いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

いのちの豊かさ

2020-03-24 19:47:10 | 賛美の心

 全能者である神の終わりの日の働きを受け入れてからの年月は、赤い大きな竜の抑圧の下で、妻と私は共にこれを経験してきました。この期間中、私は信仰が弱くなったり、辛くなったり、涙を流したりもしましたが、この抑圧を経験したことでたくさんのことを学んできました。この辛い経験は、私に赤い大きな竜の反動主義的な邪悪な本性と醜い顔をはっきりと見せただけではなく、私自身の堕落した本質も認識させました。さらに、これにより、私は神の全能性と知恵も経験することができました。赤い大きな竜を引き立て役として使うことにより、神の実際の素晴らしさを真に経験し、認識しました。これにより、神に従っていくことに対する私の確信が一層強固なものになりました。

 神の終わりの日の働きを受け入れた後、神からの引き上げと祝福により、妻と私は自宅に仲間を迎え入れることにより本分を尽くしてきました。当時、私達とともに毎日数名の兄弟姉妹が暮らしており、そのメンバーは頻繁に入れ替わりました。そして、私達は、神の信者として地域では比較的有名でした。2003年の冬、赤い大きな竜の抑圧はより厳しくなってきました。ある日、私達のリーダーが次のように言いました。「警察があなた方に目を光らせています。あなた方はここにいてはなりません。荷物をまとめてここを出て、本分を尽くすべきです。」この突然の采配に直面し、私はショックを受けました。そして、次のように考えました。この瓦屋根の家は、私が一生懸命に働いて建てた家で、まだ1年もここに住んでいない。こんな風にこの家を出ていきたくない!あぁ、神よ。もう数年ここに住まわせてください。そしたら出ていきます。別の場所で暮らすのは、自宅で暮らすほど便利でも快適でもありません。しかし、赤い大きな竜の抑圧について思いを馳せた瞬間、この家を売却したら、本分を尽くすためにここを離れることを決意しました。私達の新築の家を見て回ると、悲しみと胸の疼きが押し寄せました。この家から離れなければならないのは本当に耐えられないことでした。この時点で家を売らなければならないのはとても不運だと感じました。肉の損得に頭が一杯で、決断しかねていた時、神の言葉が耳の中に響くのが聞こえました。「アブラハムはイサクを捧げた。あなたがたは、何を捧げたであろうか。ヨブは全てを捧げた。あなたがたは、何を捧げたであろうか。極めて多くの人々が、真の道を追求するために、いのちを賭け、首を差し出し、血を流してきた。あなたがたは、そうした代償を支払ったであろうか。それに比べ、あなたがたには、そうした大いなる恵みを授かる資格が無い。」(『言葉は肉において現れる』の「モアブの子孫を救うことの重要性」より)神の言葉は両刃の剣のように私の心臓の中心を貫きました。私は信じられないほど恥ずかしさを感じました。その通りでした!神の要件を満たすには、アブラハムは愛する者と別れ、一人息子を燔祭で神に捧げるという大きな痛みに進んで耐えました。サタンと神が賭けをした時、ヨブは財産と10人の子供を全て失っても、ヤーウェを讃え、賛美することができました。最期の時でさえ、友人や家族に見捨てられ、病に侵されるという試練に苦しむ中でも、自身の誕生日を呪い、神のせいにすることはありませんでした。彼は揺るぐことなく、断固とした神の証を立て、サタンは屈辱的な完敗を喫しました。また、いろいろな年齢の聖徒と預言者もおり、神の心を実行するため、若さや結婚を犠牲にした人もいれば、家族や親族、財産を諦めた人もいました。さらには、神の働きのために自らの命を犠牲にし、血を流した人さえいました。…しかし、私と言えばどうでしょう。何世代もの聖徒が経験したことのないような貴重な救いの恵みや、神から授けられたいのちに対する豊かな言葉を受けながら、神のために何を犠牲にしたというのでしょうか。私は神に何を提供してきたでしょう。教会は、赤い大きな竜の抑圧と追及のため、彼らの掌中に落ち、残酷な迫害に苦しまないよう、家を離れるよう命じました。これは、神の私達に対する偉大なる愛であり保護でした。それにもかかわらず、私は善悪の区別もつかず、神の真摯な意図にも無関心でした。私は自分の安全のことすら考えておらず、ひたすらに、瓦屋根の新築の家への憧れと肉の喜びについて考えていただけでした。私は、神の采配に従おうとしていませんでした。私は欲にまみれ、いのちよりも、金銭に目がくらんでいました!今日、私は、自分の安全のためであっても、自分の家を離れたくありませんでした。神への捧げ物として私の個人的な関心事に背を向けなければならないならば、神の働きのために私のいのちを犠牲にしたり、血を流したりしなければならないなら、自分の命と同じくらい金銭を愛する、心が狭く、自己中心的で卑しい私のような人間が、どうして神のためにこの犠牲を進んで払うことができるだろうか。その地点に到達するだいぶ前に逃げ出すのではないだろうか。私は、「私はペテロの足跡を辿り、神を愛する第一人者になる心づもりがあります。」「私は自分自身の個人的な利益や損得を考えずに、何でも犠牲し、何でも使い果たすことができます。」「私は神に満足していただきたいだけです。」などを偉そうによく話していた自分自身のことを思いました。しかし、現実の状況を目の当たりにし、自分の中のいかなる部分も、神に意識を集中していませんでした。私は自分自身に直接関係する利益のことのみを考え、肉の喜びのために、実に、神に交渉しようとしていたのです。そして、私は自問しました。「これこそが、神にお返ししなければならない愛ではないのか。」神は次のように言いました。「もしあなたが愛しているなら、あなたは喜んで捧げ、困難に耐え、わたしに味方するだろう。わたしのためにあなたの家族や、将来や、青春や、結婚などすべてを捨てるだろう。さもなければ、あなたの愛は全く愛ではなく、欺きで裏切りである!あなたの愛はどんな愛だろうか。それは真の愛だろうか。偽りの愛だろうか。あなたはどれだけ捨てただろうかどれだけ捧げてきたのか。わたしはあなたからどれだけ愛をもらっただろうか。あなたは知っているだろうか。あなたがたの心は悪と裏切りと欺きで満ちている。」(『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より)私は神の前で誓いを立てながら、それを守っていませんでした。これは神を騙し、神を欺こうとしているのではないでしょうか。こう考えた時点で、私は神の前にひれ伏し、祈らずにはいられませんでした。「あぁ、全能者である神よ。私は、かつて、いかなる苦難にも愚痴を言わず、何人でも兄弟姉妹を進んで引き受け、それは神への私の愛の表現の1つであると、常に考えていました。しかし、ようやく今となり、いわゆる私の愛は条件付きのものであり、選択的なものであったという事実の現れをはっきりと見ることができました。これは、全て渡しが欲していることを前提としたもので、それは、快適な環境でのみ存在していました。しかし、神が私に肉の苦難を耐え、私自身の関心事を妥協することを求めた時、私の『愛』はさっと消滅しました。このことから、私は実際には神を愛しておらず、真理に対する恩義に対して全く本分を尽くしておらず、神の愛に報いるのに出し渋りさえしており、その上、私が支払った少しばかりの金額を使って、素晴らしい祝福を受けるための交渉をしていました。私は本当に、完全な日和見主義者で、身勝手で、卑劣で心の狭い人間です。私は、神の前で生きるのに適しておらず、神が私の人生にもたらしてくださった全てを受け取るのに適してさえいません!あぁ、神よ。私はもう神を欺いたり、神に反抗したりして、神を傷付けたくありません。私は、自分の個人的な利益を脇に追いやり、神の調整や采配に従い、誓いを守りたいと思います。」

 その後、私はあの新築の家を売却するために全力を尽くし、別の土地で二間のアパートを購入しました。前の家とは比べ物になりませんが、電話と暖房設備があり、交通の便が良いものです。このアパートに大変満足しており、そこで、私達は兄弟姉妹を受け入れる本分を再開しました。あっという間に2004年の春になっており、共産党警察は、再び私達に疑いの目を向けるようになっていました彼らは2名のスパイを私達のところへ送り込みました。彼らは、占い師を装って情報を引き出そうとしました。神の啓示とリーダーシップにより、私達は彼らの計画を見破り、神の知恵に頼って、彼らを追い出しました。教会はそのことを知ると、私達の働きを中断させました。私達の環境を守るため、別の仕事を探すように命じました。その時以来、私達は兄弟姉妹とはほとんど連絡を取りませんでした。6ヶ月が経過し、地域の状況は一層厳しくなってきました。ある日、ユダが私達を売ったので、赤い大きな竜の掌中に落ちないようにできるだけ早く引っ越す必要があるいう通知を教会から受け取りました。神の家からのこの采配を目の当たりにし、この時、私は従うことを選択し、赤い大きな竜への憎しみが心の中で燃え上がりました。赤い大きな竜の「市民には宗教の自由があり、市民の正当な権利と関心は守られる」という宣伝文句を聞き、教会があちこちに建設されるのを見た昔のことを思い出しました。私はこれを心から喜び、素晴らしいと思いました。人々の心を掴んだと感じました。しかし、今日、現実に直面し、私はようやく本当にはっきりと、赤い大きな竜の醜い顔を見ました。その謀略を見破ることができました。彼らの宣伝文句や上辺の行動は全て嘘と偽りに過ぎず、全てプレゼンテーションだと知りました。これは全て、人を混乱させ、盲目にするための卑劣な手段であり、汚い手口でした。邪悪で冷酷、狡猾で詐欺的、対抗的で、神に対して反抗的、そして全く反動的なものでした。これは、人々を破滅させ、損害をもたらす悪魔だったのです!受肉した神は神の創造物である人類を救うために地上に降りてきました。これは正しく適切なことでした。これは、極めて喜びに満ちたものでした。しかし、赤い大きな竜は神が人々の中にいることを許さず、人々が神を賛美し、それぞれのいのちにおいて適切な道を歩むことを許しませんでした。それは、キリストを死に物狂いで狩るためにできることは全て行ない、神に選ばれし人々を残酷に迫害し、神の働きを邪魔し、破壊しようとしました。それは、神を追いやり、神に選ばれし人々を根絶し、神の終わりの日の働きを破壊しようとしました。これは、本当に完全に反動的で、天が容認し得ないことです!ちょうどその時、神の言葉が私の心に浮かびました。「宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。…なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神が自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)神の言葉を通して、私は赤い大きな竜の醜い顔をはっきりと見、神への抵抗、神への迫害、そして人々への損害と抑制をはっきりと理解することができました。いかに多くの兄弟姉妹が、抑圧と追及により、家に帰れずにおり、放浪者やホームレスとしての生活を余儀なくされているかを思いました。いかに多くの兄弟姉妹がその非道な拷問による破壊行為に苦しみ、いかに多くの兄弟姉妹が無実の罪で投獄され長く暗い日々を過ごし、神を信じ、本分を尽くしているというためだけに、その後、犬や豚でさえ住めないような独房の中で生きているかを思いました。また、いかに多くの兄弟姉妹が自由なく、全てを監視された状況で暮らしているかを思いました。彼らは本分を尽したり、教会で通常の暮らしをしたりすることさえできないでいます。今日、私達は神を信じ、仲間を迎え入れることは、私達が創造物として本分を尽くしているに過ぎませんでした。私達は責任を果たし、赤い大きな竜の法律や規則に違反したことは一切なかったにもかかわらず、私達は根拠のない非難や抑圧の対象になっていました。私達は、自分たちの本分を尽くすために、場所を変えていくことしかできませんでした。それにもかかわらず、警察は私達への追及を緩めず、私達を罠にかけ、迫害するための証拠を見つけることができると考え、何らかの情報を引き出すために占い師を装うことすらしました。赤い大きな竜は本当に計り知れないほどに邪悪で、不誠実で、卑劣で、悪意に満ちています!これを考え、私は一層強く義憤を感じ、赤い大きな竜に対して心の底からの憎しみで一杯になりました。神のお陰です!神の実際の働きと言葉が、赤い大きな竜の仮面を完全に引き剥がし、威厳の外観を纏った偽善の醜さを完全に露見させました。それまで盲目であった私の目がようやく開きました。私の霊が目覚め、赤い大きな竜は一般市民を騙すことによりその名を確立してきたという真実、そしてその欺瞞性と有害性という真実をはっきりと見ました。ですから、私は、これを断固として見捨て、拒否することに自信と決意を持ちました。何よりも、赤い大きな竜の卑劣な悪と裏暗い汚さと比べ、神がいかに義であり、神聖であり、光であり、善に満ちた存在であるかを一層深く理解しました。私は神の偉大なる救いと私達、堕落した人類への愛を見ました。環境がどれほど過酷であろうと、赤い大きな竜からの抵抗や抑圧がどのようなものであろうと、神は私達を救うことを諦めませんでした。神は神が行わなければならない働きを遂行するためにあらゆる苦しみにまだ耐えています。この汚らわしく卑劣な世界で、私達は神にのみ頼ることができます。神は私達が持つ最も偉大な愛、最も大きな救いであり、それにより、私達は、一生をかけて真理を追求し、キリストに従おうという強い願望と渇望を持ちます。私と分かち合うために、この悲惨な状況の中で私に正しい判断力と洞察が得られるよう、このようなご馳走を並べてくださった神に感謝します。これから、赤い大きな竜との関係を完全に断つことを、私のいのちにかけて誓います。私は彼らの仇敵となります。どのような迫害や追及が起きようとも、私は彼らの専制政治に怯えることはありません。私はしっかりと神のみに従い、神の導きに頼り、その闇の力の抑圧を突破し、神の救いという愛に報いるために、本分を尽くしていきます。


多くの人は「天が落ちると誰もが死ぬ」と言うが、災いが降りかかっても神を信じる人は本当に死から守られるのか。

2020-03-23 21:19:47 | 賛美の心

神の御言葉による答え:
 神はこの世界を創造し、この人類を創造した。また、それだけではなく、神は古代ギリシア文化ならびに人類文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の支配と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画と切っても切れない関係にある。あなたが真のクリスチャンならば、あらゆる国または民族の興亡は、神の意図によって起こるということを必ず信じるであろう。神のみが国または民族の運命を知っており、神のみがこの人類の進むべき道を制御する。人類が良い運命を望むなら、また国家が良い運命を願うなら、人間はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人間の運命と終着点は災難となることは避けられない。

 ノアの箱舟の時代を振り返って見よう。人類はひどく堕落し、神の祝福から迷い出てしまっていた。もはや神の配慮は得られず、神の約束を失ってしまっていた。闇の中を、神の光のないまま生きていた。そうして彼らの性質は放縦となり、おぞましい堕落に身を任せた。このような人々はもはや神の約束を受けることはできなかった。彼らは、神の顔を仰ぎ見るにも、神の声を聞くことにも相応しくなかった。何故なら彼らは神を見捨て、神から与えられたものすべてを放棄し、神の教えを忘れてしまったからである。彼らの心は神から離れて行くばかりで、それにつれてあらゆる理性と人間性を失って堕落し、さらに邪悪なものとなった。こうして彼らは死に接近し、神の怒りと罰を受けた。ノアだけが神を礼拝し、悪を避けたので、神の声を聞くことができ、神の指示を聞くことができた。ノアは神の言葉の指示に従って箱舟を建て、あらゆる種類の生物を集めた。こうして一旦全ての準備が整うと、神は世界に破滅をもたらした。ノアとその家族7人だけが破滅を逃れて生き残ったが、それはノアがヤーウェを礼拝し、悪を避けたからであった。

「神は全人類の運命を支配する」より

 災いがやって来ると、わたしに反抗する者たちすべてに飢饉や疫病が降りかかり、彼らは涙を流す。わたしに従う者として、長年あらゆる種類の悪事を犯してきた者たちは罪を免れることはできない。彼らも代々、ほとんど目にしたことのない災いのただ中で、絶えず恐怖と不安を抱き生きるだろう。そして、わたし以外の誰にも忠実に従ってこなかった人たちは、すべてわたしの力を喜び、拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのない喜びの中で生活する。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからだ。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと同じ心を持った人たちの集まりが存在することを望んできた。そして、わたしは同じ心を持っていない人たちを決して忘れることはなく、それら悪事を働く人たちに報いをもたらし、それを味わう機会だけを待ち望みながら、彼らを心の中で憎んできた。遂にその日を迎え、もはや待つ必要はなくなった!

 わたしの最後の仕事は人を懲罰することだけではなく、人の終着点を決めることでもある。さらに、わたしが行ってきたすべてのことに対して、あらゆる人たちから承認を受けることである。わたしはすべての人にわたしが行ってきたことは正しく、わたしの性質の表現であることを知って欲しいと思っている。人類を生み出したのは人ではなく、とりわけ大自然の行いではない。それどころか、すべてのものの中で、あらゆる生けるものを育むのはわたしである。わたしの存在なしには、人類は滅び、災害に苦しむだけであろう。だれも麗しい太陽や月、緑にあふれる世界を再び見ることはできないだろう。人類は極寒の夜や、避けられない死の影の谷に遭遇するだけだろう。わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。わたしがいなくては、人類はすぐに停滞してしまう。わたしがいなくては、たとえだれもわたしに注意していなくても、人類は大災害に苦しみ、あらゆる種類の霊に踏みつけられるだろう。わたしは、人が善行で報いてくれることだけを望みながら、誰もできない働きをしてきた。ほとんどの人たちはわたしに報いてくれないが、わたしはこの世での旅を終え、次にやって来る仕事を始める。わたしが長年人々の間で続けてきた旅は実を結び、わたしはそれを非常に喜ばしく思っているからである。わたしは人の数は気にせず、むしろ善行を気づかっている。いずれにしても、わたしはあなたがたが自分たちの終着点に備えて、十分な善行をするよう望んでいる。それから、わたしは満足する。さもなければ、あなたがたの誰も災いを免れないだろう。災いはわたしがもたらし、もちろんわたしが采配を振るものである。もしあなたがたがわたしの前で良い働きができないなら、災いの苦しみから免れることはないだろう。

「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」より

 あらゆる災いが次々と発生し、全ての国民と全ての場所に、らい病やききん、洪水、ひでりや地震などの災いが降りかかる。こうした災いは1カ所ないし2カ所で発生するだけで無く、また1日または2日以内でもなく、一層広い地域へと拡大し、災いはますます激しくなるであろう。この期間においては、ありとあらゆる昆虫が次々と異常に大発生し、随所で食人風習が行われる。それが全国民と全ての人々に対する私の裁きである。私の子たちよ、あなたがたはそうした災いの苦痛や苦難を受けてはならない。私は、あなたがたが早く成熟して、できるだけ早く私の肩の重荷を負うことを願う。なぜ、あなたがたには私の旨が分からないのだろうか。今後の業は、ますます骨の折れるものとなるであろう。あなたがたは、手がふさがっている私に、独りで苦心して業を行わせるほど無情であろうか。もっと分かりやすく言うと、自らのいのちが成熟する者は非難し、苦痛や苦難を受けないであろう。自らのいのちが未成熟な者は、苦痛や苦難を受ける必要がある。私の言葉は分かりやすいであろう。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

 わたしは世界全体を滅ぼしたり、人類すべてを滅ぼしたりはしないことを知るべきである。わたしはその人類の残りの三分の一、わたしを愛し、完全にわたしに征服された人類の三分の一を保ち、イスラエル人が律法の下でそうであったように、この人類の三分の一を、多くの羊と家畜、そして土地のすべての実りにより育み、豊かにし繁栄させる。この人類はわたしのもとに永遠にとどまる。ただし、この人々は今日のどうしようもなく汚れた人類ではなく、わたしに得られたすべての人の集まりである。この人類はサタンにより傷つけられ、混乱させられ、包囲されることはない。彼らはわたしがサタンに勝利した後も地上に存在する唯一の人類となる。これは今日わたしに征服され、わたしの約束を得た人々である。そのため、終わりの日に征服された人間は、永遠に続くわたしの恵みも受ける。これはサタンに対するわたしの勝利の唯一の証拠であり、わたしのサタンとの戦いの唯一の戦利品である。これらの戦利品はサタンの支配下からわたしにより救われたのであり、わたしの六千年にわたる経営(救いの)計画の唯一の結晶であり実りである。この人々はあらゆる国家と教派から、また全宇宙のあらゆる場所と国から来る。彼らはさまざまな人種、さまざまな言語、習慣、肌の色を持ち、地球のあらゆる国家と教派、世界のあらゆる場所に広がっている。彼らは、完全な人類、サタンの力が及ばない人間の集合を形成するために集まって来る。人々の内でわたしに救われ征服されていない者は、海の深みに音もなく沈み、永遠にわたしの焼き尽くす火により焼かれる。わたしは、エジプトで初子と牛、羊の初子を滅ぼし、子羊の肉を食べて子羊の血を飲み、かもいに子羊の血を塗ったイスラエル人だけを残したのとまったく同じように、この古い、きわめて汚れた人々を滅ぼす。わたしに征服され、わたしの家族である人々はまた、子羊であるわたしの肉を食べ、子羊であるわたしの血を飲み、わたしに贖われ、わたしを礼拝する人々でもあるのではないか。このような人々は常にわたしの栄光に伴われていたのではないのか。子羊であるわたしの肉を持たぬ者はすでに、海の深みに音もなく沈んだのではないか。

「肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない」より


血の月が現れ、災害が頻発し、 主は既に新しい名前に変えて戻られたのか

2020-03-22 16:30:00 | 賛美の心

 二千年前、主イエスは預言されました。「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり……」(ヨハネの黙示録6:12)「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書24:7–8)主はご自身が再来する時の兆しは、さまざまな災害が頻発し、また血の月の兆しが現れると明確に私たちに教えました。しかし、血の月は既に2011年と2013年に現れました。2014年4月から2015年9月までに連続の四つの血の月が現れ、太陽が暗くなってめったにない天象が伴っていました。近年、各国の情勢が混乱の中にあり、時々テロ攻撃が発生し、干ばつ、地震、洪水、火災も発生し続けています。しかも、2020年の災害はさらに大きく、新型コロナウイルス肺炎は世界中に広がり、至るところが不安に襲われています。オーストラリアの大火災は何ヶ月も燃え続け、数億匹の動物が死亡し、全世界に深刻な汚染をもたらしました。米国でインフルエンザの猛威が続き、致命的なインフルエンザウイルスが全米国で蔓延しています。カナダのニューファンドランド・ラブラドール州では前例のない暴風雪に見舞われ、都市全体が雪に埋められました。東アフリカも25年以来最も深刻な蝗害に遭遇し、数千万人が食糧危機に直面しています。プエルトリコでは102年以来最も強い地震に遭遇しました。フィリピンのマニラは火山噴火に遭遇し、巨大な火山灰が全都市を覆い、地震も起こりました。また北アメリカのカリブ諸島で7.7震度の地震が起こるなど、災害が頻発し、四つの血の月が現れ、主の再来の預言が既に実現されたことを示し、多くの主を信じる人々は皆今は終わりの日であり、主イエスが再来される時であると感じています。

 現在多くの人は皆主イエスが戻られて、新しい名前に変え、新しい働きをさなると証ししていますが、ある兄弟姉妹は聖書に書かれている「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)によって、主イエスの御名は永遠に変わらず、主イエスだけが救い主であり、主イエスの御名によって救われ、ほかの新しい名前を受け入れるのは主イエスを裏切ることになると思っています。このような考えはいったい正しいでしょうか。次に一緒に神様の名前についての真理を交流しましょう。

神様の名前は変わるのか
 私たちは神様の名前はイエスと呼ばれ、永遠に変わらないと思っていますが、事実は本当にこのようですか。神様の名前は決して変わらないのですか。一緒に二節の聖句を見てみましょう。聖書にはこう書かれています。「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。」(イザヤ書43:11)「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」(出エジプト記3:15)

 聖書の記載から分かるのは、律法の時代の神様はヤーウェと呼ばれ、ヤーウェ以外に救い主がいなく、ヤーウェの名前は永遠に続くのです。しかし、恵みの時代になると、なぜ人々は主イエスを救い主として受け入れたのですか。なぜまた主イエスの御名を守るのですか。しかも、聖書には「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)と書かれています。もし、私たちの思う通りに神様の名前が変わらないなら、神様の名前はなぜヤーウェからイエスに変わったのですか。「ヤーウェ」と「イエス」この二つの名前はいったいどれが神様の唯一の名前でしょうか。

 実は、「世々」とは神様がその時代での名前が永遠に変わらなく、つまりその時代で神様の働きが終了しない限り、私たちは神様のその時代の名前を守るべき、こうしてこそ神様の称賛を得られるのです。しかし、神様が新しい時代の働きをなさる時、私たちは神様の新しい名前を受け入れるべきです。こうしてこそ子羊の足跡に従い、聖霊の働きを得られるのです。律法の時代で神様がヤーウェという名前を取って、その時代の人々は「ヤーウェ」という名前を守り続け、永遠に変えられません。神様が受肉して「イエス」という名前で贖いの働きをなさる時、律法の時代の働きが完了し、もし人はヤーウェの名前を固執し、主イエスの名前を受け入れないなら、聖霊の働きに捨てられ、排除され、暗闇に落ちるのです。ペテロ、ヨハネなどの弟子たちのように主イエスの新しい名前を受け入れるだけ、聖霊の働きを得られ、主の救いを得られるのです。ここから分かるのは、神様の名前は決して変わらないのではなく、神様が新しい時代の働きによって変わりますが、神様の名前がどう変わっても、依然として同じ神様であり、ただ呼び名が異なるのです。しかも、聖書には「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)と書かれているのをどう理解しますか。実は、神様の本質、神様の性質が永遠に変わらないと指しているのです。神様の名前が永遠に変わらないのではありません。一段落の言葉ははっきりと説明しています。「神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。神の働きは常に同じだと言うのなら、神はその六千年の経営(救いの)計画を終えることはできるであろうか。あなたは神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代まで連れてくることができたであろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜであろうか。……『神は不変である』という言葉は神が本来持っているもの、そして神の在り方に関してである。いずれにせよ、六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するように単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはいられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても働くことができ、これはいかに神の働きが常に前進しているかという象徴である。」(『神の働きのビジョン(3)』より)ここから分かるのは、神様の本質、神様の性質は決して変わらないが、神様の名前が変わるのです。つまり神様が違う時代でなさった異なる働き、異なる名前を取り、神様の名前は「ヤーウェ」と呼ばれても、「イエス」と呼ばれても、神様の本質が変わらず、いつでも一人の神様が働きをなさるのです。もし、主が再来されて新しい名前に変え、私たちは受け入れるなら、これは主イエスを裏切ることではなく、子羊の足跡に従うのです。当時ユダヤ教のパリサイ人は、神様の名前が時代によって変わるのを知らなかったため、彼らはメシアだけが彼らの神様であり、彼らの救い主であると思い、結局、神様の名前を「イエス」に変えて、贖いの働きをなさって来られる時、彼らは気が狂って主イエスを罪に定め、主イエスに抵抗し、最終的に、主イエスを十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯してしまい、神様の懲罰を受けたのです。私たちはこのことを今後の戒めとすべきです。自分の観念と想像によって神様の名前が永遠に変わらないと決めつけることができず、さらに終わりの日の神様の名前はまた主イエスと呼ばれると言うこともできず、さもないと神様を決めつけることになるのです。

神様が違う時代で異なる名前を取る意義
 神様はなぜ違う時代で異なる名前を取るのですか。神様が異なる名前を取る意義は何でしょうか。一緒に一段落の言葉を見てみましょう。「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。」(『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より)この段落の言葉は神様が各時代で異なる名前を取る意義を教えてくださり、神様が律法の時代でヤーウェと呼ばれ、神様が律法の時代で行われた働きを表し、神様が律法の時代で発表された威厳、怒り、呪い、憐れみの性質を表しています。ヤーウェ神は律法と戒めを発布され、人々に罪と何か、地上でどのように生きていき神様を礼拝するか、律法と戒めを守る人が神様の祝福を得られ、律法に背く人は神様に呪われ、懲罰されるのを分からせました。したがって、律法の下でのイスラエル人は皆律法を守り、ヤーウェの名を聖いものとし、何千年ものあいだヤーウェ神の導きの下で生活していました。律法の時代の末期になって、人類の堕落はますます深くなり、律法や戒めを守れず、捧げるものもなく、律法違反によって死刑を宣告される危険な状態にありました。神様は人類を救うために、恵みの時代を開き、イエスという名前を取って、人類を贖う働きをなさいました。言い換えれば、「イエス」という名前は神様が恵みの時代でなさった働きを表し、神様が恵みの時代で発表された憐れみ、慈しみの性質を表し、主イエスが人に憐れみを与えられ、人に悔い改めの道を賜り、最後に人類を贖うために十字架に釘付けにされ、人類はもはや律法によって罪に定めることがなくなり、神様の前に来て祈り、主の恵みと祝福を得られるようになりました。ここから分かるのは、各時代で神様が固有の名前があるが、どの名前も神様の全体を表すことができず、そのため、神様の働きの新しい段階はそれぞれの時代の意義を反映する特定の名前を取って、神様のその時代での働き及び発表された性質を表すのです。同時に、私たちは、神様は常に新しく、決して古くならない神様であり、神様が新しい時代の働きを開く時、再び古い名前を使わず、私たちはただ神様の新しい時代での名前を受け入れてこそ、聖霊の働きを得られ、神様の称賛を得られることが分かりました。

神様の終わりの日の新しい名前を通して主の再来を迎える
 それでは、主が再来される時に新しい名前に変えるのですか。実は、聖書はずっと前に、私たちに主が再来される時に新しい名前があると教えてくださいました。例えば、「利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録3:12)「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである。」(ヨハネの黙示録1:8)「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。』」(ヨハネの黙示録19:6)「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』。」(ヨハネの黙示録4:8)「そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、『今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。』」(ヨハネの黙示録11:16-17)聖書に神様の新しい名前について言及されていることから、私たちは主が再来される時に必ずイエスと呼ばないことを確定できます。しかも、ここには多くの箇所に神様の名前は「全能者」と呼ばれることに言及し、このいくつかの聖句以外に、ほかの聖句にも記載されています。例えば、「ヨハネの黙示録」の15章3節、16章7節、14節、21章22節などです。これらの聖句には「全能者」と言及しています。これらの聖句に基づき、私たちに分かるのは、主が戻られて新しい働きをなさる時に、主の名前は「全能者」に変わることです。しかも神様は「全能者」という名前を用いて新しい時代を開き、恵みの時代を終わらせ、人々に神様のすべての性質を認識させ、皆「全能者」を大いなる名前と崇めるのです。私たちは神様の終わりの日の新しい名前を受け入れるのは、主イエスの再来を迎えていることです。

 今「東方閃電」の人が主イエスが既に戻られ、全能神と呼ばれることを証ししています。「全能神」という名前はまさにヨハネの黙示録の預言の成就です。しかも、彼らは全能神が既に多くの真理を語り、一段階の人を裁き清める働きをなさり、人々をそれぞれの種類に応じて分類され、毒麦と麦を分けられ、神様の言葉の裁きを受け入れ、清められる人は災いの前に、神様に勝利者に完全にされて神様の国に入り、神様の言葉の裁きを拒絶する人は災いの中に落ちるのです。全能神がなさった言葉の裁きの働きはまさに聖書の預言の成就です。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)「収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう。」(マタイによる福音書13:30)聖書の預言の成就から分かるのは、おそらく「東方閃電」は主イエスの再来であり、皆さんが謙虚に尋ね求め、主の再来を迎える機会を逃さないように望みます。


自分の霊的背丈がはっきり見えた

2020-03-21 16:48:35 | 賛美の心

丁香 中国山東省滕州市

 ある時参加した教会のリーダーミーティングで、新たに選出された教会のリーダーの1人が次のように言いました。「私には十分な霊的背丈がありません。この本分を果たすのに、私は適任ではないと感じています。あまりにも多くのことにプレッシャーを感じ、ここ数日は眠れていません…」この頃、私は神様を求める中で重荷を感じていたので、彼女に話しかけました。「すべての仕事は神様によるものです。人間はほんの少しばかり協力するに過ぎません。私たちが重荷を感じるならば、もっと頻繁に神様の前に出て、神様に頼ることで、神様の全能さや知恵を知ることができるでしょう。私たちの仕事で重荷を感じるのは良いことです。けれど重荷が苦悩となるならば、これは障害となり、ネガティブな気持ちを招き、神様を誤解することにさえつながります。」神様のお導きにより、私は自分の伝えたことが特に彼女に光を与えたと感じました。この姉妹も、彼女の心に神様の居場所がいない状態になっていたこと、そして神様に頼るのではなく、自力で行おうとしていたことに気が付き、霊的に成長する道を見つけました。この時、真理のこの側面に対する現実を私が把握していることを証明し、姉妹の問題を解決できたと考え、非常に嬉しくなりました。

 2ヶ月後、教会は私を異動させ、資料の編集にあたらせました。その仕事に携わるようになった当初、私はそれに関係する原則を理解しておらず、編集しなければならない資料を見るたび、消極的になって葛藤を覚えずにはいられませんでした。何も理解していないのに、この本分を尽くす責任だけでなく、これら資料の問題点を明らかにする任務さえ与えられたのです。私がこなせる以上の仕事でした。私は大きなプレッシャーを感じ、気持ちを落ち着かせることができませんでした。また、神様にどう頼れば良いかも分からないでいました。あまりにも不安が大きくなり、三日三晩眠れませんでした。このような状況の中で、とても当惑してしまいました。あの新任の教会リーダーの問題を解決した時、私は真理のこの側面を完全に理解したと感じていました。しかし、自分が同じような問題に直面した時、このような経験の対処方法が分からないのはなぜでしょうか。私は混乱した気持ちと困惑を抱えながら神様の前に出ました。


 その後、「働きと入ること(2)」の中で次のような神様の言葉を見つけました:「人間が働きを行い、話をするとき、あるいは霊的日課として祈る時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし、実際は、人間が理解したことは単に聖霊の啓きに過ぎず(必然的にそれは人間の協力に関連している)人間の真の背丈ではない。人間が一定期間の経験において真の困難に数多く遭遇した後、人間の真の背丈はこのような状況において明らかにされる。…こうした経験を何周期か経た後になって初めて、霊において目覚めている人の多くが、それが従前における自分の現実ではなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間がその光を受けただけであることに気付く。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著なもので、物事がどう生じるかとか、それらがどこに向かうかを説明することはない。すなわち、神は人間の困難をその啓示の一環とせず、むしろ直接的に真理を啓示する。いのちに入ることにおいて困難に遭遇すると、人間は聖霊の啓きを採り入れ、それが人間の実際の経験となる。」(『言葉は肉において現れる』)この一節を熟考しているうちに、次のことを理解しました。姉妹が問題を解決するお手伝いをした時に私が理解した真理は、神様の光によるものでした。この時、私が神様と協力したために、聖霊の啓示を受け取ったのです。しかし、それは私の本当の霊的背丈ではなく、真理のその側面を把握していたことを証明したわけでもありませんでした。あの時、聖霊が真理を理解するよう私を啓いてくださったのは、それが私の仕事に必要だったからです。そして私が協力することにより、神様は私の仕事での問題や困難を解決するのを助けてくれました。しかし、この点に関して実際に自分で経験するまでは、私の霊的背丈は極めて小さいものでした。ですから、霊的成長において困難に遭遇した時は、聖霊の啓示を受け入れることによってのみ、真理が自分のいのちとなるのです。

 神様の言葉による啓示と導きにより、私は心を落ち着かせ、神様に畏敬の念を抱き、頼りました。そして、資料の編集に関わる原則を慎重に比較検討していくと、私は気付かないうちに神様の啓示と導きを受け取り、資料の中にある問題を徐々に見つけられるようになり、資料を修正する中で考えがずっと明確になってきました。さらに、消極的な気持ちや誤解から段々と自分を解放することができました。

 神様に感謝します。この経験を通して、私は自分の霊的背丈をはっきりと認識し、自分の理解が正しい道から外れていたのを修正することができました。このことにより、聖霊が啓示した真理を理解していることは、真理のこの側面の現実を把握していることを意味するものではないと認識できました。これからは、今以上に聖霊の啓示を実生活に活かし、実践し、成長し、これらの真理が、本当の意味で私のいのちの現実になるようにしていきたいと思います。


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苦難を経験するのは、美しく咲くためである

2020-03-20 16:05:39 | 賛美の心

 果てしのない砂漠で、エメという名の花は咲いています。どの花も赤、黄、白、藍の四色があります。この花のために、砂漠の景色が美しくなりました。しかし、エメが美しく咲くまでにどのくらいの苦難を経験したかを知る人は少ないです。

 一般的に、幅広い根系を持つ植物だけが甚だしく水に欠けている砂漠でよりよく生存することができます。ところが、エメは一つの根しかありません。十分な水分と養分を取るためには、エメは絶えず根を土壌の深い所に下させるしかありません。それには、長い過程が必要です。この長い過程が終わるまでに、少なくとも五年の時間がかかります。この期間に、エメは孤独、寂しさと烈日、狂風……に耐えなければなりません。エメはいつも激しく揺れ、体じゅうが傷だらけになりました。しかし、あるうららかな日で、それは静かに咲いて、花としての使命を果たし、自分のあるべき価値を実現しました。

 安逸な生活の中では、強い命が容易に生まれません。苦難の背後には、往々にして神の御心が隠されています。

 

 箴言第17章3節でこう書かれています。「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」。

 モーセは自分一人で荒野に入りました。一般の人の考えている、生存できない環境の中で、モーセは神に依り頼んで、四十年生活しました。苦しい生活のゆえに、彼は何事にも神に依り頼むことを学びました。そのため、神に対する彼の信仰はますます大きくなりました。荒野から出てきて神の委託を受けた後、彼は目の前に海があり、エジプトの軍隊が後ろから追ってくるという危険な状況に直面しても、全然恐れませんでした。彼は神の導きに依り頼んでイスラエルの民をエジプトから導き出し、神の委託を遂行しました。

 今あなたが苦境にあるなら、不平を言ってはならず、悲しみ憂えてはならず、また逃避してはなりません。なぜなら、苦境を経験する過程はまさに、わたしたちが命のために養分を取る過程です。それは、砂漠で常に暴風と砂あらしがあっても、命の強い花が依然として咲くのと同じです。生活の中でわたしたちがどんな圧力、悩み、苦境に直面しても、その中に神の許しと御心があることを信じるべきです。神は、わたしたちが逆境の中で神に祈り、依り頼むことを学ぶことを望んでおられます。神の導きに従い、神の言葉を実行するなら、わたしたちは砂漠の花のように苦境を乗り越えることができ、しかも神はモーセを導くのと同じように、わたしたちを導いてくださいます。こうして、わたしたちは苦難の中で成長し、ついにはわたしたちの人性が成熟し、わたしたちの命が強くなります。いつか、わたしたちが神のみわざを証しし、神の救いに報いることができる日がきっと来ます。その日になったら、わたしたちの命のあるべき価値が実現し、被造物として果たすべき本分も果たされました。