「神の祝福」とは私たち神様を信じるすべての人が皆得たいものですが、なぜ私たちは主の祝福を得られないのか。私たちは聖書の中に記載されたノア、アブラハムなどが皆神様に祝福された人であることを知っています。それでは、私たちはどのように彼らの生活の中でのすべてを見習えば、主の祝福を得られるのでしょうか。
ノアとアブラハムが神様の祝福を得た重要点
私たちは神様が洪水で世界を滅ぼそうとしていた時、神様はノアを呼び、箱舟を作らせ、どのように作るのかもノアに教え、ノアは完全に神様に指示されたことを実行したことを知っています。洪水が来る時、ノアの家族八人が箱舟に入って生き残って、神様の祝福の中に生き、神様が彼らに与えられた恵みを享受しました。それから、アブラハムが百歳の時に、神様から一人の息子イサクを与えられて、そしてイサクが成長した時、神様がアブラハムに息子を燔祭として捧げるように求められ、彼は神様に釈明せずに無条件に従い、神様の命じられたことに従って心を尽くしてイサクを神様に捧げました。最終的に神様の祝福を得て、彼の子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようになりました。
それでは、ノアとアブラハムが神の祝福を得た重要点はどこか
神様は言われます。「ノアが神に指示されたことを実行したとき、ノアは神の意図を知らなかった。神が何を成し遂げたいのかをわかっていなかった。神はノアに命令を与え、すべきことを伝えただけで、あまり説明はしなかったが、ノアはとにかく実行した。ノアは神の意図を自分なりに理解しようとしたり、神を拒絶したり、疑いを抱いたりすることはなかった。彼は純粋でシンプルな心でただ従ったのである。神がノアにするよう導いたことをノアは全て行った。そして神の言葉に従順に聞き従うことはノアが事を行ううえでの信念だった。神に任されたことを、ノアはそのようにまっすぐに、シンプルに行った。彼の本質、すなわち彼の行動の本質は従順であり、先読みしたり、拒否したりせず、さらに自分の私的な利益や損得を考えなかったことだ。さらに言えば、神が洪水で世界を滅ぼすと言ったとき、ノアはそれがいつであるとか、その真意を問うといったことはせず、どのように世界を滅ぼすのかも聞かなかった。ノアはただ、神が命じたように行ったのである。箱舟を何でどのように造るのか、神が指示した通りにノアはそれを造り、しかも直ちにとりかかった。」
「神からすれば、その人が偉大な者であってもなくても、神を聞くことができ、神の命令と神の任務に従い、神の業、神の意志、神の計画に協力することで神の意志と計画が円滑に達成されるようにするならば、その行いは神に覚えてもらうに値し、また神の祝福を受けるに値するのである。神はそのような人々を大切にし、そして神は彼らの行動、そして神への愛と思いを尊いものとするのだ。それが神の姿勢である。ではなぜ、神はノアを祝福したのか。人の行動と従順を神はそのように扱うからである。」
「アブラハムが手を伸ばし、刃物を息子に振り下ろそうとしたとき、神はそれを見ていただろうか。もちろん見ていた。始めに神がアブラハムにイサクを捧げるように命じた時から、アブラハムが実際に息子を屠るために刃物を振り上げた瞬間までの全ての過程により、アブラハムの心が神に示された。そしてかつての神に対する愚かさ、無知、誤解とは無関係に、この時の神に対するアブラハムの心は誠実で正直であり、神から授かった息子イサクを本当に神にお返ししようとしていたのである。神はそこに自身が望んだアブラハムの真の従順を見た。」
この中から私たちが分かったのは、神の祝福を得る肝心なところは人が神様に従順であるかどうかです。ノアとアブラハムは皆神様に従順になり、神様の言葉を聞き、神様の旨を行う人であり、神様がどう言われても、たとえ彼たちが当時神様の意図を理解していなくても、彼らは単純で真心で神様を信じ、そして神様の言葉によって行動し、神様への少しの取引と要求もありませんでした。
なぜ私たちは神の祝福を得られないのか
では私たちのことを見てみましょう。私たちは主を信じているが、多くの混じりと取引があり、神様の委託が私たちに臨む時を振り返り、私たちはまずに考えるのは自分の利益で、自分の利益になる場合、受けます。利益にならない場合、受けたくなく、受けても取引や引き換えがあり、本当の従順ではなく、神様の心への思い遣りはなおさらなく、かえって、自分の代価や費やすことで神様の祝福を引き換えようとし、例えば、家庭の災害がないこと、事業が順調すること、天国に入る祝福を得ることなどです。そのため、私たちの行いはなかなか神様の称賛を得られないのです。
どのようにして神の祝福を得られるのか
神様の祝福の中に生きたいなら、私たちはノアが神様の委託に対する態度を見習うべき、つまり、神様に絶対に従順になることです。そのほかに、アブラハムが神様の試練と精錬に直面する時、彼の態度もだた神様の心を満足させ、真心でイサクを神様に捧げるだけで、ほかの考えや目的がなかったことは、私たちが見習うに値します。
実は、私たちは神様の祝福の中に生きることが難しいことではありません。神様が私たちへの要求も高くないです。つまり、委託が私たちに臨むにせよ、試みや試練が私たちに臨むにせよ、私たちは神様への理解、信頼、従順を持ち、神様を畏れ、悪を避けることができれば、私たちはノア、アブラハムのように祝福を得られます。まさに神様が言われた通りです。「神を畏れ悪を避ける人々、誠をもって神についていき、神にうかがい、神に忠実で神に従う人々は、神の祝福をしばしば受け取るのであり、神はたくさんの祝福を惜しみなくこれらの人々に与えるのである。さらに、人々が神から受け取る祝福は、しばしば人間の想像を超えるものであり、人間が自らの行いや自らが払った犠牲に対する代価として受け取れるものをはるかに超えている。」