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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

「出エジプト記」神はモーセに現れる

2020-03-19 15:52:05 | 賛美の心

 モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。

 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。

 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。あなたは行って、イスラエルの長老たちを集めて言いなさい、『あなたがたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主は、わたしに現れて言われました、「わたしはあなたがたを顧み、あなたがたがエジプトでされている事を確かに見た。それでわたしはあなたがたを、エジプトの悩みから導き出して、カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの地、乳と蜜の流れる地へ携え上ろうと決心した」と』。彼らはあなたの声に聞き従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行って言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしたちに現れられました。それで、わたしたちを、三日の道のりほど荒野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください』と。しかし、エジプトの王は強い手をもって迫らなければ、あなたがたを行かせないのをわたしは知っている。それで、わたしは手を伸べて、エジプトのうちに行おうとする、さまざまの不思議をもってエジプトを打とう。その後に彼はあなたがたを去らせるであろう。わたしはこの民にエジプトびとの好意を得させる。あなたがたは去るときに、むなし手で去ってはならない。女はみな、その隣の女と、家に宿っている女に、銀の飾り、金の飾り、また衣服を求めなさい。そしてこれらを、あなたがたのむすこ、娘に着けさせなさい。このようにエジプトびとのものを奪い取りなさい」。


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預言者ヨナ

2020-03-18 15:38:59 | 賛美の心

ヨナが主の命令に背いた
 主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。

 時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。そこで船長は来て、彼に言った、「あなたはどうして眠っているのか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、われわれを顧みて、助けてくださるだろう」。

 やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。そこで人々はヨナに言った、「この災がだれのせいで、われわれに臨んだのか、われわれに告げなさい。あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどこの民か」。ヨナは彼らに言った、「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。

 そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。

 人々は彼に言った、「われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか」。それは海がますます荒れてきたからである。ヨナは彼らに言った、「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」。しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。

 

ヨナは魚の腹の中に主に祈る
 ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。 主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。

ヨナがヤーウェを服従する
 時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。

 このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。

 神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

ヨナが不満になった
 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。

 そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。


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ヨナが魚に飲み込まれたことから神の性質を知る

2020-03-17 15:23:53 | 賛美の心

 ある日、私は聖書の写真を閲覧していた時、ヨナが海で大魚に飲み込まれる写真に惹かれました。そして私は聖書の中にあるヨナ書を開き、聖句にこう記述されているのを見ました、「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである』。しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。…やがて人々は互に言った、『この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう』。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。…そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。…主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた」ヨナ書 1:1-4,7,15,17。「ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、…主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した」ヨナ書 2:1,10。「そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった」(ヨナ書 3:3)。「ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、『四十日を経たらニネベは滅びる』と言った」(ヨナ書 3:4)。


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 これらの聖句を読んだ後、私はこう思いました:「どうしてヨナはヤーウェからの任務を拒否したのかしら?どうして彼は神の言うことを聞かなかったの?私のこの疑問にとても困惑しました。

 ある日の集会で、私はヨナがヤーウェ神からの任務を拒否した困惑について話しました。すると、ある兄弟がこう言って交流しました:「ヤーウェ神がヨナと話をして、彼に大きな町ニネべに行って神の御言葉を伝えるよう命じられた時、ヨナは二ネベの人々はヤーウェ神を礼拝しない、ヤーウェ神に抵抗までする異邦人だと思ったのでそこには行きたがりませんでした。神は直々に彼らを滅ぼすべきで、神の御言葉を伝える必要などはないと思っていたのです。こうして、ヨナはヤーウェ神の命令通りには行動しませんでした。すると、背を向けたせいでヨナに災いが下ったのです。ヨナはヤーウェ神の御言葉を2回目に聞いた時はそれに背こうとしませんでした。しかし、その時のヨナの姿勢は、神は間違いなく彼らを滅ぼされるからあまり喋る必要はない、というものでした。従って、ヨナは僅か1文しか伝えなかったのです。「四十日を経たらニネベは滅びる」ヨナが神の御言葉をいかにも簡略に伝えたことより、ヨナは二ネべの人々のいのちのために二ネべに行ったのではなく、むしろそれは形式的な理由であったことが分かります。もしヨナがイスラエルの人々に神の御言葉を伝えていたとしたら、彼は間違いなくそれについてもっと話していたでしょう。なぜなら、イスラエルの人々は神を信じており、神に選ばれた人々であったからです。しかし、彼は神の御言葉をこのような簡潔な文で二ネべの人々に伝えただけでした。ヨナの行動から、ヨナは神を恐れる心を持っていなかったことが分かります。彼は神の御旨に気を配らず、人間を救うことに対する神の御心を理解せず、神から託されたこともただ単に自分の我意を頼りに行っていたのです。神は怒りを発する決断をなさる時、それでも人々に悔い改める機会を与えてくださるということをヨナは知りませんでした。神は御自分で創造された人類をその御手で破壊することは耐えられないのです、そして神は人間が自分たちの堕落と抵抗を知る時にそれを悔い改めることができるようになることを望んでおられます。しかし、ヨナは神の御心を理解することも、神の御気遣いと御考えを把握することもできていませんでした。さらに、彼は、神の義なる性質には慈悲があることを知らなかったので、神の働きを限定してまでいました。そして、ヨナは庵を建てる場所を見つけ、神があの大きな町二ネべをどうやって滅ぼすかを見るためにその中で座っていました。ヨナはヤーウェ神が間違いなく二ネべを滅ぼすと思っていましたが、意外にも神は二ネべの人々による真の悔い改めにより彼らに対する姿勢を変え、彼らを滅ぼすことを思い返し、彼らに憐みと寛容を与えたのです。ヨナが神を恐れる心を持っていなかったこと、そして自分の観念と想像で神を限定していたことは明らかです。神を恐れる人間は、何かを理解できない時、または神の行動が自分の観念と一致しない時はこう考えます:「神が成されることは全てが義であり、神の行動には常に原則があります。私たち人間は愚かで無知であり、霊的領域を理解できません、そして私たち死を免れない者たちは神を知り得ません。」彼は神に対する観念や誤解を抱いていないので、神の各行動に対応する際には心の内に神に対する従順な姿勢を維持することができるのです。従って、彼は悪を遠ざけ、神を非難したり、神に抵抗することを避けるのです。

 兄弟の交流を聞いた後、私は突然明かりが見えました。ヨナが神の任務を拒否したのは神を恐れる心を持っていなかったからなのです。彼は神の働きを非難し、限定し、自分の観念と想像に基づいて神から託された任務を行っていたのです。彼は二ネべの人々は異邦人で、神の選ばれし人々であるイスラエルの人々はそうでないと思っていたのです。では、彼らに伝えることに何の意味があるのでしょう?神は直接彼らを滅ぼすべきです。従って、彼は神からの任務に背き、結果として魚に飲み込まれてしまい、3日3晩その腹の中で過ごすことになったのです。

 神からの任務に対するヨナの態度から神の私たちに対する寛容さが分かります。ヨナは神に反抗し、神からの任務に背きましたが、神はそれでも彼に悔い改める機会を御与えになりました。ヨナは大魚に飲み込まれましたが無傷でした。これより、神は邪悪なものを嫌われ、神に逆らい神の性質を害するものを罰せられるということが分かります。しかし、神は人々が悔い改め、変化を遂げると、御慈悲と寛容を差し伸べてくださります。神の性質は威厳と憤りを有するだけでなく、御慈悲と愛も有しているのです。

 ヨナの行いは私たちへの重要な警告です。これを通じて、私はこう理解しました:神が私たちのために何の働きをされ、神が私たちに何を要求されようとも、私たちは自分たちの想像によって神の働きを非難するべきではなく、むしろ神の前で神に従い、神の御心を求めて理解し、心の中で神に対する敬虔の念を持ち続けるべきなのです。こうすることでのみ、私たちは神の性質を害さなくて済むのです。諺にもあるとおり、「従順は祝福をもたらし、反抗は不幸をもたらす」ということです。この諺は正に真実なのであります。


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聖書の終わりの日のしるしに関する預言ーー主の再来を迎える道を見つける

2020-03-16 23:21:52 | 賛美の心

 今世界各地で地震、飢饉、疫病、洪水、干ばつなどの災害が絶え間なく頻発し、しかもますます深刻になり、聖書の中の主の再来の預言は既に実現され、主が戻られる日が既に到来しています。私たちは主の終わりの日の出現と働きをどのように尋ね求め、どのようにして主の再来を迎えることができますか。かつて主は明確に預言されました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)ここから、終わりの日に主が再来される時に、主に言葉を語られて人に戸を叩くことが分かります。それらの神様の声を聞いて主を迎える人は、災いの前に神様の前に携挙されて主と共に宴席に着くことができます。次の文章を閲読して、さらに多くの細かいところと実践する道を理解しましょう。

1、聖書の終わりの日のしるしに関する預言

マタイによる福音書24:3
 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。

マタイによる福音書24:7-8
 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。

マタイによる福音書24:37-39
 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。

ヨエル書2:30-31
 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。マタイによる福音書24:21
 わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。 主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。

ヨハネの黙示録6:12-13
 小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、 天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。

関連する真理:

 終わりの日が来て、世界中の国は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現し、人の世界は大惨事で、天は災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。「実践(2)」より

 あらゆる災害が次々に襲ってくるだろう。すべての国、すべての場所は災害を経験するだろう──疫病、飢饉、洪水、干ばつ、地震が至る所で発生する。これらの災害は一か所や二か所だけに起こるのではなく、一日や二日の間だけ起こるのでもなく、広大な領域にわたって広がり、次第に激しさを増していくだろう。この間、あらゆる種類の虫害による疫病が次々に発生し、残忍な現象があらゆる場所で起こるだろう。これはすべての国家、すべての民族に下すわたしの裁きである。「キリストの初めの言葉 ──諸教会への聖霊の言葉第六十五章」より

 すべての国や世界のいたる所で、地震、飢饉、疫病、あらゆる種類の災害が頻繁に発生する。わたしがすべての国や世界のいたる所でわたしの大いなる働きを為す時、これらの災害は、世界創造以来のどの時期よりもすさまじいものとなって起こるだろう。これがすべての民へのわたしの裁きの始まりである。しかしわたしの子らは安らかに休むことができる。あなた方の上にひとつの災害も降りかかることはなく、わたしはあなた方を守る(つまり、あなた方はその後、肉ではなく、体の中で生きるので、どんな災害の苦痛も受けない)。あなた方はただわたしと一緒に王として支配し、すべての国とすべての民を裁き、宇宙の隅々で永遠にわたしと素晴らしい祝福を楽しむだろう。これらの言葉はすべて成就され、間もなくあなたの目の前で達成されるだろう。わたしは一刻、一日も遅れることなく、驚くほど迅速に事を行う。心配したり心を騒がせたりしてはならない。わたしがあなたに与える祝福は、誰もあなたから奪うことのできないものだ――これがわたしの行政命令である。わたしの業の故に、すべての人々がわたしに従順になるであろう。彼らは歓呼し続けるだけでなく、さらに喜んで跳び上がり続けるだろう。キリストの初めの言葉 ──諸教会への聖霊の言葉第九十二章」より
災害が頻繁に発生している今日、私達はどのように主の再来を迎えるのか
災害が頻繁に発生している今日、私達はどのように主の再来を迎えるのか

2、どのようにして災いの前に携挙されて主と共に宴席に着くことができるか
 ルカによる福音書12:40
あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

ヨハネの黙示録3:20
 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

ヨハネの黙示録3:3
 もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。

ヨハネの黙示録16:15
 見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。

ヨハネの黙示録2:11
 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

ヨハネによる福音書10:27
 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。

マタイによる福音書7:7-8
 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

関連する真理:

 神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。「神の現れによる新時代の到来」より

 このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。「序文」より

 神を信じているのであれば、人間は神の歩調に遅れることなく、一歩一歩ついて行かなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきである。彼らだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の働きによって既に排除された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、各期間において、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような一つの時代のみに該当する真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きに遅れずついて行くことは決してできず、聖霊の働きを得ることは永遠にできないであろう。神がどのように働くかに関わらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、遅れずについて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊により排除されることなどあろうか。神が何を為すかに関わらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、何も疑わずに聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰されることなどあろうか。「神の働きと人間の実践」より


世界の終わりは近づいている--主の再来をどうお迎えすればよいか

2020-03-15 01:46:43 | 賛美の心

目次
主はどのように来られるか
● 再臨されたとき主はどのような働きをなさるのか
● 主の来臨をどうお迎えすればよいのか
2000年前、主の弟子たちはイエスに尋ねました。

「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」(マタイによる福音書 24:3)

主イエスは答えられました。

 「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書 24:6–8)

 今日、世界中でますます多くの災厄が発生しています。地震、伝染病の流行、飢饉、戦争、洪水が相次いで起こっています。2019年の暮れには、中国の武漢で新型コロナウィルスが発生しました。その感染率は驚異的です。わずか数ヶ月のうちに感染例が中国全土で出現し、中国はまたたく間に大混乱に陥りました。死亡者数が増えつづけるなか、多くの省、直轄市、村が次々と閉鎖されつつあります。このウィルスはさらに国境を越えて、世界の20ヶ国以上に広まっています。それに加えてオーストラリアでは、2019年の9月から2020年の1月にかけて森林火災のために、5900棟以上の建物が焼失し10億匹以上の動物の命が奪われました。2020年1月には同じオーストラリア大陸が百年に一度の集中豪雨に見舞われ、洪水が発生し多くの淡水生物が死にました。インドネシアでは同月の洪水のために、何万人という人々が家を失っています。さらにフィリピンで火山が噴火、アフリカで過去25年間で最悪のバッタが大量発生、中国の新疆でマグニチュード6.4の地震が発生……と、こうした例は枚挙に暇がありません。主の来臨を告げる聖書の預言が成就されているのです。こうしたことは主が戻られたことを明白に示しています。では私たちはなぜまだ主の到来をお迎えしていないのでしょうか? このようなことが続けば、私たちは大患難に陥るのではないでしょうか? また主の来臨をお迎えするために、私たちは一体何をすべきなのでしょうか?


主はどのように来られるか

多くの人が次のような聖書の言葉を読んでいます。

 「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。」(ヨハネの黙示録 1:7)

 「そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)

 そうした人々は主が雲に乗って来られると確信しています。それなのに私たちがこのような光景をまだ目にしていないのでなぜでしょう? これが主が来られる唯一の方法なのでしょうか? 実をいうと、私たちは主の来臨に関して大きなことを一つ見落としているのです。聖書には神が秘かに来られるという預言もあるのです。

 「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録 16:15)

 「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

 「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音書24:44)

 「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24–25)

 聖書にある「盗人のように」、「夜中に……呼ぶ声がした」という言葉は、終わりの日に再臨される主が、ひっそりと秘かに戻られることを示しています。では「人の子」は何を称しているのでしょうか? 「人の子」は間違いなく人から生まれます。母親と父親がいて肉と血から生まれるのです。たとえば主イエスです。イエスは人間の間で生活する普通の人間の姿で受肉されました。つまり「人の子」という言葉は受肉した神を称しているのです。霊は人の子とは呼ばれません。また聖書は次のようにも述べています。

「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」

 この一節は紛れもなく、主が戻られるときは、ひどい苦しみを受けその時代の人々に捨てられるであろうと述べています。神が人の子として受肉したときに限って捨てられるのは、肉となった神があまりにも平凡すぎて、人々が神であると知らないせいであることを、私たちはみな知っています。人々が神を普通の人間として扱うので、その結果神は厳しい苦難に遭うのです。ところが主が霊として人の前に現れれば、善人であろうと悪人であろうと、信者であろうと不信仰者、あるいはたとえ神に敵対する者であろうと、あらゆる者が神の前にひれ伏して崇めるでしょう--そうなれば誰が神を捨てられましょう? またどうして神が苦しみを受けることになりましょう? こうしたことは、終わりの日の主が受肉した人の子として人間の前に現れることを示しているのです。

再臨されたとき主はどのような働きをなさるのか
 ここまで読んで、困惑している兄弟姉妹もいるかもしれません。終わりの日に主が秘かに来られて人間の間で働きをなされるなら、雲に乗って来られるという預言はどのようにして成就されるのかと。神の働きには段階と計画があります。神はまず肉となって秘かに到来し、人を救う働きを実行されてから、雲に乗って人の前に公に現れられます。この疑問を理解するために、私たちは主が終わりの日に再臨するときになさる働きについてもっと知らなくてはなりません。主イエスはこう語られています。

 「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)

 「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:48)

「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」(ヨハネによる福音書 5:22)

聖書には次のようにも書かれています。

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

 こうした聖句は、終わりの日の神がもっばら御言葉を発して、神の家から始まる裁きの働きを行うために来られると告げています。その結果、終わりの日における神の裁きの働きを受け入れる者は主の到着をお迎えし、神の前に引き上げられることになるのです! 今日、受肉した全能神がこれまで発された何百万もの御言葉はすべて、『言葉は肉において現れる』という本に収録されています。この本の中で全能神の御言葉は、これまで私たちに理解できなかった多くの謎を明らかにしています。たとえば人類の発達の歴史、サタンがいかに人類を堕落させ、神がいかに人を救うのか、どのような者が神に愛され、どんな者が嫌われるのか、さまざまな分類の人々にどのような結果や終着点があるのか、といったことです。それだけでなく神は、裁きと刑罰の御言葉をも表して、私たちの堕落した性質を明らかにされています。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れる者はみな、堕落した性質を清められ変化を遂げるのです。そして大患難の前に勝利者とされ、最後には神の国に入り永遠の至福を享受することになるのです。神が肉となって秘かに働かれている時期にその声を聴こうとしない者や、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れない者、自らの観念や想像にもとづいて受肉した神を非難し冒涜する者は、正体を暴かれて神に淘汰されるでしょう。さらに小麦と毒麦、子羊と山羊、思慮深い処女と愚かな処女、よきしもべと悪しきしもべ、真理を愛する者と忌み嫌う者は、それぞれ真の姿を暴かれ種類に応じて分類されます。その後神は雲に乗って来臨し、地上のあらゆる国と諸民族の前に公然と現われて、良き者に報いを与え悪しき者を罰しはじめられます。かくして聖書の次の預言は成就されるのです。

 「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7)

 「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)

 その時神に敵対し、神を拒絶し、非難した者はみな、自らの悪行のために胸を打って後悔に苛まれることになります。神の働きから、神がいかに義であり全能で賢明であるかを、私たちは知るのです!

主の来臨をどうお迎えすればよいのか
 今日、受肉した全能神はすでに一団の人々を征服し救われています。またそうして勝利者を完全にされています。神の秘かな働きは間もなく終了し、その後ただちに地上にあらゆる種類の大患難が降りかかるでしょう。私たちの前には、主イエスの再来をどうお迎えし、終わりの日の神の働きをどう受け入れるべきなのかという、差し迫った課題があります。主イエスはおっしゃっています。

 「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書 10:27)

聖書には次のような預言もあります。

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:7)

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

さらに全能神はこう語られています。

「神の働きは強く打ち寄せる大波のようなものである。誰も神を引き留めることはできないし、誰も神の歩みを停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め、渇望する人々だけ神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然の罰を受ける。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)あなたは子羊の歩みと歩調を合わせたいですか? 主をお迎えしたいですか? 大患難の前に引き上げられたいと切に願いますか? 神の御言葉が私たちに告げているのは、主をお迎えするつもりがあるなら、重要なのは全能神によって表現された御言葉が真理かどうか、それが諸教会に向けた聖霊の御言葉なのかどうかを考え、それにより神の声に耳を傾ける方法を知るということです。へりくだった心をもって真理を探究し切望すれば、神はすぐにも主をお迎するよう私たちを導いてくださると私は信じます!

アン・ユエン、フィリピン