識しておく必要があります。サタンは常に私たちの弱点を突いてきます。私たちはこの内外からの攻撃を受ける中で、気を付けていなければいとも簡単にサタンに捕らえられてしまうのです。これについて、聖書にはこう書かれています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」ペテロの第一の手紙5:8)この物質主義の世の中で、サタンは様々な誘惑を使って私たちをおびき寄せようとしてきます。私たちは落ち着いて真理を求め、神の御言葉に従って物事をとらえなければ、サタンの誘惑に打ち勝つことはできないのです。

 上述したこの2つの秘訣が、誘惑から離れ、それに打ち勝ち、そして主の道を歩む上で、あなたのお役に立つことを願っています。


真のキリストと偽キリストの見極め方

2020-03-06 17:29:00 | 賛美の心

 信仰ステーションの兄弟姉妹たちの皆さんへ、

 こんにちは!

 私の名前はリ・リと言います。私は家庭教会を管理している指導者です。私たちはある者が主イエス様は既に再臨されていると説いているのを耳にしました、しかし聖書では主イエス様は、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」 (マタイによる福音書24:23-24)、と仰っておられます。これらの御言葉から、主が再臨なさる時にはありとあらゆる偽キリストと偽預言者が信者たちを欺くために現れることが理解できます。それ故に、私たちは偽キリストに騙されるのが怖くて、探求や調査することができません。しかし、私たちは主が、「しかり、わたしはすぐに来る」(ヨハネの黙示録22:20)、と仰ったことを考えると、主がお越しになる時に主をお迎えする機会を逃してしまのではないかと懸念しています。私たちはとても心配しています。兄弟姉妹のみなさん、私たちはどのように実践すればいいのか分からないです。それと、どうか私たちと真のキリストと偽キリストの見極め方について交流してください。

リ・リより

2018年10月2日

 リ・リ姉妹へ、

 こんにちは!あなたは教会の指導者として兄弟姉妹たちのいのちの責任を担っています。あなたが交流を求めているのは真理を切望し、神の御旨を大切にしているということです。今は終わりの日の末期、主イエス様が再臨なさる非常に重要な時です。この時期に必ず多くの偽キリストが現れて人間を騙すでしょう。あなたが彼らに騙されてしまい、主に引き上げていただく機会を逃すことを懸念するのは理解できます。ご質問について、一緒に真理を探求して交流しましょう。

 主イエス様が私たちの場所の準備ができたら私たちを受け入れるためにお戻りになると、かつて約束されたことは誰もが知っています。最近、終わりの日が到来しました。偽キリストに騙されることを恐れ、自らを守るばかりで探求し調査することを拒んでいたのでは、主をお迎えすることなどできるはずがありません。主イエス様はかつて私たちにこう仰りました:「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)。ヨハネの黙示録では、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)、ということが何度も強調されています。私たちは、これらの御言葉を通じ、主はお戻りになる時もその御声を発せられると理解しています。主の御声を聞いて、それが主であると気が付く者たちのみが主をお迎えすることができ、そのような人間は賢い乙女であり、主の羊であります。主がお戻りになったのを誰かが目撃しても、それを調査することも、主の御声を聞くこともなければ、主をお迎えすることなどできるわけがありません。

 主の再臨の預言を調査する時、多くのクリスチャンは自らを偽キリストや偽預言者たちから守ることを重要視しますが、花婿の来臨をお迎えすることや、花婿の御声を聞くことにもっと注意を払うということはしていません。これは何が問題なのでしょう?これは喉を詰まらせることを恐れて食事をせず、得ることよりも多くを失うことになるという振る舞いではないでしょうか?実際、私たち人間は偽キリストや偽預言者から自らをどれだけ守ろうとしても、主の再臨をお迎えして神の御座の前に引き上げていただくことができなければ、愚かな乙女となり、神に排除され、見捨てられてしまうでしょう。そうしたら、私たちの神への信仰は完全な失敗に帰してしまわないでしょうか?

 主の再臨をお迎えして、偽キリストと偽預言者から騙されることを避けたいのであれば、私たちは偽キリストがどのように人間を騙すのかを明確に理解しておく必要があります。実は、主イエス様は既に私たちに偽キリストと偽預言者の行いについて話してくださっておられます。主イエス様はこう仰りました:「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:24)。主イエス様の御言葉から、偽キリストと偽預言者は主として大きなしるしと不思議な業を表して神の選ばれし人々を欺き、それは彼らが主として発現させることであることが分かります。この点について、私たちは偽キリストが人間を騙すためにしるしと不思議な業を見せるのは、彼らは何の真理も持っていないからであることを理解しておく必要があります。彼らは本性的かつ本質的に極めて邪悪な霊なのです。そして、彼らは人間を救い清める働きも、私たちに歩むべき道を示すことも、私たちにいのちを備えることも全くできないので、人間を騙すためにはしるしと不思議な業を見せることに頼るしかないのです。彼らは真理を持っていたら、人間を騙すためにしるしと不思議な業を使うことは絶対にないでしょう。従って、偽キリストと偽預言者がしるしと不思議な業を見せるということは、彼らが策に尽きていることを明示しているのです。私たちはこの点を見抜く必要があります。これができないと、私たちはより簡単に騙されてしまいます。

 私はある霊的書籍の中で次の2節の御言葉を目にしました:「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪魔を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。… 人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、今の神はまったくの別物である。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」「神の働きは人が抱く観念とは決して一致しない。神の働きはいつも新しく、決して古くないからである。神は古い働きを決して繰り返さず、むしろこれまでなされたことのない仕事を行う。」

 姉妹、これらの御言葉から、神の働きは常に新しく、決して古くないことが分かります。神は同じ働きはなさりません。主イエス様が働きに来られた時も、主は恵みの時代を開始され、律法の時代を終了され、贖いの段階の働きをなされました。主は病人を治され、悪霊を追い払われ、多くのしるしと不思議な業をなされ、人間に豊富な恵みをお与えくださりました。最後に主は十字架に磔にされて人間の罪を贖ってくださったのです。主イエス様の人間を贖う働きは既に成就しているので、神はもうその働きはなさりません。偽キリストたちはどうでしょう?彼らは皆、キリストを装う邪悪な霊で、新たな時代を迎え入れ、古い時代を終える働きは全くできません。彼らは混乱して識別力を持たない人間を騙すために単純なしるしと不思議な業を見せて主イエス様の真似をすることしかできず、主イエス様がなされた奇跡をまねて起こすことなどできません、そして例えば、主イエス様のように死者を蘇らせたり、5つのパンと2匹の魚だけで5000人を食べさせたり、風と海を叱るといったことは間違ってもできないのです。こういったことより、私たちは主イエス様がかつて、「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:24)、と言って私たちに警告なさった理由が分かります。主は私たちが、しるしと不思議な業を見せて主イエス様を装う邪悪な霊から自分たちを守れるようにしてくださっています。彼らは偽キリストであり、私たちが識別して拒むべき者たちです。これこそが、これらの御言葉における主の御旨であります。しかし、私たちは主の御心を理解せず、主の御言葉を誤解し、神の再臨を証言する者たちを誤っていると非難すらしました。これは極めて不合理なことでないでしょうか?私たちは神の善良な御旨に逆らっているのではないでしょうか?私たちにはこのような途方もないことができてしまい、それは私たちが偽キリストを識別できないことだけでなく、真キリストを知る方法を理解してもいないことを示しているのです。

 他にもこの御言葉の節があります:「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」姉妹、キリスト様は肉となられた神であり、神の魂が顕現した肉であり、すなわち、それは神が有するものと神そのもの、神の性質と神の知恵全てが肉に顕現しているということなのです。キリスト様は神性な本質をお持ちで、真理そのものであります。キリスト様は何時、何処でも真理を表して人間に供給し、人間を導くことがおできになります。キリスト様のみが人間を贖い救う働きがおできになり、それは誰も真似ることはできないのです。これは正に誰も否定できない事実なのです。対照的に、偽キリストは誰もが邪悪な霊に取りつかれており、その全員が極めて傲慢で不条理です。彼らは邪悪な霊であり、悪魔であるため、どのようにしてしるしや不思議な業を見せ、聖書の内容を歪曲したり、深遠な知識や教義を口にしても、彼らのやっていることは、人間を欺き、傷つけ、没落させ、人間に何らかの霊的成長を具えることもなく、ただ単に人間が絶えず暗闇に陥り、歩む道を持てずに最終的にはサタンに破滅させられるようにするだけなのです。偽キリストと偽預言者はその全員が神の働きを邪魔して妨害するサタンと邪悪な悪魔の化身であることは明らかです。これ故に、どれだけの人々を騙し、傷つけ、没落させても、彼らは何の真理も持たないのですぐに滅び、消えていくでしょう。姉妹、私たちは真キリストと偽キリストの見分け方に関する真理を本当に理解しているのなら、絶対に、偽キリストに騙されるのが怖いからといって、神の御声を聞くことや、神の顕現をお迎えすることを拒否してはいけないのです。

 リ・リ姉妹、真キリストを偽キリストから見分ける方法ですが、あなたはその知識を少しお持ちかもしれません。キリスト様のみが真理、道、そしていのちであります。新な時代を迎え入れ、古い時代の幕を閉じ、人間を清め救うために真理を表し、人間にいのちを与えることができるのはキリスト様であります。真理を表すことができず、人間を騙すために単純なしるしと不思議な業を見せることしかできない者は間違いなく偽キリスト、欺瞞者なのです。これが真キリストと偽キリストを見極めるための基本原則です。真の道を求め、調査する者は全員がこの原則に従って神の御声を求め、それを確認するべきです。これが間違いであることは絶対にあり得ません。真理のこの側面を理解できれば、私たちは偽キリストと偽預言者に騙されることを心配しないでしょう。


聖書の歴史:神様の働きと言葉は聖書を越えることができるのか

2020-03-05 16:45:42 | 賛美の心

 信仰ステーションの兄弟姉妹:

 皆さんこんにちは。つい最近、ある人が私に終わりの日の全能神の働きの証言をしてくれた上に、全能神の御言葉を記した『言葉は肉において現れる』という書籍もくれました。この本を読んだ後、私は全能神の御言葉には権威と御力があると感じたと同時に、『言葉は肉において現れる』に書かれた御言葉は聖霊によるものであると確信しています。しかし、私は、全能神の御言葉と働きが聖書の範囲を超えて存在している理由が全く理解できないのです。

 ジェンシンより

 ジェンシン姉妹

 こんにちは。この疑問を明らかにするには、先ず初めに聖書がどのように制作され、構成されているかを理解しておく必要があります。聖書は旧約聖書と新約聖書を含みます。旧約聖書には神が天地を創造した働き、および律法の時代になされた働きが記録されており、これらはモーセと預言者たちによって記録されています。新約聖書には主イエス様がユダヤの地でなされた働きが記録されており、それは主イエス様が去った後、主の教えに綿密に従ったイエス様の弟子たちによって書かれています。最初、これらの書簡は様々な地に散在していましたが、主が去ってから300年以上経過した後、宗教会議の場で様々な国々の宗教指導者たちが散在していた全書簡の中から27通を選別し、それらを今日の新約聖書に編成したのです。すなわち、主イエス様が働きをしに来臨された時、新約聖書はまだ存在しておらず、新約聖書は主が去ってから300年以上経つまで制作されなかったということです。聖書は単に神が過去になされた働きの記録と証言を構成したものであり、それは神が過去になされた働きを記した歴史書なのです。

 神の働きは原則に基づいており、聖書には制限されていません。むしろ、神御自身の御計画とその時の人々の必要性に基づいて実行されるので、聖書の範囲を完全に超えていきます。主イエス様は働きをしに地上に来られた時、旧約聖書の律法には従わず、むしろ主の働きは律法の範囲を完全に超え、主がなさった働きは全て旧約聖書の範囲を超える新しい働きだったのです。例えば、旧約聖書は人間が宮の中で神を礼拝することを命じましたが、主イエス様は宮の外で働きをなさり、心を使って誠実に神を礼拝するようにと人々に仰せられました。旧約聖書は人間が安息日には働かないことを命じていましたが、主イエス様は安息日に病人の世話をされました。旧約聖書は、罪を犯した人間は犠牲を捧げてのみ許されることを規則としていましたが、主イエス様は、主イエス様を救い主として信じさえすれば、人々は罪を許されると仰せられました。この全てが、主イエス様のなさった働きは旧約聖書に従ってなされた働きとは違い、その全てが旧約聖書の範囲を超える新たな働きであったことを示しています。神の働きが十年一日のごとく続くことは決してありません。神は常に新しい働きをなさり、神のなさる新しい働きの各段階は人間をより良い形で救うために行われます。

 さらに、主イエス様は3年半に渡って働きをなされ、その間に仰せられた御言葉と宣べ伝えられた説教は数知れません。新約聖書の四つの福音書は主イエス様が仰せられた御言葉の限られた部分だけを記録してあり、それについてはヨハネもこう言いました。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書21:25) これは、主イエス様の御言葉と働きが本当に新約聖書には完全に収録されていないことを裏付けるため、「神の御言葉と働きは全て聖書に記述されており、神の御言葉と働きが聖書の範囲を超えて存在することなど決してあり得ない」という意見は事実に即していないのです。

 聖書に次の預言があります。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12ー13)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7) 終わりの日の神はまだ働きをし、御言葉を表す必要があります。神は人々に備える真理をもっと表す必要があり、それが実現する前に自動的に聖書に記録されることは不可能です。終わりの日に、神は神が表す裁きの御言葉を通じて人間を救うために再臨されます、そして神を心から信仰する者たちは清められ、その後、神はその者たちを素晴らしい終着点へと導かれます。これはヨハネの黙示録にあるこの預言を成就します。「見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」(ヨハネの黙示録22:7)神がもし再臨なさる時に、私たちが思うように聖書の範囲を超える働きができないとしたら、神が仰せられるこれらの預言が成就して、預言通りに実現するはずがありません。

 全能神はこう仰ります。「律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。……今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。だから、かつて行われたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は神が地上で、イスラエルの外で、より偉大で新しい働きをしたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超え、これまでに預言されていない、新しい、驚くべき働き、イスラエルの外の新たな働き、人々が見も想像もできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。」この神の御言葉から、神の働きは常に新しく、決して古くなく、それは繰り返されないということが理解できます。各時代において、神は新たな段階の働きをなさりますが、当然この新たな働きは聖書に記録されていないので、私たちは聖書を使って神の働きを制限したり、調べることはできません。終わりの日に、神は裁きの言葉を表して人間を清める働きを行うためにもう一度受肉なされました。神の御言葉と働きはヨハネの黙示録に記された預言を成就しています。神を信仰し、神に従う私たちは、神を聖書の内容に制限してはなりません、なぜなら、神は真の生ける神であり、神がなさることは全て人間を清めて救うためになされるものだからです。人間を救う神の働きの目的を認識し、そして神の働きと御言葉は全て私たちが自分たちの堕落した性質を脱却し、自分たちの罪に課される束縛と制限から抜け出すためのものだと理解することができれば、私たちは神が表してくださる真理を受け入れるべきなのです、私たちは終わりの日に神がなさる裁きの働きを受け入れるべきなのです。神の本当の御旨を探求しないまま神の新たな働きに従わず、やみくもに聖書にこだわり、聖書に制限、かつ束縛されていたら、それは神の信仰をし損なう道を歩んでいるということにならないでしょうか?

 私たちが受け入れられること、そして理解できることにも限界があります。私はこの交流が、終わりの日の全能神の働きを学ぶ上であなたのお役に立つことを願っています。何か理解できないことがありましたら、お気軽に返信ください。

 信仰ステーションの兄弟姉妹