goo blog サービス終了のお知らせ 

いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

どのようにして神の祝福を得られるのか

2020-03-14 01:28:19 | 賛美の心

 「神の祝福」とは私たち神様を信じるすべての人が皆得たいものですが、なぜ私たちは主の祝福を得られないのか。私たちは聖書の中に記載されたノア、アブラハムなどが皆神様に祝福された人であることを知っています。それでは、私たちはどのように彼らの生活の中でのすべてを見習えば、主の祝福を得られるのでしょうか。

ノアとアブラハムが神様の祝福を得た重要点
私たちは神様が洪水で世界を滅ぼそうとしていた時、神様はノアを呼び、箱舟を作らせ、どのように作るのかもノアに教え、ノアは完全に神様に指示されたことを実行したことを知っています。洪水が来る時、ノアの家族八人が箱舟に入って生き残って、神様の祝福の中に生き、神様が彼らに与えられた恵みを享受しました。それから、アブラハムが百歳の時に、神様から一人の息子イサクを与えられて、そしてイサクが成長した時、神様がアブラハムに息子を燔祭として捧げるように求められ、彼は神様に釈明せずに無条件に従い、神様の命じられたことに従って心を尽くしてイサクを神様に捧げました。最終的に神様の祝福を得て、彼の子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようになりました。

それでは、ノアとアブラハムが神の祝福を得た重要点はどこか
 神様は言われます。「ノアが神に指示されたことを実行したとき、ノアは神の意図を知らなかった。神が何を成し遂げたいのかをわかっていなかった。神はノアに命令を与え、すべきことを伝えただけで、あまり説明はしなかったが、ノアはとにかく実行した。ノアは神の意図を自分なりに理解しようとしたり、神を拒絶したり、疑いを抱いたりすることはなかった。彼は純粋でシンプルな心でただ従ったのである。神がノアにするよう導いたことをノアは全て行った。そして神の言葉に従順に聞き従うことはノアが事を行ううえでの信念だった。神に任されたことを、ノアはそのようにまっすぐに、シンプルに行った。彼の本質、すなわち彼の行動の本質は従順であり、先読みしたり、拒否したりせず、さらに自分の私的な利益や損得を考えなかったことだ。さらに言えば、神が洪水で世界を滅ぼすと言ったとき、ノアはそれがいつであるとか、その真意を問うといったことはせず、どのように世界を滅ぼすのかも聞かなかった。ノアはただ、神が命じたように行ったのである。箱舟を何でどのように造るのか、神が指示した通りにノアはそれを造り、しかも直ちにとりかかった。」

 「神からすれば、その人が偉大な者であってもなくても、神を聞くことができ、神の命令と神の任務に従い、神の業、神の意志、神の計画に協力することで神の意志と計画が円滑に達成されるようにするならば、その行いは神に覚えてもらうに値し、また神の祝福を受けるに値するのである。神はそのような人々を大切にし、そして神は彼らの行動、そして神への愛と思いを尊いものとするのだ。それが神の姿勢である。ではなぜ、神はノアを祝福したのか。人の行動と従順を神はそのように扱うからである。」

 「アブラハムが手を伸ばし、刃物を息子に振り下ろそうとしたとき、神はそれを見ていただろうか。もちろん見ていた。始めに神がアブラハムにイサクを捧げるように命じた時から、アブラハムが実際に息子を屠るために刃物を振り上げた瞬間までの全ての過程により、アブラハムの心が神に示された。そしてかつての神に対する愚かさ、無知、誤解とは無関係に、この時の神に対するアブラハムの心は誠実で正直であり、神から授かった息子イサクを本当に神にお返ししようとしていたのである。神はそこに自身が望んだアブラハムの真の従順を見た。」

 この中から私たちが分かったのは、神の祝福を得る肝心なところは人が神様に従順であるかどうかです。ノアとアブラハムは皆神様に従順になり、神様の言葉を聞き、神様の旨を行う人であり、神様がどう言われても、たとえ彼たちが当時神様の意図を理解していなくても、彼らは単純で真心で神様を信じ、そして神様の言葉によって行動し、神様への少しの取引と要求もありませんでした。

なぜ私たちは神の祝福を得られないのか
 では私たちのことを見てみましょう。私たちは主を信じているが、多くの混じりと取引があり、神様の委託が私たちに臨む時を振り返り、私たちはまずに考えるのは自分の利益で、自分の利益になる場合、受けます。利益にならない場合、受けたくなく、受けても取引や引き換えがあり、本当の従順ではなく、神様の心への思い遣りはなおさらなく、かえって、自分の代価や費やすことで神様の祝福を引き換えようとし、例えば、家庭の災害がないこと、事業が順調すること、天国に入る祝福を得ることなどです。そのため、私たちの行いはなかなか神様の称賛を得られないのです。

どのようにして神の祝福を得られるのか
 神様の祝福の中に生きたいなら、私たちはノアが神様の委託に対する態度を見習うべき、つまり、神様に絶対に従順になることです。そのほかに、アブラハムが神様の試練と精錬に直面する時、彼の態度もだた神様の心を満足させ、真心でイサクを神様に捧げるだけで、ほかの考えや目的がなかったことは、私たちが見習うに値します。

 実は、私たちは神様の祝福の中に生きることが難しいことではありません。神様が私たちへの要求も高くないです。つまり、委託が私たちに臨むにせよ、試みや試練が私たちに臨むにせよ、私たちは神様への理解、信頼、従順を持ち、神様を畏れ、悪を避けることができれば、私たちはノア、アブラハムのように祝福を得られます。まさに神様が言われた通りです。「神を畏れ悪を避ける人々、誠をもって神についていき、神にうかがい、神に忠実で神に従う人々は、神の祝福をしばしば受け取るのであり、神はたくさんの祝福を惜しみなくこれらの人々に与えるのである。さらに、人々が神から受け取る祝福は、しばしば人間の想像を超えるものであり、人間が自らの行いや自らが払った犠牲に対する代価として受け取れるものをはるかに超えている。」


ディボーションノート-聖書の中身は全てが神の御言葉なのでしょうか

2020-03-13 01:05:37 | 賛美の心

 聖書はクリスチャンの正典、私たちの信仰の基礎です。私たちは主を信仰しているので、それぞれが聖書を持っています。私たちは頻繁に聖書を読み、宝として大切にしています。また、私たちは生活と仕事における最も重要な基準として、聖書の御言葉に従います。パウロはかつてこう言いました:「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(テモテヘの第二の手紙 3:16)。これには、聖書は全て神の霊感を受けて書かれていると、より一層考えさせられます。しかし、聖書にはサタンの言葉や、ロバがバラムに言ったとされる言葉も含まれていると言う人々がいます。明らかに、それらは神の御言葉ではありません。私はこの事柄について、自分の考えを話したいと思います。

 兄弟姉妹の多くがこのパウロの言葉を信じています。しかし、パウロの言葉は単なる人間の言葉であり、神の御言葉を表しているのではないということを私たちは知っておくべきです。聖書には全部で66冊の書が存在しますが、聖書は全て神の霊感を受けて書かれている、もしくは聖書の御言葉は全て神の御言葉である、と神が仰ったという記録はどこにもありません。神はそう仰っておられないので、パウロの声明は神の御言葉に適っていると言えるでしょうか?これを証明する聖霊の御言葉は存在するのでしょうか?パウロのこの声明を支持する主イエス様または聖霊の御言葉があるのであれば、私たちはそれを受け入れて従うでべきです。これは主の御旨と完全に合致しています。彼がどのような人であれ、その言葉が主イエス様もしくは聖霊の御言葉に支持されていないのであれば、私たちはそれをうのみにすることはできません。私たち人間は単なる人間であり、創造物なのです。従い、私たちの心は創造主の御心を表すことなどできません。私たちが信仰する主イエス様は天国の主であります。私たちは神の御言葉通りに実践してこそ、神に認めていただけるのです。

 私たちは皆、パウロは神に抵抗し、主イエス様に反抗していたということを明確に知っています。彼が主イエス様の働きに反抗した者たちのリーダー的存在であったことは一般的に周知の事実です。主イエス様は福音を告げ知らせる使徒としてパウロを選ばれましたが、彼はそれでも創造物のままでした。従って、彼の言葉が人間の言葉であることに疑いの余地はありません。主イエス様は神であり、主イエス様の使徒と弟子たちは全員が人間でした。彼らは主イエス様御自身とは比べものにならないのです。これ故に、人間の言葉の話しになると、私たちはそれをうのみにして、従うことはできないのです。私たちはそれが神の御心に適っているのかどうかを探求するべきで、それは天国に入るためには非常に重要なことなのです。

 「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものである」とパウロが言った経緯とは?
人々はテモテへの第二の手紙3章16節に書かれている通り、聖書はすべて、神の霊感を受けて書かれたものであり、聖書の御言葉はすべて神の御言葉であると考えていますから、まず最初にパウロがその発言に至った経緯を調べてみましょう。誰もが知っての通り、「聖書はすべて、神の霊感を受けて書かれたものである」という言葉はパウロがテモテへの手紙の中で書いた言葉です。彼がこの手紙を書いた時は、まだ旧約聖書しか存在していませんでした。後の新約聖書は教会で保管されていた数多くの手紙であり、未だ書籍としては編集されていませんでした。新約聖書が完成したのは西暦300年以降の話しです。言い換えると、新約聖書はパウロがこの手紙を書いてから200年経った後に誕生したということです。従って、パウロの言葉は旧約聖書の内容を参照しているということが分かります。

 しかし、モーゼが創世記を書いた時期と主イエス様が働きに来られた時期の間には少なくとも1000年の隔たりがありました。パウロは旧約聖書のいずれの著者とも全く知り合いではありませんでした。彼はどうやって旧約聖書が神の霊感を受けて書かれていたことを知り得たのでしょう?旧約聖書の著者が彼に直接そう伝えた、または旧約聖書に「聖書は神の霊感を受けて書かれている」、と明確に書かれていない限り、彼はそれを知ることができなかったはずです。しかし、その著者たちは彼にそう伝えていなければ、旧約聖書にも聖書は神の霊感を受けて書かれているとは記録されていません。これ故に、パウロの言ったことは事実に基づいていないということになるのです。

 ヘビがイブを誘惑した時に口にした言葉や、サタンがヨブを非難した時に言っ言葉、それにロバがバラムに言った言葉などはどうでしょう?これらを神の御言葉とみなすことができるでしょうか?サタンは神を裏切った大天使であり、神の敵であること、そしてロバは動物であると誰もが知っています。これらが神の御言葉であると主張し続けるのなら、神を冒涜していることになってしまいます。これは私たちの本質における深刻な問題です。従って、「聖書はすべて、神の霊感を受けて書かれている」というパウロの言葉は彼自身の想像であり、真理には即していないことが分かります。

聖書に記されたどの言葉が神の御言葉なのでしょうか?
 実際に、神が話された御言葉はすべて聖書の中ではっきりと分かるように記されています。ヤーウェ神の霊感を受けた預言者の言葉は常に、「ヤーウェ神はこう言われる」と記されています。例えば、エゼキエル書34章11節「主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。」そしてイザヤ書1章2-3節「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、『わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない』」。これらは、預言者たちが神の御言葉を伝達し、神御自身が仰った御言葉を繰り返し告げていたことを示しています。主イエス様の御言葉は、「イエスは彼らに言われた、」、「イエスは答え、彼らに言われた」および「イエスは言われた」のように記されているか、もしくはそれが主イエス様の仰った御言葉であると聖句の中で端的に記述されています、例えば、マタイによる福音書 4章19節「イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』」、マタイによる福音書 5章1-4節「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。』」、とマタイによる福音書18章22節「イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。』」ヨハネの黙示録に記述されている神の御言葉は「主なる神が仰せになる、」や「すると、御座にいますかたが言われた、」のように明確に記されています。例えば、ヨハネの黙示録1章8節 「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』」。とヨハネの黙示録21章5節「すると、御座にいますかたが言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』。また言われた、『書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである』」。

 これらの聖句より、聖書の言葉はヤーウェ神の御言葉、ヤーウェ神が預言者たちに言われた御言葉、主イエス様御自身が言われた御言葉、そしてヨハネに明らかにされた神の御言葉のみが神の御言葉であり、それ以外は何らかの歴史的事実や、40人以上の著者が記録した人間の個人的な体験および知識を記した言葉であることが分かります。彼らの個人的な体験と知識は聖霊の御啓示から来るものですが、それを神の御言葉と同等視することはできません。旧約聖書にある通り、聖句が記す内容の殆どは神が律法の時代に働きをされたことを証明するための何らかの歴史的事実であり、それ以外にはサタンが発した数少ない言葉やロバの言葉等が含まれています。新約聖書では、著者たちが引用した神の御言葉を除くと、その全てはペテロ、パウロ、そしてテモテ等が書いた手紙にあるような人間の知識、見識、および理解が記述されています。彼らの手紙は単に人間の働きや各々の体験と知識を表しているだけなのです。彼らは教会の兄弟姉妹たちを助け励ますためにそれぞれの理解を書きましたが、それは主から受けた任務には全く含まれていないことでした。さらに、彼らは自分の言葉は神の御言葉であるとは決して言わず、各々の手紙の冒頭ではっきりとそれぞれの名前を書き記していました。これは事実です。

神の御言葉と人間の言葉の違いとは?
 神は創造主であり、私たち人間は創造物です。創造主と創造物との間には実に大きな違いがあります。この二つは同じレベルに置くことも、混同することもできません。神の働きと御言葉は堕落した人間の働きと言葉で入れ替えることはできません。私たちが神の働きを体験する過程において、私たちが聖霊から受ける体験、理解、および啓示がどれだけ偉大な形で他の人々の役に立っていようとも、それは神の御言葉として扱うことはできず、参照目的で使用することしかできません。当時のパウロ、ペテロ、そしてマタイも同じで、彼らの言葉は有益で建設的ではありましたが、それらが聖霊の御言葉であるとは言えないのです。これには疑う余地がありません。神の御言葉は神の性質の表れであり、神が有する全ておよび神そのものです。これらは肯定的なものであり、人間のいのちとなり得るのです。人間が発する言葉で真理に即しているものは全て人間が神の御言葉と心理を体験し、それを理解することから生まれ、その人のその時点での霊的背丈を表しています。真理に即した言葉は人々にとって多少の助けと利益にしかなりません。それらは人間のいのちにはなり得ないのです。聖霊の啓示と啓蒙を受けた故の言葉であったとしても、それらは依然として人間の言葉であり、神の御言葉とは全く比較できるものではありません。

 以上の交流で、聖書は神の霊感を受けて書かれたものではなく、聖書の言葉もその全てが神の御言葉ではないということが理解できるのではないかと思います。人間の言葉を神の御言葉として扱うということは、人間を神として扱うのを同じことです。それは真理に背き、神を冒涜していることになります。これ故に、私たちは聖書を正しく扱うべきであり、むやみに崇拝してはならないのです。聖書を読む時、私たちは神の御言葉と人間の言葉をはっきりと区別する必要もあります。どのような出来事が降りかかってこようとも、私たちは神の御言葉通りに探求し、実践するべきであり、人間の言葉は参照目的でしか使用できません。人間の言葉が真理に即していれば、私たちはそれを受け入れますが、そうでなければ拒否します。このように信仰を実践してこそ、私たちは神の御旨通りに行動することができるのです。


神は、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物の境界も定めた

2020-03-12 21:00:47 | 賛美の心

 ……こうした神が定めた境界のため、様々な地形により様々な生存環境があり、そうした生存環境は様々な鳥や獣にとって好都合であり、鳥や獣に生存空間を与える。このようにして、様々な生き物の生存環境の境界が発展した。次に話をするのは、このことである。

 次に、鳥や獣、昆虫が棲息する環境は、どのようなものであろうか。神は、様々な地理的環境を定めたほか、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物の境界も定めた。また、神は律法も定めた。様々な地理的環境の差異、そして様々な地理的環境が存在することが原因で、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物には、それぞれ異なる生存環境がある。鳥、獣、昆虫は、様々な植物の中で生活し、魚は水中で生活し、植物は地面の中で育つ。地面にはどのような種類があるだろうか。地面には、山、平野、丘陵など様々なものがある。そうしたわけで、鳥と獣はそれぞれに固有の生息地域があり、あらゆる場所を彷徨うことは無い。鳥獣の生息地域は森林と山である。もし、いつか鳥獣の生息地が破壊されるとしたら、この秩序が乱れ、混乱するであろう。この秩序が乱されて混乱した場合、どのような悪影響が即座に現れるであろうか。最初に被害を受けるのは、何であろうか。(人間である。)それは人間である。こうした神が定めた律法と制限の範囲内において、何かしら異常な現象を見た事があるだろうか。たとえば、砂漠を何気なく徘徊している象を見た事があるだろうか。もし見た事がある場合、それは極めて異常な現象である。なぜなら、象の棲息環境は森林であり、神が象の棲息と生存のために用意した環境は、森林だからである。象には固有の棲息環境と決められた固有の棲息地があるのに、なぜそこを離れて彷徨っているのだろうか。ライオンや虎が海の近くを彷徨っているのを見た事がある者は居るであろうか。ライオンや虎の生息地は森林と山である。海の鯨やサメが砂漠に居るのを見た事がある者は居るであろうか。鯨やサメは海を棲息地とし、陸上に棲むことは絶対不可能である。人間の生活環境において、ヒグマと共に生活している人々が居るであろうか。自宅の室内や室外が常にクジャクその他の鳥たちで溢れている中で生活している人間が居るだろうか。森林の中で牛や羊を見た事のある物は居るであろうか。鷹やガンが、サルと戯れているのを見た事がある者は居るだろうか。もしこのような状況を見たことがあるとすれば、それは全て異常現象である。こうした奇妙に見える現象について話をしている理由は、1か所に固定されているか、呼吸して歩くことが出来るか如何を問わず、神が造った万物には、すべて生存のための律法が存在するということを、あなたがたに理解してもらうためである。神がこれらの生き物を造る遥か以前に、神はそれらの生き物のための棲息地、つまり固有の生存環境を用意した。これらの生き物には、それぞれ固定された生存環境、固有の食料、固定の棲息地、生存のための気温などがそうした生き物の生存に適した、固定された棲息地がある。このように、そうした生き物は方々を彷徨ったり人間の生存を侵害したり、人間の生活に影響を及ぼしたりすることは無い。これが、神が全ての生き物を管理する方法である。こうした事は、すべて人間に最適な生存環境を与えるためのものである。万物のうち、生き物には、それぞれ固有の生存環境の中に生き延びるための食料がある。その食料により、生き物は土着の生存環境に固定されている。生き物はその環境に固定されているのである。そうした環境においては、生き物は、それらの生き物のために神が定めた律法に従い、依然として生存と繁殖を続けている。この種の律法や神の予定があるため、あらゆる生き物は人間と調和して相互作用し、人間とあらゆる生き物は相互依存している。

もっと知る

  更に多くの内容を読むには、聖書の部屋のウェブサイトへどうぞ


神様が人類の運命を支配されている事実をどうのように認識し、扱うのか

2020-03-11 20:41:18 | 賛美の心

神が人間の運命を統治しているという事実は、誰にも変えることが出来ない
 ここまでの話を聞いて、あなたがたの運命に対する考え方は変わったであろうか。神による人間の運命の統治を、あなたがたはどのように理解しているであろうか。簡潔に言うと、神の権威の下では、全ての者が能動的あるいは受動的に神の統治と計画を受け入れるので、人生においてどれほどもがいたとしても、どれほど誤った道を進んだとしても、結局は創造主がその者のために定めた運命の範囲内に戻ってしまう。これが創造主の権威の凌駕することが不可能な性質であり、創造主の権威が万物を制御し支配する方法である。万物のいのちを支配する法則を担い、妨害されることなく人間が生まれ変わることを可能とし、毎日、毎年、世の中を変化させ、進歩させているのは、この凌駕不可能な性質と、この形態の制御と支配である。あなたがたは、こうした事柄全てを目のあたりにし、表面的に理解しているか、あるいは深く理解している。理解の程度は、真理に関する自分の経験と認識、そして神に関する自分の認識により異なる。真理の事実をどの程度知っているか、神の言葉をどの程度経験しているか、神の本質と性質をどの程度知っているかは、神による統治と采配に関するあなたがたの理解度を示すものである。神による統治と采配の存在は、人類がそれらに服従しているか如何に依存しているであろうか。神にこの権威があるという事実は、人間がそれに服従するか如何により決まるであろうか。神の権威は、状況を問わず存在する。つまり、あらゆる状況において、神は人間の運命その他あらゆるものを、神の考えと望みに従って支配し、計画する。これは人間が変化することで変化するものではなく、人間の意志に依存しないものであり、時間、場所、地理のいかなる変化によっても変えられることが無い。なぜなら、神の権威は、神の本質そのものだからである。人間が神による統治を知って受け入れられるかどうか、そしてそれに服従出来るかどうかは、神による人間の運命の統治という事実に少しも影響しない。つまり、神による統治に対して人間がどのような姿勢を取るかによらず、神が人間の運命と万物を統治しているという事実が変わることは無い。たとえ神による統治に服従しなかったとしても、依然として神はあなたの運命を操り、また、たとえあなたが神による統治を知ることが出来なくても、神の権威は依然として存在する。神の権威、そして神が人間の運命を統治しているという事実は人間の意志から独立したものであり、人間の好みや選択に従って変わることが無い。神の権威は全ての場所にあり、いつでも、どの瞬間も存在する。もし天と地が無くなるとしても、神の権威は決して無くならない。なぜなら、神は神自身であり、神に唯一の権威があり、神の権威は人間や出来事、物事、空間や地理による制限を受けないからである。神は常に神の権威を行使し、神の力を示し、神の経営(救い)の業を継続する。また神は、これまでと同様、常に万物を支配し、万物に必要なものを与え、万物を指揮する。そうした事柄は、誰も変えられない。それは事実であり、太古の昔から不変の真理であり続けている。

神の権威に服従することを望む者の適切な姿勢と行動

 神の権威と、神が人間の運命を統治しているという事実を、人間はどのような姿勢で知り、扱うべきであろうか。これはあらゆる者が経験する難題である。実生活の問題に対処する時、神の権威と神による統治をどのように知り、理解すべきであろうか。こうした問題をどのように理解し、取り扱い、経験すべきかを知らない場合、どのような姿勢で神による統治と計画に従っている自分の意向、願望、そして事実を示すべきであろうか。あなたは、まず待つこと、次に追究すること、その後に従うことを覚える必要がある。「待つ」とは、神の時を待つことであり、あなたのために神が計画した人々、出来事、物事を待つことであり、また神の旨が徐々に明示されてゆくのを待つことである。「追究する」とは、神が計画した人々、出来事、物事により、あなたに対する神の入念な旨を観察し、理解すること、それらの物事により真理を理解すること、人間が達成すべき物事や従うべき道を理解すること、人間に対して神がどのような結果を実現しようとしているか、人間に対して何を達成しようとしているかを理解することである。当然ながら、「従う」とは、神が計画した人々、出来事、物事を受け入れ、神による統治を受け入れ、それにより創造主が人間の運命をどのように支配しているか、どのようにして神が人間に神のいのちを与えるか、神はどのようにして人間に真理を備えさせようとしているかを知ることである。神の采配と統治の下にある全ての物事は自然の法則に従っているので、自らの全てを神の采配と支配に委ねるとあなたが決心したのであれば、あなたは待つこと、追究すること、そして従うことを覚える必要がある。それが神の権威に服従することを望む者全てが取るべき姿勢であり、神による采配と計画を受け入れることを望む者全てに備わっているべき基本的な資質である。そのような姿勢を取り、そのような資質を備えるには、一層の努力が必要である。そうした努力をして初めて、あなたがたは本当の現実に入ることが出来る。

 


賢いおとめは神様の声を聞いて主を迎えた

2020-03-10 20:39:36 | 賛美の心

参考聖書箇所:
 「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。…しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。…夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。…そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた」(マタイによる福音書 25:1、4、6-7、10)

 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)

 「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:29)

 「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)

 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイによる福音書 7:7-8)

 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書 5:3)

関連する神の言葉:
 神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。「神の現れによる新時代の到来」より

 聖霊の働きは日毎に変化し、段階毎に高まっている。明日の啓示は今日よりも高く、段階が進むにつれてさらに高まる。これが神が人間を完全にする働きである。人がこれに付いて行けないのであれば、いつでも取り残されうる。人間が従順な心でいなければ、最後まで従うことはできない。これまでの時代は過ぎ去った。今は新しい時代である。新しい時代には新しい働きがされなければならない。とりわけ、人間が完全にされる最後の時代になると、神はそれまでになく素早く新しい働きをする。それゆえ、人が従順な心を持たないならば、神の足跡を辿ることを困難と感じる。神はいかなる規則に従うこともなく、自身のどの働きの段階をも不変のものとして扱うことはない。むしろ、神の為す働きは常に新しく、常に高みへと登り続ける。神の働きは段階を追うごとに益々実践的になり、益々人間の実際の必要に則したものとなる。人間はこのような働きを経験して初めて、最終的な性質の変化を遂げることができる。人のいのちに対する認識はますます高まり、同様に、神の働きも益々高みへと上る。このようにしてのみ、人は完全にされ、神に用いられるに相応しい者となることができる。神はこのように働いて人間の観念に反論し、覆す一方で、人を高みへ、そしてより現実的な状態、神への信仰の最高の領域へ導き、その結果、最終的に神の旨が成就するのである。故意に反抗する不従順な本質を持つ者は、神が即座に、すさまじい勢いを持って働くこの段階から置いて行かれる。進んで従い、喜んで身を低くする者だけが、道を最後まで進むことができる。このような働きにおいては、あなた方はみな、どのように従い、自分の観念をどのように脇に置くかを学ぶべきである。進む一歩一歩において注意深くあるべきである。不注意であるならば、間違いなく聖霊に拒絶されるような、神の働きを妨害する者となる。「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より

 聖霊の現在の言葉に従うことができる人々はみな祝福されている。そのような人々が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。最新の働きを得た人々は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人々は排除される。神は新しい光を受け入れることができる人々を望んでおり、神の最新の働きを受け入れ、知っている人を求めている。なぜ貞節な乙女でなければならないと言われているのであろうか。貞節な乙女は聖霊の働きを求め、新しいことを理解することができ、さらには、古い観念を脇へ置いて、今日の神の働きに従うことができる。今日の最新の働きを受け入れる人々のこの集りは、昔から神によって予め決められており、人々のなかで最も祝福されている。あなたがたは神の声を直接聞き、神の出現を見て、そのため天と地を通じて、時代を通じて、あなたがた、つまりこの集りよりも祝福された人々はいない。「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」より

 神を信じているのであれば、人間は神の歩調に遅れることなく、一歩一歩ついて行かなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきである。彼らだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の働きによって既に排除された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、各期間において、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような一つの時代のみに該当する真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きに遅れずついて行くことは決してできず、聖霊の働きを得ることは永遠にできないであろう。神がどのように働くかに関わらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、遅れずについて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊により排除されることなどあろうか。神が何を為すかに関わらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、何も疑わずに聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰されることなどあろうか。「神の働きと人間の実践」より

 神は全人類の神である。神が自分を一つの国や民族の所有物とすることはない。神が自分の計画にある働きを、形式や国、民族といった制限を受けることなく行う。これまであなたはこのような形式を考えたこともなかったかもしれないし、そのような形式があることを否定するかもしれない。神が現れる国や民族は差別されている最貧国かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神は、自分の力によって、また自分の真理と性質を通して、自分と心が一つになっている人々をすでに得ている。それは神が求めていた人々で、神に征服され、苦しい試練とあらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる人々である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。まずは、自分の観念を脇に置きなさい。立ち止まって、次の言葉をよく読みなさい。あなたが真理を慕い求めるなら、神はあなたの知性を明るくし、神の心と言葉を理解できるようにしてくれる。「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。「神の現れによる新時代の到来」より