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いのちの源

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復活祭とは何ですか。復活祭の意味は何ですか

2020-03-04 17:01:20 | 賛美の心

 含(ハン)笑(シャオ)

 復活祭とは? 復活祭との起源

 復活祭とは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。


主イエスの復活と人の前での出現の意味

 神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より)

 神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。

 これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。

 主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!


イエスが十字架につけられた時に言われた「すべてが終わった」は何を表しているのか

2020-03-03 16:23:08 | 賛美の心

 イエスが十字架の上で『すべてが終った』と言ったのは、人類を救う神の働きが完了したという意味であったと多くの兄弟姉妹は信じています。しかし、本当にそうだったのでしょうか。イエスが『すべてが終った』と言った本当の意味は何だったのでしょうか。この記事は主イエスの十字架上の『すべてが終った』という言葉の本当の意味を明らかにします。どうぞお読みください。

 午前七時、ワン・シュゥは娘フイ・ミンの家へと急いでいました。つい三十分前に牧師のツァンが家に来て、彼女の娘と義理の息子が東方閃電を受け入れたと伝えたのです。これはワン・シュゥにとって大きな驚きでした。彼女はこう思いました。「東方閃電のメンバーは、主イエスが戻られ、御言葉を表し、人を裁き清める御働きをされているという証しをしている。でも主イエスは十字架に掛けられたときに『すべてが終った』とはっきり言われた。これは神様の人類を救う御働きがすでに終わったことを示している。新しい段階の働きをされるために主が戻られるなどということがあるだろうか。娘と婿は聖書にかなり精通していて、真剣に真理を追求している。思慮深く識見があるから、盲目的に決定を下したはずがない。なぜ東方閃電を受け入れたの。一体どうなっているの」ワン・シュゥは非常に困惑し、できるだけ早くその理由を知りたかったので、急いでそのフイ・ミンの家に向かいました。

 三十分後、ワン・シュゥは娘の家に到着しました。中に入るとすぐにワン・シュゥは単刀直入に娘に聞きました。「ツァン先生が明け方にやって来て、あなた達が二人とも東方閃電を受け入れたと言ったけど、本当なの?」

 書斎で読書をしていたリ・ジュンは義母の声を耳にし、部屋から出てきました。フイ・ミンは母親の表情がやや険しいことに気付き、その手を取って座りました。そして微笑みながら言ったのです。「そうよ、お母さん。私達は東方閃電を受け入れたの。最近、リ・ジュンも私も全能神の御言葉を読んでいて、全能神の御言葉は神様の六千年の経営計画(救い)の奥義、神様の受肉の奥義、神様の三段階の御働きの奥義、終わりの日に神様は人を清め救うためにどのように裁きの御働きをされるのか、人類の最後の終着点などの神様による人類の救いの全ての真理と奥義を明かしているということがわかったの。全能神の御言葉を読めば読むほど、それが真理で力と権威があり、神様の声であると感じるの。お母さん、私たちが本当に長い間待ち望んでいた主イエスは受肉した全能神として戻って来られたのよ。お母さんも勉強してみたら」

 ワン・シュゥは娘の話を聞くと、少し表情を柔らげて言いました。「フイ・ミン、私たちの教会は今では荒れ果てる。だからもし聖霊の働きがある教会を探しに行っても、引き止めないわ。でも東方閃電は主が戻られて、人を裁き清める段階の御働きをされていると説いている。どうしてそんなことがあり得るの?主イエスが十字架に掛けられた時、『すべてが終った』とはっきりおっしゃったでしょう。これは人類を救う神様の御働きが終わったことを意味してるのよ。私たちが主に罪を告白して悔い改める限り、私たちの罪は赦されるのよ。主が戻ってこられたら、すぐさまに私たちを天国へ引き上げてくださるわ。主が新しい御働きをされることはないのよ。これは牧師の先生や長老方もお説教でよく仰ってることだわ。それなのに、どうして忘れてしまったの?どうして東方閃電の道を受け入れるなんてことができるの?」

 リ・ジュンは微笑み、言いました。「お義母さん、私たちは今までずっと宗教界の牧師や長老に従って、十字架に掛けられた主イエスが『すべてが終った』と言われた意味は、人類を救う神の御働きが終わり、主が戻られたときにはすぐに私達を天国に引き上げてくださり、新しい御働きはされないということだと信じてきました。でもこれは主の御言葉の本来の意味に合ってますか?神様の御働きの事実に合ってますか?主イエスが十字架の上にいらっしゃったとき、ただ『すべてが終った』と言われただけです。人類を救う神様の御働きが完全に終わったとはおっしゃっていません。それなのに牧師や長老は主イエスが語られたこの言葉をもとに、神様の御働きはもう終わったので主が戻られても新しい御働きはされないと決めつけています。これは、あまりに主観的な主張ではありませんか?ただ自分たちの希望に合わせて主の御言葉を解釈しているだけじゃありませんか?お義母さん、考えてください。主イエスが『すべてが終った』と言われたのが人類を救う神様の御働きが終わったことを意味するのなら、主が戻ってこられたとき、羊と山羊を、麦と毒麦を、忠実なしもべと悪いしもべを分けるという預言を成就するお働きをどうやって達成なさるのでしょうか?主イエスはこのような預言もされています。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書12:48)』そして、ペテロの第一の手紙4:17には『さばきが神の家から始められる時がきた』と記されています。これらの御言葉は、主が戻ってこられたときに真理を示し裁きの御働きを行われることを明確に伝えています。もし牧師や長老の理解に従って、主イエスが十字架上で『すべてが終った』と言われたのは主はそのときに人類を救う御働きを終えられ、新たに御働きになる必要はないという意味だとしたら、これらの預言はどうやって成就するんですか?真理を示して裁きの御働きをするために戻るという主の預言は何の意味もないということになりませんか? そう考えると、宗教界の解釈は主の御言葉を否定し、終わりの日の主の救いを否定していることになりませんか?だから、主イエスが十字架の上で『すべてが終った』と言われたからといって人類を救う神様の御働きが終わったとは断言できないと思います。それは私達の想像であって、主の意図に沿いません。私達が自分たちの希望に沿って神様の御働きを制限するのなら、神にいどむことになりますよ!」

 

 ワン・シュゥはリ・ジュンの取り上げた聖句について思いめぐらし、考え込んでしまいました。「そうよね。何年も牧師や長老の言うことだけに耳を傾けて、十字架の上で『すべてが終った』と言われた主イエスが意味されたのは、神の人類を救う御働きが完成し、決して新しい御働きはされないということだと信じてきた。でも、娘と婿がたったいま引用した主の預言は、主が戻られたときに、真理を示し裁きの御働きをされると確かに言ってる。そうだとすると主が『すべてが終った』と言われたとき、正確には何を意味されたの?」そんなことを考えながら、ワン・シュゥは二人に自分の困惑を話しました。

 ワン・シュゥが真理を求め始めたのを見て、二人は明るく微笑み、フイ・ミンが根気よく話しました。「お母さん、主イエスが十字架の上で『すべてが終った』と言われたとき、実は恵みの時代の贖いの御働きが終わったと言われたのよ。私達が主イエスの御働きを受け入れ、主に罪を告白し悔い改める限り、私達の罪は赦され、主に祈ることを許され、主がくださる豊かな恵みと真理を謳歌することができるの。これは主イエスが贖いの御働きをされることで成し遂げられ成果です。ただ、主イエスの贖いの御働きが終わったからと言って、人類を救う神の御働きが終わったわけではないわ。一緒に全能神の御言葉を二節ほど読んでみましょう。そうするともっとよく理解できるから」そう言って、フイ・ミンは寝室から『言葉は肉において現れる』という本を持ってきました。彼女はそれを開き、読み始めました。「人にとって、神の磔刑は神の受肉の働きを終結させ、全人類を罪から贖い、神がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を贖っただけである。人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は「人となったわたしの肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架にくぎで打ちつけられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。」(「働きと入ること(6)」より)「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。」(「受肉の奥義(4)」より)

 読み終えると、フイ・ミンは次のように話しました。「全能神の御言葉はとても明確よ。主イエスによって行われた贖いの御働きは、人類を救うという神様の御働きの半分だけを完了させたの。私達の罪は主イエスの贖いを通して赦され、もはや明らかな罪を犯さないし、外見では良い振る舞いをするけれど、罪の束縛を完全に解いたわけではないのよ。私達は傲慢で慢心して、利己的で卑劣で、インチキしてごまかそうとする堕落した性質に支配されている。自分の利害や威信を守るために嘘をつき、人を騙す。自分よりも優れている人を見ると、嫉妬してその人の言うことなんか聞こうともしない。利益を脅かす人がいるとそっくり仕返しをしたいくらいに憎む。それに私達は世の中の邪悪な潮流に従い、富に固執し、虚栄心に満ち、名声と幸運を欲しがる。自然災害や人災が降りかかったり不幸なことが起きると、神様を誤解して非難し、自分の観念や想像をもとに神様の御働きの良し悪しを決めたり非難したりする。こんな振る舞いは、主を信仰して罪は赦されても、サタン的な本性と堕落した性質は私達の中に深く根付いたままだということを証明しているわ。これこそ私達が罪を犯し神様に逆らう根本原因なのよ。罪深い本性をなくさない限り、罪を犯して神様に反抗したり、神様を裏切って対抗しようとする自分自身を抑制することはできない。聖書の神様の御言葉ははっきりしているわ。『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。』(レビ記11:45)また、ヘブライ人への手紙第12章14節には、『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』と書かれているじゃない。神様は聖なる方であり、天国に汚れた人間が入ることはできない。こんなにしょっちゅう罪を犯し神様に逆らう私達が神様の顔を見る資格があるのかしら。神様が天国へ導いてくださるほどの価値がどうして私達にありえるの?だから、私達の罪の根本的原因を解決するために、神様が終わりの日に戻られ御働きの新しい段階を遂行なさる必要があるのよ。そこで初めて私達はサタン的な堕落した性質を捨て去り、神様の清めと救いを得ることができるのよ。これは聖書の預言を成就することでもあるの。『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。』(ペテロの第一の手紙1:5)

 話が終わるとフイ・ミンは『言葉は肉において現れる』のあるページを開いてワン・シュゥに言いました。「お母さん、全能神の御言葉を二節を読んだらもっとよく理解できると思うわ。神様の御言葉・・・

 「あなた方のように贖われたばかりでまだ変化しておらず、神によって完全にもされていない罪人が、神の心に沿うことができるだろうか。未だに古い自分のままのあなたは、確かにイエスによって救われ、神の救い故に罪人とは見なされなくなったことは事実であるにしても、それであなたが罪も汚れもないという証拠にはならない。あなたが変化していないのであれば、どうして聖いものとなれるのか。あなたは心の中の不純さ、自己中心、悪意にまみれながら、イエスと共に降ることを望んでいる――あなたはそこまで幸運ではない。あなたの神への信仰は一段階抜け落ちている。どうにか贖われたというだけで、あなたは変えられてはいないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変え、清める働きをしなければならない。贖われただけでは、聖さを獲得することは不可能である。このように、あなたには神の素晴らしい祝福を共有する資格はない。神による人間経営の働きの一段階、人を変え、完全にするという重要な段階が抜け落ちているからである。それ故、贖われたばかりの罪人であるあなたは、神の財産を直接相続することはできないのである。」(「呼び名と身分について」より)「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(「序文」より)

 娘が読むのを聞いて、ワン・シュゥは無意識のうちにうなずき、考えました。「この言葉には権威がある。主イエスは贖いの御働きをされただけで、私達の罪は赦されたにもかかわらず罪深い本性は清められなかったのか。一日中罪の中に生きているのも不思議じゃない。罪の束縛を解きたくて、いくら祈って自分を抑えようとしてもできない。もし罪の束縛から脱したいなら、神様が別の段階の御働きをなさる必要が本当にあるようだ」

 リ・ジュンが立ち上がって、ワン・シュゥに水を注ぎながら、言いました。「お義母さん、全能神の御言葉はなぜ神様が終わりの日に裁きの御働きをされるのか、その御働きによって成し遂げられる結果をはっきりと説明しています。主イエスの贖いを受けて私達の罪は赦されましたが、サタン的な本性はまだ内に深く根付いており、神の祝福を受け継ぐ資格などありません。そのような堕落した人類として私達が必要とするので、神様は主イエスの贖いの御働きを土台にして終わりの日にもう一段階の御働きをされるのです。その御働きにおいては神様は人を裁き罰するために御言葉をお使いになり、私達の罪深い本性は消滅し完全に罪から救われるのです。終わりの日の神様の裁きの御働きを受け入れることによってのみ、私達はサタンによる堕落についての真理がわかり、神様に反抗するサタン的な本性を知り、神様の義でありと不可侵の性質を体験し、神を畏れる心をもつようになるんです。そして、私達は神様の御前にひれ伏し、自分を憎み、肉に背いて真理を実践するようになるでしょう。そのようにして、私達は徐々にサタン的な性質の束縛を解き、清め変えられ、救いと完成を得て、真に神様に従い神様を愛する者になることができるんです。その時初めて、人類を救うという神様の経営計画が完成し、すばらしい御働きが成し遂げられます。これはヨハネの黙示録の次の言葉を正確に成就します。『すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルファでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。』(ヨハネの黙示録21:5―6)

 リ・ジュンとフイ・ミンの話はワン・シュゥには驚きで、彼女の耳には新鮮でさわやかに響きました。そしてこう考えました。「二人の話は聖書と主の御言葉に一致している。明瞭そのものだわ。主が真理を示し裁きの御働きをされるために戻ってこられることこそ私達に必要なことで、それが私達は完全に罪から救われ、神様の救いを受けて完成され、真に神様を愛し従う者になれるように行われる…」

 フイ・ミンは頭を下げて何も言わない母親を見て、母親の腕を優しく揺すぶりながら「何を考えているの、お母さん」と聞きました。

 ワン・シュゥは表情を和らげて頭を上げ、リ・ジュンとフイ・ミンを見て笑顔で言いました。「驚いたわ。全能神の終わりの日の御働きを受け入れて間もないのに、そんなに多くの真理を理解しているなんて。今日のあなた達の話を聞いて、私も少しは理解できたようだわ。主イエスは人類を贖う御働きをされただけで、それは人類を救う神様の御働きの一部でしかないのね。主イエスの御働きを受け入れても、私達は罪を赦されるだけで、罪深い本性はまだ消滅していないので自分を抑えきれないで罪を犯したり神様に反抗するのね。神様にお目見えしたり、主に天の国に導いていただく資格などないわね。私達が罪の束縛を解きたいなら、まだ神様に再び来ていただいてもう一段階御働きを、裁きと清めの御働きをしていただかなきゃいけないのね」

 フイ・ミンとリ・ジュンはワン・シュゥの言うことを聞いてとても嬉しくなり、神に感謝し続けました。

 娘と義理の息子が幸せそうなのを見て、ワン・シュゥは自分をとがめて言いました。「ああ、牧師や長老が言っていたことを聞いていた何年のもあいだ、私は主イエスが十字架の上で『すべてが終った』と言われたのは、人類を救う神の御働きが完了したという意味だと信じてきた。そして主が戻られ私達を天国へと引き上げてくださることを心から願っていた。ついに、全能神教会が主が戻られたことを証していると聞いたけど、それを追究したり調べたりせず、自分の観念と想像に固執して、主の道を守るようにあなた達に助言しようとして、大きな過ちを犯し終わりの日の神様の救いを受けられないところだった。自分の観念や想像だけで神様の御言葉を解釈し、神様の御働きに取り組んでも、いつなんどき神に反抗したり、神様の救いを受ける機会を自ら逃したりするだけね。徹底的に清められて天の国に入りたいのなら、終わりの日に神の裁きの御働きを受け入れなければならいということがわかったわ!でも、終わりの日の神の裁きの御働きがどう人を清め、変えるのかはあまり知らないから、終わりの日の全能神の御働きを探求して勉強を続け、御言葉を読んでいこうと思うわ!」

 「神に感謝!全能神教会の兄弟姉妹が明日ちょうど集会を開くから、私達と一緒にお話を聞きに行かない?」とフイ・ミンが言いました。

 「そうするわ」

 「神に感謝!」

 外では太陽が明るく美しく辺りを照らし、時折ワン・シュゥ一家の喜びに満ちた話し声が窓から聞こえてきました…


福音とは何か。なぜ福音を宣べ伝えるべきか

2020-03-02 16:11:07 | 賛美の心

 「福音」とは、「よい知らせ」のことです。イザヤ書第61章1節にこう書かれています。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人によい知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。

 

  福音というと、コリントの信徒への手紙二第1章10節に「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」と書いてあるのを思い出します。この節から、わたしたちは神が三度人類を死の危険から救ってくださることが分かりました。旧約聖書にはこのことが記されています。アダム、エバが善悪の知識の木の果実を食べて、サタンに腐敗させられた後、人類は死亡に直面するようになりました。そこで、神は人類を救う仕事を始められました。一回目の救いは、ヤーウェ神によってもたらされたのです。当時のイスラエル人は衣食住、交通手段について分かっているだけで、生活常識をわきまえず、またヤーウェがどういう神か、どのように神を礼拝すべきかを知りませんでした。神が人類を導かないなら、全人類は神を礼拝せず、偶像を礼拝し、どのように正常な人性における生活を送るべきか知らないため、淫乱、腐敗の中に生きるようになり、しかも世界はサタンに踏みにじられる地になります。そうなったら、全人類は神に懲罰されて、烏有に帰します。だから、神はモーセを使って、イスラエル人をエジプトから導き出された後、モーセを通して律法、戒めを発布し、生まれたばかりの人類の地上での生活を正式に導き、人に厳格に律法を守ったり、神を礼拝し、神をあがめることを学んだりするように要求されました。神が律法、戒めを発布しなかったなら、当時の人類はどのように生活すべきか、全然分かりませんでした。人がヤーウェの律法を守ったら、神の祝福が彼に伴います。だれかが律法を犯したら、石で打ち殺され、或いは天の火によって焼き殺されます。だから、律法の下のイスラエル人はみな律法を厳守し、ヤーウェ神の御名を聖としました。そのため、彼らはヤーウェ神の祝福を得ました。イスラエル人はまたヤーウェ神の福音を、イスラエル人以外のあらゆる国と部族に宣べ伝えました。福音を受け入れた人たちはヤーウェ神の祝福を得ましたが、福音を受け入れなかった人たちはヤーウェ神の祝福を得られませんでした。

 律法の時代の末期、人がますます腐敗したので、人の罪悪がますます多くなり、人がもはや律法を守れなくなり、あらゆる人はいつでも律法を犯して死刑にされるという危険に直面していました。神は人類を愛し、自らの手で造られた人類がこのようにサタンの権威の下に死ぬのを見るに忍びなかったので、自ら受肉して地上に来て働き、人を救われました。最終的に、彼は十字架につけられて、全人類の罪祭になり、人をサタンの手の中から贖い出されました。それ以後、人類は主イエス・キリストを救い主として受け入れたことによって、罪の赦しを得ました。これは天の国の福音です。マタイによる福音書第9章35節に書いてあるように、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。主イエスによってもたらされた天の国の福音を受け入れたすべての人は罪の赦しを得ました。しかも、彼らが「主イエス」という御名を呼び求めさえすれば、豊かな恵みを得られます。例えば、盲人が見えるようになったり、足の不自由な人が歩けるようになるなどです。しかし、主イエスの福音を拒絶した人たちは永遠に罪の赦しを得ることができず、また主イエスから与えられる豊かな恵みを得ることができません。今、主イエスの福音はもう地の果てにまで宣べ伝えられました。多くの人はすでに天の国の福音を得ました。

 わたしたちが主イエスに贖い戻されて、罪の赦しを得ましたが、わたしたちの内側の罪の性質は依然として存在しています。そのため、わたしたちは常に罪を犯し、完全には神に得られていません。腐敗した人類はただ罪の赦しという救いを得、まだきよくならず、まだ神の国に入ることができません。ヘブライ人への手紙第9章28節に「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」と書いてあります。ヨハネの黙示録第14章6節に「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て」と書いてあります。この中から分かりますが、イエスに贖い戻された人は神から来た永遠の福音、神の二回目の救いを得てこそ、罪を犯すという本性から徹底的に解放し、神によって天の国に導き入れられ、永遠の命を得ることができます。これで分かるように、世の終わりの永遠の福音を得ることは、真心をもって主を信じ、主の再来を待ち望むすべての兄弟姉妹にとって極めて重要です。他人がわたしたちに福音を伝える時、わたしたちは慎重に扱い、多く探究し、調べなければならず、盲目的に結論を下してはなりません。それは、最後の永遠の福音を失うことがなく、ふとした心得違いをして悔いを千載に残すことがないためです。わたしたちすべてが多く目を覚まして祈るよう願っています!


兄弟姉妹の信仰心が弱くなっていて、私はどうしたらいいですか

2020-03-01 15:46:46 | 賛美の心

 信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ、

 皆さんお元気でしょうか。私はしばらくの間、ある疑問に頭を悩ませています。牧師や長老たちに意見を求めましたが、解決には至りませんでした。そこで、皆さんと共有して話し合えればと思い手紙を書かせていただきました、どうぞお宜しくお願いします。

 私は説教師をしています。以前は主の御言葉を読むと聖霊の啓示と啓蒙を授かることができ、宣教する際も言葉が尽きることはありませんでした。兄弟姉妹たちは私の説教を楽しんで感化を受けていました。しかし、いつからか、私は主の存在を感じられなくなり、説教を書き上げることすらできなくなってしまったのです。私は説教をする度に、実質的には毎回同じことばかり言って、新鮮で明るい内容は全く出てこないのです。兄弟姉妹たちは集会の最中に居眠りをしてしまうし、私は説教をするのが怖くなってしまいました。私は宣教と働きを続けているにもかからわず、私生活で主の御言葉を実践することができないし、人の相手をする時も許す心と寛容な心が持てないのです。ほとんどの兄弟姉妹たちはビジネス、仕事、そして家族で多忙にしており、信仰が冷めてしまい、集会に参加する意欲を失っています。私は説教師として教会の集会に数人しか来ない様子と見ると、主に対して非常に申し訳なく、恩義を感じるのですが、彼らの魂を助けてあげることができないのです。私たちは現状を変えようと、食事会やグループで行う断食や礼拝を設けようとしましたが、効果はありませんでした。私たちは依然として主の御導きが感じられません。なので、私はどうして私たちの教会はこんな状態に陥ってしまったのか、そして以前の状態を取り戻すためにはどうすれば良いのかについて話し合うことができればと思っています。

スングアンより

スングアン兄弟へ:

 あなたの手紙の内容から、あなたは真理を求める意思のある方で、兄弟姉妹と教会のためを思って苦労に耐え、彼らの責任を背負っておられる方と察します。あなたの問い合わせの内容は、今現在ほとんどの教会でごく一般的に当てはまる状況で、探求して話し合うにふさわしいものです。今日この機会をお与えくださった神に感謝します、そして神が私たちを問題の解決にお導きくださりますよう祈っています。

 私も説教師をしていますが、私の教会も一度、あなたの教会と同じ状況で苦労したことがありました。あなたがされた様に、私もたくさんの方法を試しましたが、効果は得られませんでした。私は幾度となく神の前に行って祈り、探求しました。そして、私は同じクリスチャンで、以前私に福音を宣教してくれた大学のクラスメート、シアン・グアンミンのことを思い出しました。シアン兄弟は霊的にとても厚い人で、主の御言葉における彼の交流には常に啓示と光明があります。彼は霊的な事柄と教会の働きの対応仕方について独自の見識を持っています。私は彼と交流する度に多くを学びました。その後、私は祈り、私たちが交流する機会を神に請いました。私は神の采配に感謝し、私たちは合流しました。私はシアン兄弟とヤン兄弟との交流を通じて、やっと答えを手にしました。その体験をあなたに話しますので、お役に立てばと思います。

 3か月前のある日、ヤン兄弟とシアン兄弟が私を訪れてきて、私は自分の状況と私の教会の状態を彼らに話しました。私の言葉を聞いたシアン兄弟はこう言いました、「そのような状態にある教会は1つや2つではありません。それは宗教界全体に広まっています。」彼の言葉には遠い昔に神の宮で起きた荒廃した状況を思い出させられました。そして、シアン兄弟が幾つかの節を見せてくれました:「それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台やはとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして、彼らに言われた、『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」(マタイによる福音書 21:12-13)。彼は続けてこう言いました:「ここで主イエス様はこう言ってユダヤの指導者たちを叱られました、『あなたがたはそれを強盗の巣にしている。』」これは、彼らが神を恐れる心を持っていなかったからです。彼らはヤーウェの律法と戒律に従わず、神の宮で不法を働き、人々が宮の中で商売をすることを許していたのです。結果として、かつてはヤーウェの栄光で満ち、信者たちが神を崇拝した宮は、両替をしたり、牛、羊やはとを売る商売の場、かつ強盗の巣と化したのです。このユダヤ教の指導者たちは神の戒律を人間の教えと入れ替えていたのです。例えば、神は人間に親孝行であるよう命じられましたが、彼らは両親に十分なお金をあげてさえいれば、その必要はないと教えました。彼らは表面的に善良な行いを見せて人々を騙し、秘かに主の御言葉に背く偽善者でした。彼らは聖句箱を大きくし、衣服の房を長くし、わざと道の交差点に立って長く祈りを捧げるようなことをしていました。彼らは毎月収入の10分の1を寄付していましたが、秘かにやもめの所持品を着服し、神に汚れた動物をいけにえとして捧げ、神への備え物を盗みすらました。彼らは自らが主の御言葉を実践することはなく、自分たちの評判を守り、人々を陥れるために聖書の手紙と教義を語り、自らを称賛し、自分たちが困難に苦しみ、犠牲を払ったことを証言しましたが、主を称賛し、主の証言をすることは殆どありませんでした。ユダヤ教の指導者たちは神の御言葉に背き、罪の中に生き、そして神から侮られてしまったため、ユダヤ教全体が聖霊に見捨てられ、神の栄光が宿る宮は荒廃した強盗の巣と化したのです。

 「現在の教会も同じ状況で、牧師、長老、そして同労者たちは神を恐れる心をもっていなければ、主の教えに従ってもいません。彼らは兄弟姉妹たちにお互いを愛し、隣人を自分自身のように愛するよう教えますが、他の同労者を妬み、愛情も寛容な心も持たず、争い合って、お互いを陥れようと画策します。彼らは人々を騙し、自分たちを称賛し、自分たちが主のために働き、たくさん苦労したことを証言するために聖書の手紙と教義を語ります。彼らは自分たちが主に最も忠実であり、主は再臨される時に自分たちを天国に引き上げてくださると宣言します。このようにして、彼らは信者たちを自分たちの支配下に縛り付けるように陥れるのです。いのちの備えを受けずに彼らについて行く信者たちは、真理を追い求めるというそれまでの情熱を失い、消極的かつ弱気な状態で生きるようになります。彼らは肉の快楽を求めて世間のトレンドを追いかけるようになり、主の教えを捨て去り、集会に来ることすらなくなってしまいます。教会は聖霊の働きと神の祝福が宿らない宗教儀式の場と化してしまっているのです。これについて、主イエス様はこう仰りました:『また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。』(マタイによる福音書24:12)。従って、宗教界が聖霊の働きを失ってしまうのは、牧師と長老たちが主の道から逸脱するために、神から見捨てられてしまうということが主な原因なのです。

 「教会の荒廃を引き起こすもう1つの重要な原因として、聖霊の働きが先に移行して、神が新たな働きを開始されたということがあります。神の働きの段階に従わなければ、私たちは聖霊の働きがないまま闇に陥ってしまいます。次の聖句を一緒に読んでみましょう。アモス書4:7です:『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。』この聖句は雨が降る場合と降らない場合の2つのケースに触れています。雨が降る町とは聖霊の働きが宿る教会で、雨が降らない町とは聖霊の働きが宿っていない教会を意味しています。町に雨が降るかどうかは神の御手の中にあります。律法の時代後期、人々はもはや律法を守らず、皆が石で撃ち殺される、または天から降る炎に焼かれる危険にさらされていました。神は人間が律法によって死刑を宣告されるのを見ておられず、自ら肉となり、人間の中に入って来られ、主イエス様の名によって人類を贖う働きをされました。当時、ユダヤ教の指導者たちは主イエス様の働きを前向きに探求したり調査することはなく、むしろ一般の民を一緒に主イエス様の働きに反対し、批評し、非難するよう仕向け、主イエス様を十字架に釘付けにまでしたのです。彼らは神の新たな働きに従うことができず、聖霊の働きを失い、闇に落ちいり、最終的には神によって非難され、排除されました。当時、主の贖いの働き受けるために宮を出た人々は聖霊に備えられ、導かれ、そして主の御恵みと祝福の中で暮らしました。」

 教会が荒廃する原因について兄弟が語った時、荒廃した自分の教会のここ数年の様子が頭に浮かびました:兄弟姉妹たちの信仰は冷め、説教師は陳腐で分かり切ったことばかり説教し、同労者たちは喧嘩し合うといったありさまでした。私は自分の教会が主の祝福を失っていたことを確信しました。

 そして私はシアン兄弟にこう聞きました:「シアン兄弟、あなたの交流は聖書に基づいていて、事実に即しています。これで私は自分の教会が荒廃している理由が分かりました。1つは、牧師、長老、そして同労者たちが主の御言葉に従わず、それに背いているが故に神を怒らせてしまっているということ。もう1つは、私たちの教会が聖霊の働きを失い、私たちも神の足跡について行けていないということですね。このようなことを続けていたら、律法の時代後期に神の宮の中にいた人々のように、主から見捨てられてしまわないかと心配です。神に感謝します!シアン兄弟、教会の現状を変えるにはどうすれば良いでしょうか?何かいい方法はありますか?」

 シアン兄弟はこう言いました:「明らかに、教会には聖霊の働きが宿っていません。教会を蘇らせる唯一の手段は、急いで神の足跡を見つけることです。聖霊の働きが宿る場所には、神の祝福があります。神の足跡を追いかければ、信者たちは神の備えと支えを受けることができるでしょう。」

 ヤン兄弟は頷いて言いました:「私は神を信じています。私たちは神の御言葉の注ぎと御導きによって真理といのちを授かることができるよう、主の御言葉に従い、密接に神の足跡を辿るべきで、聖霊の働きに見捨てられて排除されてしまわないようにしなくてはいけません。主は戻ってこられると信者たちに約束されました。そして、今現在、主は既に再臨されていることを示すしるしが全て出ています。しかし、主がどこでそのお姿をお見せになり、働きをなさるかは分からないのです。だからこそ、神の足跡を探すことが絶対必要なのです。主イエス様も聖書の中でこう仰っておられます:『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。』」(ヨハネによる福音書10:27)。

 シアン兄弟は言いました:「その通りです。私たちは神の足跡を辿るべきです。しかし、これについて最も大切なことは何だと思いますか?少し前、私はインターネットでこの言葉を読みました:『神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。』この言葉は真の道を調べる方法についてとても明確に語っています。神は真理、道、そしていのちです。神の足跡を探すなら、神の御言葉を探さなくてはいけません。神の御言葉を見つけてのみ、私たちは神の働きに従うことができます。これこそが真の道を調べる唯一の方法なのです。」

 あの日、私はヤン兄弟とシアン兄弟との交流で多くを学びました。私は聖霊の働きを受ける方法を見つけました。私は今、彼らと一緒に真の道を求め、調べています。

 スングアン兄弟、聖霊の働きを探して神の足跡を辿ることは絶対に必要です。私たち自身が神の足跡に追いつき、そして神の足跡に従うよう兄弟姉妹たちを導いてこそ、私たちは神から見捨てられることなく聖霊の働きを受けることができ、私たちの教会も本当の意味で蘇ることができるのです。私は、これを渇望して求める心を持ってさえいれば、神は導いてくださると信じています。主イエス様はかつてこう仰りました:「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7).

 以上が私の交流です。あなたのお役に立つことを期待しています。何かご質問等ございましたら、また手紙を書いて相談してください。