goo blog サービス終了のお知らせ 

いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

神の御言葉は本当に聖書以外には存在しないのでしょうか(I)

2020-02-09 09:53:57 | 賛美の心

教会は荒廃し、私は主の再臨を予期しました
 私は16歳の時、主の信仰を始めました。当時、私は教会に足を運ぶ度に心がとても穏やかになりました。特に、神を称賛する讃美歌を耳にした時は喜びを感じ、主の愛情にしばしば感動させられていました。これ故に、私は両親からどのように妨げされても教会に通い続けたのです。聖書を読んでいると、神は人類を救うためにたくさんの働きをなされ、更に、神は私たちを罪から贖うために、自ら十字架に釘付けにされて罪の捧げものになられたということを、私は少しずつ理解していきました。そして、主イエス様は終わりの日に再臨されて私たちを天国に引き上げてくださるとお約束されたのです。従って、私の信仰はさらに厚くなり、私は神に必ずついて行こうと決心しました。

 私は大人になった後、熱意をもって真理を追い求め、積極的に教会の事務業務を担い、さまざまな教会の活動をまとめ、積極的に兄弟姉妹たちに仕えました。私は毎日仕事を終えて、夜になると教会に行き、しばらく聖書を読んでから家に帰っていました。なぜなら、私は聖書のみが私の生活の備えであり、真理の全てが聖書に書かれており、そして、その御言葉は私の足元のランプであり、私の道を照らす光であると、固く信じていたからです。これ故に、私は聖書を読み、祈り、仕えるということを貫き、心の中ではとても平安で豊かな気持ちがしていました。

 知らぬうちに、教会の状態は日に日に悪化していきました。兄弟姉妹の多くは消極的になり、薄弱していき、集会に参加しなくなる人たちまでいました。牧師たちも毎回聖書の節を文字通りの意味で繰り返し宣教しているだけでした。さらに、彼らは兄弟姉妹たちの抱える困難を解決することもできませんでした。また、私は備えを得ることができず、魂が干からびてしまい、主の御前で感じる喜びと平安も感じなくなりました。次第に、主を礼拝するための集会も単なる儀式と化してしまいました。当時、私は頻繁に主に祈り、信仰と力を与えてくださるよう請いました。しかし、私はどのように祈りを捧げても、以前のように主を切望し、探求する気力を奮い起こすことはできませんでした。私は主が早く来てくださり、主がおられないこの悲観的で意思薄弱な生活から私が抜け出せるようにしてくださることを、ただ期待するだけでした。

自分の観念に固執した私は終わりの日の全能神の働きを拒否してしまいました
 2017年6月、私と友人は用事があって外に出かけた時、主のある信者と出会いました。共通の話題を持っていた私たちはとてもいい会話ができました。教会の荒廃について話し合った時、彼はこう言いました、「それは神が既に恵みの時代の教会を去っておられるからですよ。今は全能神として受肉されています。全能神は人間の中にお戻りになり、真理を語られ、人類を裁き清める終わりの日の働きをされており、聖霊の働きも全てこの段階の働きに移行しているんですよ。律法の時代末期に主イエス様が新たな働きをされたのと同じです。聖霊は神殿を去り、神殿は荒廃しました。当時、主イエス様に従った者たちだけが聖霊の働きを受けることができました。今も同様に、私たちは終わりの日の全能神の働きについてのみ聖霊の働きを受けて、いのちの備えを得ることができるのです。反対に、終わりの日の全能神の働きを拒否する者たちは闇に沈んで行くのです。これは聖書に書かれたこの預言を正確に成就しています、『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。』」 (アモス書 4:7)。彼の言葉は全て聖書の内容に沿っており、私の心は即座に啓発された気分になりました。私は絶えず切望し、心底待ちわびていた主が既にお戻りになっておられるとは思ってもいませんでした。私は興奮が込み上げてくるのを感じ、全能神の働きが何を意味しているのかを彼に聞きたくなりました。その時、彼はカバンからある書籍を取り出して、私にそれを手渡しました。彼はその書籍に書かれた御言葉は神が終わりに日に語られた真理だと言いました。そして、それらは私の混乱を全て解消してくださったのです。彼は全能神の働きを調査することを私たちに勧めました。

 私は『小羊が開いた巻物』と題された書籍を手にしました。私は思わず驚いて、心の中でこう思いました。「こんな書籍は見たことがないわ。ヨハネの黙示録には終わりの日にある巻き物が開かれるという預言がされているけれど、この書籍に書かれた言葉が神の御言葉だなんてことがあり得るのかしら?神の御言葉は聖書にしか記録されていないのに、聖書以外に神の御言葉を記録したものが存在し得るの?主の御言葉は全て聖書の中にあって、聖書から逸脱している、またはその範囲を超えているものは主の道から外れていて、異端であると、牧師たちはよく口にしているのに。」その時、私は、終わりの日にはありとあらゆる形の異端が生まれ、それらから自分たちを守る最適な方法は他の宣教に目をやらず、耳を傾けず、それと接触しないことだと牧師たちがいつも言っていたのを突然思い出しました。こう考えた私は無意識のうちに心の中で葛藤し、この兄弟を警戒して、これ以上彼の言うことを聞きたくなくなってしまったのです。しかし、私の友人は彼の話しと証言はとても良いと思い、彼からもらった書籍を読むことにした上に、全能神教会に行って調査する気にまでなっていました。私は彼女の反応を見て驚き、こう思いました:「どうしてそんな簡単に彼に同意できるの?聖書以外には神の御言葉は存在しないということを忘れてしまったのかしら?」私は彼女が調査するのを止めようとしました。しかし、失敗に終わったどころか、彼女は私に調査するよう説得しようとしたのです。彼女は20年以上も主を信仰してきて、聖書をよく理解し、信仰において自分自身の考えを持った上で調査することを決意したんだと私は考え、もうそれ以上は何も言いませんでした。結局、誰にでも選択の自由があるのです。

 それ以降、私の友人は終わりの日の全能神の働きを調査し始めました。時に、彼女は私にあの書籍から得た光について話し、その書籍を読むよう勧めてきました。しかし、私は、神の御言葉は聖書の中にあり、それ以外に神の御言葉は存在しないと牧師たちが何度も口にしていたことを思い出したとたんに、「もう勧めてこないでください。あなたはあなたの全能神を信仰して、私は私の主イエス様を信仰します」、と頑なに彼女に言っていました。このように、私は頑固に自分の態度を変えず、依然として主の道を支持していると勘違いしていたのです。

自らを解き放し、虚心に探求しました
 この後すぐのある日、私は以前一緒に働いていた同僚とバスの中で偶然出会いました。私たちは良い友人でした。彼女は私を見たとたん、興奮してこう言ったのです、「いい知らせがあるのよ!聖霊の働きが宿った教会を見つけたの。そこの宣教は素晴らしいのよ。彼らの説教を聞いたら、長年信仰しながら抱いていた困惑が解決して、たくさんの真理と奥義を理解することができたの。あなたに時間のある時があれば、私たちの教会に連れていってあげるわ。」彼女の言葉を聞いた私はそれを軽く受け止めてこう考えました。「今ほとんどの教会は同じ状況にあるというのに。牧師たちは宣教することが何もないし、信者も魂が薄弱になっているような状態よ。その教会が素晴らしいと言っても、一体どれだけ素晴らしいと言うのかしら?」しかし、エネルギーと活気であふれそうになっている彼女を見ていると、彼女がどの教会に行っているのかを知りたくならずにはいられませんでした。私は自宅に戻った後も、これについてじっくりと考えました。私は彼女の信仰は私のとは確実に違うと思いました。そして、私はどの教会に行っているのかと聞かずにはいられなくなって彼女にメッセージを送ると、彼女はこう返事したのです、「全能神教会ですよ。」私はびっくりして、こう思いました:「全能神教会には本当に真理があるということなの?どうして私の友達はこんなに大勢が全能神を信仰しているのかしら?これは神が私に終わりの日の全能神の働きを調査するように促しているってことなの?私が固持している考えは間違っているの?一体何が起こっているのかしら?」そしてすぐに、私は主に祈りを捧げ、主の応答を待ちました。

 その後、私の友人はまた全能神教会の話をしてくれました。当時彼女は全能神教会の御言葉を読んで、教会が荒廃する根源、偽羊飼いとは何か、宗教団体の詐欺師とは何か、終わりの日の全能神の働きがどのようにしてヨハネの黙示録に書かれた預言を成就させ、成し遂げるのか等、真理の奥義を幾つか理解することができたと言いました。私たちは終わりの日の神の働きを体験し、神の御言葉による裁きと刑罰を受け入れてのみ、自分たちの堕落した性質から少しずつ解放され、心から神を恐れ、神に従う人となり、そうすることが神とご対面して、神の御約束を受ける資格を得る唯一の方法だとも彼女は言ったのです。彼女の話を聞いた後、私はそれは筋が通っていると考えた上に、全能神を信仰するようになってから沢山の真理を理解できるようになった彼女を羨ましく思いました。なので、私は全能神教会を調査することにしたのです。

地上でより偉大なのは神と聖書のどちらでしょう
 その翌日、私の友人は私と交流するために全能神教会の兄弟姉妹を招待してくれました。私たちが顔を合わせた後、チェン兄弟は、「何でも困惑していることがあれば話してください。一緒に探求して交流し合いましょう」、と言ってくれました。

 私は言いました、「兄弟、私は聖書に書かれているもの以外に神の御言葉は存在しない、そして神の御言葉は聖書にのみあると思っています。聖書に反する、もしくはその範囲を超えるものは全て異端です。しかし、どうしてあなたはこの書籍に書かれた言葉が神の御言葉だと言うのですか?」

 チェン兄弟は辛抱強く私の言い分を聞いてから笑顔でこう言いました、「姉妹、2つ質問をさせてください。神と聖書、どちらが先に来たと思いますか?それと、神と聖書はどちらの方が偉大だと思いますか?」私はこの質問を聞いてとても不思議で奇抜だと感じました。なぜなら、私はこれまでの信仰の中で、牧師や長老がこんな質問をするのを聞いたことがなかったからです。

 私は思わず、「もちろん、神が先で、神の方が偉大です」、と言いました。

 チェン兄弟はこう言いました、「その通りです。神の御言葉と働きが先で、それから聖書です。聖書に記録されているのは単にかつて神が仰せられた御言葉と神がかつてなされた働きなのです。しかし、私たちは、聖書を神より偉大なものとしてとらえ、神の働きがその範囲を超えることを認めず、神の御言葉はその全てが聖書の中に記されていて、その範囲を超えるものはいずれも異端だと考えているのです。実は、こういった観点は間違っています。主イエス様が働きをしに来られた時も同じでした。主は人々に説教を宣べ伝えられ、彼らが各々の罪を告白して悔い改めることができるようにされ、人々に自分を愛するように他人を愛し、敵を愛し、他人を何度でも許すよう教えられ、そして安息日に人々を癒されました。こういった主イエス様の御言葉と働きは旧約聖書には記されておらず、それらは「目には目を, 歯には歯を」、「罪を犯したら神に罪の捧げものをしなければならない」、そして 「安息日に働いてはならない」 という人類に課された神の律法と戒めに則したものではありませんでした。当時の人々の目には主イエス様の働きも聖書の範囲を超えるものとして映りました。でも、主イエス様の働きが異端であったなどと言えるでしょうか?もちろん、それは不当です。当時、ユダヤ教のパリサイ人たちは主イエス様の御言葉と働きが旧約聖書にあるものでないとみなし、全力で主に抵抗し、主を非難し、最後には主を十字架に釘付けにしてしまいました。実は、神は至高の神であり、神の働きは常に新しいもので、決して古くありません。神は決して聖書の内容に沿って、また聖書の内容を参照にしながら働きをされることはなく、信者たちを導く道を聖書の中で探すなどということはなおさらされません。むしろ、神は新たな働きをされ、人間に聖書を超えた新たな道をお与えくださります。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのです。神は間違いなく聖書を超えて、神御自身のご計画とその時に人類が必要とするものに基づいて新たな働きをする権利をお持ちです。私たちが自分たちの観念と想像に従って神の働きと御言葉を聖書に制限して構わないはずがありません。聖書に記されている以外の御言葉と働きを神が仰せられたり、実行されることは決してないなど、私たちが言えるはずがないのです。」続く…


人生の意味ー命をお金と引き換えにする人生に別れを告げる

2020-02-08 17:05:11 | 賛美の心

 「お金のために生き、お金のために死に、一生のあいだお金を追い求める。お金のために負け、お金のためにだまされ、お金のために生き、そして死ぬ」。この言葉は、今の時代に多くの人が一生涯、追い求めているものであり、この記事の筆者もその例外ではありません。かつて彼は、自分の命をお金と引き換えにし、お金で命を買い戻し、大きな痛みの只中に生きていました。そんな彼が神を信じ始め、神の言葉を読むことよって初めて人生の真の意味を理解するようになり、お金と引き換えの人生に背を向けて新しい人生を始めることができるようになったのです。

寄稿家:赵真(米国)

 近頃広まっている二つのフレーズを最近ネット上で見かけました。「お金のために生き、お金のために死に、一生のあいだお金を追い求める。お金のために負け、お金のためにだまされ、お金のために生き、そして死ぬ」と「何においてもお金を稼げるかを考え、札束を分厚くしよう。」今日のお金中心の社会では、多くの紙幣を持つことが皆の目標になっています。そして「お金は全てに勝る」「地獄の沙汰も金次第」「金なしでは何もできない」という考え方は強まり、人生を導く道しるべになっています。私たちはこういった格言を疑わず、それを見放すこともありません。そしてもちろん、私も例外ではありませんでした。

命をお金に換えていた私の以前の人生
 私が19歳の頃、熱意に満ちていたことをぼんやりと覚えています。なるべく手早くたくさんお金を稼ぐため、電気設備チームでの実習期間中は技術を習得しようと必死に勉強しました。自分の家族ができると、さらにエネルギーのすべてを仕事に注ぎ込み、毎月、全実習生のうちで最高額の賃金を家に持ち帰っていました。後に、1日400元の賃金を稼ぐため、昼も夜も働くようになりました。夜中に電話を受けることもしばしばで、暖まってきたばかりのベッドを抜け、出かけたものです。私は日本で働いていた時の悲しい体験を忘れたことはありません。私は、休日も休憩時間もとらず、最低でも1日12時間働いていました。とても厳しく、大きなプレッシャーを伴う仕事で、その結果私は心疾患を発症し、髪もほとんど抜け落ちてしまいました。それでもなお、私はこういった苦労に耐える覚悟でした。お金を稼ぐためです。ぜんまい仕掛けの機械のように、私はお金儲けの最前線で死に物ぐるいになって働き続けました。2年後、もっとお金を稼ぐために、米国へ行きました。数年間、さまざまな雑役を引き受けたりレストランの料理人になったりして必死に働きました。私が経験した辛苦すべてを事細かくお話する必要はありません。でも、自分が手に入れた札束が分厚くなっていくのを見ると、そのお金を稼ぐのに費やした厳しい労働のことは一切忘れていました。

 その後、長期間にわたって度を越えた働き方をしてきたために私の体は危険信号を発しました。重度の胃腸障害、頸椎症、腰椎椎間板ヘルニアおよび肩関節の関節炎を発症したのです。胃が痛くなり始めると、体中に冷汗が流れ、完全な無気力状態になりました。頸椎症が再発すると、脳に十分な血液が行き渡らず、しばしば気分が悪くなったりめまいを感じたりしました。そのためしょっちゅう病院に駆け込まなければなりませんでした。私の疲労困憊した体と稼いだドル紙幣とは等価になり、突如、私はとても悲しい気持ちになりました。10年を超える厳しい労働の中で、ひたすら働くことだけを求めて全く人生を生きておらず、財布には分厚い札束を貯めこんだものの、健康を損ねてしまったのです。私は今まで何のためにあがいてきたのでしょうか?命をお金に換えることに人生の半分を無駄にし、それからまた命を買い戻すためにお金を使っていたのです。一体それだけの価値があったのでしょうか?

 不意に過去を振り返ってみて、それまで道中の風景を楽しむ時間もなく、私の半生は静かにすり抜けていったように感じました。お金のために労働に費やした日々を意識して数えてみるうちに、私の心は無力感でいっぱいになりました。人間の生涯とは、自らを消費し尽くす機械のようなものでしかないのか。お金を稼ぐために生き、お金を稼ぐために死んでいくものなのか?なぜ人生はこれほど苦しみに満ちているのだろうか?

人生が苦しみに満ちている理由
 ある日、幸いにも私は神の言葉を読み、探し求めていた答えを見つけました。

 神は言われます。「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。…サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。…サタンはあらゆる時にあらゆる場所で人間を堕落させます。サタンは人間がこの堕落に対して防御することを不可能にし、それに対して人間を無力にさせます。うっかりしていたり、自分に何が起きているかを認識していない状況において、サタンはその思想、観点、サタンから来る邪悪な物事をあなたに受け入れさせます。人はそれらをすっかり受け入れ、それに苦情を言うこともありません。それらを宝のように大切に抱えて、それらが自分を操り、もてあそぶままにします。このようにしてサタンによる人間の堕落はますます深まるのです。」

 神の言葉によって、「お金は全てに勝る」「地獄の沙汰も金次第」「金なしでは何もできない」といった思想や見解はサタンから来ていることを理解しました。サタンはそういった格言で私たちをだまし縛りつけ、お金を持つとはすべてを手に入れることである、お金を持つとは他人から尊敬され賞賛されることである、お金を持つとは素晴らしい華やかな人生を送ることである、そしてこのようなことが価値と意味のある人生である、と考えるように仕向けます。このようなばかげたサタンの思想が私たちのいのちになり、私たちは最後には富を得るためならどのような対価もいとわないようになってしまいます。このようなサタンの思想や見解に自分がいかに支配されてきたかを振り返ると、私はお金を稼ぐために昼も夜も必死に働き、不規則な時間に食べたり飲んだりし、夜に安らかに眠ることはできず、体質はどんどん衰えていったのに、気にも留めていなかったのです。後にはお金が命と考えて、家族を残して日本と米国へ行き、さらにお金を稼ぐために何年間も働きました。確かに私はさらにお金を稼ぎ出していましたが、心疾患、胃腸障害、頸椎症などの病気に次々と悩まされ、ついにはあまりに両腕が衰えて真っ直ぐ伸ばすこともできないほどになって、ひどい痛みを抱え生活していました。神の言葉を通して初めて、すべては自分がサタンの悪い思想と考えにだまされてきたせいであることが分かるようになりました。私は不本意にもお金への欲求に制御され、操られ、ついにはお金の奴隷、いけにえになり下がっていたのです。このことに気づいてからは、私は神の前に戻るべきであり、これ以上サタンの思想と見解によって生きてはならない、そして二度とお金の奴隷になってはならないと思いました。その後、私は普通の勤務時間を守り、終わりのない残業をやめました。

陥りがちな罠にはまって初めて本当の人生の意味を知った
 とはいえ、私はあまりに深くサタンに惑わされてきたため、お金、名誉、富は既に私の心に根を張り巡らしており、それらを取り除くのは並大抵のことではないと思われました。会社を15年運営してきた私の上司が500万ドルを稼ぎ出し、最近豪華な別荘を買ったと言うのを耳にし、私の心はその後しばらくざわついていました。確かに人生は生きるためにあるとは思いました。本当に何も成し遂げずに自分の人生を生きていていいのだろうか?自分のレストランを開くのが私の夢であり、自分のレストランが持てたら二度と誰からも見くびられることはないはずです。気づいた時には、私はまたお金を稼ぐために必死に働き、命をお金と引き換えにする以前と同じ人生を再び生きるようになっていました。教会の集会に出席する代わりに、私は職場で残業をしました。ほどなくして、私は流行性の風邪にやられ、心疾患は再び悪化し、それはひどい苦痛をともないました。

 ちょうど私が痛みに苦しんでいたとき、神は再び救いの手を差し伸べてくださいました。教会の姉妹の1人が映画『福と禍』を送ってくれたのです。主人公がお金を追い求めて働くために日本へ行き、自らの健康を顧みず、ついには全くお金を稼げず、入院しなければならなくなるのを見た私はため息をつき、これはまさに私の人生そのものではないか、と思いました。この映画の中の神の言葉の一節がちょうど次のように言っています。「人間は、金銭と名声を求めて人生を過ごし、そうしたわらしべを握りしめて、あたかもそれがあれば生き長らえて死から免れられるかのように、それが唯一の助けであると考える。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独であり、誰にも頼ることができず絶望的であるかを知る。人間は、いのちを金銭や名声で買うことが出来ないこと、いかに裕福であっても、いかに高い地位であっても、死に対して人間は皆同様に貧しく些細な存在であることを知る。人間は、金銭で命を買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭も名声も、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを知る。」

 主人公が得た理解は、まるでそれが私自身の個人的な体験であるかのようで、深く心を動かされました。「サタンがお金と名誉で人を支配しています。でもサタンの策略が見破れず、お金と名誉で人間を毒するということもわかりません。このため、私達は渦巻きから抜け出せないのです。サタンに惑わされ、害を与えられているのに。」そのとおりです。サタンの狡猾な悪だくみと卑劣な手段を完全には見抜けないので、不本意にもサタンに弄ばれ、傷つけられてしまうしかないのだ、と私は思いました。全身全霊でお金を追い求め、もっと稼ぐために自分の健康を喜んで犠牲にし、サタンにだまされて費やした自分の半生を思い出しました。働き盛りにあったはずの私は、絶えず病気をし、いつも薬を飲んでひどい痛みの中に生きていたのです。これは何を意味していたのでしょうか?お金と命、どちらのほうが大切でしょうか?私は突然、8年間米国で働き、末期がんの診断を受けた旧友のことを思い出しました。彼はその後、わずか3か月で亡くなりました。米国で10年以上のあいだ働き、大金を稼いだ別の人も不治の病にかかり、家族みんなを残して亡くなりました。このような恐ろしい話はひとつの事実を告げています。地位がどれほど高かろうと、どれだけ裕福だろうと、自らの命を延ばす機会を買うことはできませんし、死ぬときには何も持って行けないのです。主イエスが仰っていたとおりです。「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」サタンの狡猾な悪だくみを見抜けず、以前からの間違った道を進み続け、お金を追い求め、さらに分厚い札束を手に入れることを望み、自分の命をお金と引き換えにしていたなら、私を待っているのは悲しい結末だけです。

過去に別れを告げ、新しいいのちを迎え入れる

 私はさらに神の言葉を読みました。「こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法があります。それは、自分の以前の生活様式や人生の目標と訣別し、以前の生活様式、人生観、追求、願望、理想を概括し、分析し、それを神の旨や人間への要求と比較し、それらのいずれかが、神の旨や要求と一致しているか、人生の正しい価値をもたらすか、一層深い真理の理解へと導くか、人間性と人間らしさとともに生きることを可能にするかを確認することです。…このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による采配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」

 神の言葉は実践の方法をはっきりと示してくれました。サタンの邪悪な誘惑を避け、命とお金と引き換えにする古い人生に別れを告げたいなら、誤ったことを人生の目標に掲げるのをやめ、二度とサタンの悪い考えによって生きることのないようにしなければなりませんでした。そして1人の人間として行動をし、神の言葉の光の道を先へ歩んでいかなくてはいけません。個人的な体験を通し、かつての私の人生の見方、お金が人生そのものだという考えが、実際には私を弄び、傷つけるサタンから来ていたのだと気づきました。その価値観はサタンが私にかけた鎖であり、瞬く間に消え得る無価値なものでした。私に残された時間の中で、二度とサタンの狡猾な悪だくみに陥ってはいけないと思いました。私は神によって創られたのであり、神を崇拝し、神に従い、神の権威と導きの下で生きていくべきです。それは唯一、本物の未来と真の価値を伴う人生なのです。

 それから間もなくして、ある日、私の上司の夫人から電話があり、レストランへ行って手伝うようにと言われました。しかし、これまでお金のために徹底して働いてきた時期について思いめぐらし、彼女の依頼を断りました。私は残りの人生の新しい計画を既に持っていたからです。それはもっと休息をとり、健康に気を配り、集会や本分を尽くすことに決して遅れないという前提の下、自分の最善を尽くせる仕事を見つけることでした。これから残りの人生、私の主権者は神です!

 筆者は次のことを共有したいと願っています。

 私はお金の追求をやめ、神の救いを得ることを喜びます。

 人生に残された時間を大切にし、進んで神に従い、神を礼拝します。


もっと知る

 更に多くの内容を読むには、東方閃電のウェブサイトへどうぞ

 

地震後の熟考:人生において、追い求めることに価値と意味があるものとは

2020-02-07 16:49:32 | 賛美の心

 2018年6月18日の朝8時ごろ、私はいつも通りに作業場で仕事を始めようとしていました。その瞬間、いきなり地鳴りがして、地面が揺れ始め、床が陥没し始めたのです。作業場のドアがバタンと閉まるのを見た瞬間、私たちは地震が起きていることに気が付き、同僚と私は慌てて建物から避難しようとしました。やっとの思いで空地に駆けだすと、私は恐怖感に満ちた恐ろしい現状をまざまざと目の当たりにしたのです。日本は地震の多い国だと知っていましたが、まさか実際に体験することになるとは思っていなかったのです。その瞬間、私は頭が真っ白になり、足に力が入りませんでした。神に助けを求め続ける以外、私はどうしていいのか分かりませんでした。私は祈りを通じて、徐々に落ち着いていきました。

 僅か数分の間に、100人以上の人たちが空き地に集まり、全員が狼狽している様子でした。無表情のまま怖気づいて動けなくなっている人がいたり、震えが止まらない人がいたり、そして他にはビクビクしながらまだお互いにしがみついている人たちもいました。すると私の女性の同僚が心配した口調でこう言いました。「大変だわ、数日前に買ったばかりのネックレスがあるのよ。それに、家には他にもたくさんジュエリーがあるのに、家が倒壊したら全部台無しだわ!」その隣に立っていた人も不安そうに言いました。「私のゴールドとシルバーのジュエリーも家に置いてきてるわ、一緒に持って来なかったのよ。」その時、それまで泣いていた年配の女性が誇らしげにこう言いました。「私は以前地震に遭って、死ぬほど怖い思いをしたわ。それ以降はパスポートに銀行カード、それと貴重品はすべて毎日持ち歩くことにしてるのよ。」彼女に目をやってみると、彼女は指輪を5つとブレスレットを2つつけていました。彼女がこう話している間に他の同僚たち数人が怖さのあまり泣き始めてしまいました。

 私は同僚たちの振る舞いを見た時、突然とても悲しくなり、泣きたくなりましたが涙は出ませんでした。私たちは哀れな人生を送っていると私は感じました。私たちは頻繁に運命は自分で切り開くものだと言いますが、災害が起る時は一体誰が次の瞬間起こり得ることをコントロールできるというのでしょう?しかし、これを疑問に思っている人がいるようには見えませんでした。地震で起きたパニックの中ですら、人々はお金とジュエリーのことを気にしていたのです。その瞬間、私は神の御言葉のこの節を思い出しました。「人間は神の指揮と統治を認めないので、常に反抗的な姿勢で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを望み、現状と運命を変えようとする。⋯⋯」私たちは神の主権を理解していないがために、人々の運命は神の御手の中にあることを理解しておらず、それ故に私たちは誰もが自分たちの運命を変えたがり、お金を稼ぐために多忙に働き、理想の生活を追い求めているということに私は気が付きました。実際、私たちは小さくて、些細な個人の集まりに過ぎないのです。自分の運命をコントロールして、それを変えることなど一体誰ができるというのでしょう。私はこう考えた時、神の御声を聞いて、神の主権を認識する機会を与えてくださった神の慈愛に強く感謝しました。こうして、私は心の中で静かに神に呼び掛け、私をお導きくださるように、そして地震に立ち向かう勇気を与えてくださるようにと神に請いました。少しずつ、私の恐怖感は失せて行き、私は神が私の最強の盾であることを知ったのです。

 私たちは30分ほど外にいましたが、余震が収まったことを確認すると、上司は私たちを職場に戻らせました。私たちが作業場に戻った時、同僚たちは依然として怯えたままで、全く仕事をする気になれなかったので、休暇を願い出て帰宅して行きました。最終的に、残ったのは私と2人のベトナム人だけでした。

 あの夜、余震は4回起りましたが、神を頼りにしていた私は怖くありませんでした。翌日、職場に行くと、私は大きな荷物を運びながら出勤する同僚を数人見かけました。地震が来たらいつでも逃げられるようにと言って、食堂に食事をしに行く時ですら荷物を持って行く人がいました。その後の数日間、余震は続き、同僚たちは地震の話しばかりしていました。各々の国行きの航空券の金額を毎日チェックして、地震がまた発生する時に備えて航空券を買う準備をしている人たちもいました。私もある程度はこの状況から影響を受け、自分の安全を心配してはいましたが、神の御言葉を読むと、落ち着いて対応することができました。

 私は神のこの御言葉を思い出しました。「人間は一生涯のエネルギーを運命に立ち向かうことに費やし、家族を養おうと必至で働き、富と地位の間を行き来して、全ての時間を費やす。人間が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、人間はこれらを人生において最も価値の高いものとみなす。あらゆる人々が自分の運命に不満であるが、人間は何故生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、という最も喫緊に検討して理解する必要のある問題を心の中で常に先送りする。人々は、その生涯が何年ものであり、いであるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、富と名声で人間の老化を止めることが出来ず、金銭で心の空虚感を埋められないことを悟るまで、そして出生、老化、疾病、死の法則の例外となる者や、待ち受ける運命から逃れられる者はいないことを悟るまで、一生涯を通して、せわしなく富と名声を追い求めるのみである。⋯⋯財産のある者は金が自分の頼みの綱である、生涯の資産であると考える。立派な地位があれば、人間はそれにしがみついて、そのために命を賭ける。この世を去ろうとする時になって初めて、人間は自分が生涯をかけて追究してきた物事が、空を渡り行く雲のようなずれも掴み続けることも、死後の世界に持っていくことも出来ないものであり、自分を死から免れさせる力が無いものであり、この世を去る時に持参することも、慰めを与えることも出来ないものであり、また特にそうした物事のなかに、死を超越する救済を与えることの出来るものは無いということに気付く。」 そうです、「お金は全てに勝る」「地獄の沙汰も金次第」といった考えによって、私たちはお金を唯一頼りがいのあるものとみなし、お金を持つことは全てを手にすることであると考えてしまうため、お金のために悪戦苦闘しながら人生を過ごしますが、私たちのいのちが何処から来るのか、また私たちが存在する真の価値と意味については全く考えていないのです。お金は本当に私たちの拠り所になり得るのでしょうか?私は同僚たちのこと、そしてその1人1人が沢山のお金を貯金していたことを考えましたが、地震が起きた時、そのお金は彼らに安全で安心な生活をもたらしてくれたでしょうか?地震は彼らを恐怖感と不安で満たしたのです。私は2008年に中国の汶川県で発生した地震について考えました。どれだけの裕福な人たちがあの地震から逃げ出すことができたでしょう?彼らも同じ被害を受けていたのではないでしょうか?沢山の事実が揃っているにも関わらず、私たちは神の御前に行っていないため、人生の価値と意味をしっかり考えず、私たちが愛して止まないお金が私たちの内にあるものではなく、私たちに平安をもたらしてくれたり、災害から私たちを救ってくれるものでもないことに気付かないのです。これこそが、人類にとっての本当に大きな悲劇なのです!

 私は最初日本に来た時はお金を稼ぐことしか頭になかったことを思い出しました。私の仕事は生産ラインから出て来たばかりの車の部品を磨くことで、研磨作業中には鉛を多く含んだちりがたくさん出ました。マスクを2枚着用していたにもかかわらず、一日が終わると私の鼻の下には黒く丸いあとが残っていました。それに、当時は夏だったので、作業場の温度は40度を超えていた上に、私たちは一日最低でも10時間は働いていました。一日が終わると私の服は汗でびしょぬれでした。私の体はこのような重労働に耐えられず、右腕と指が感覚を失い始めていました。幸い、私は神から時にかなった御救いを受け、神の奇跡的な御采配により製品検査部門に異動することができました。そこでの仕事は楽だったので、私の手は次第に回復していきました。しかし、神の主権を知らなかった私はいのちの価値と意味を分かっていませんでした。私は神に従ってはいたものの、お金を追いかけることは止めませんでした。残業と集会の時間が重なることがあると、私は変わらず残業することを選んでいたのです。しかし、地震の後、私はこれについて慎重に考えてみました。神の御気遣いと御加護がなければ、災害と死が迫って来る時に、どれだけお金があったとしても心の恐怖感を取り除くことはできないし、霊的な安心感を得ることも、ましてや自分のいのちを守ることなどできないのです。

 その後、私は神のこの御言葉を読みました。「ある者が生まれた時、孤独な魂は、創造主がその魂のために計画した、地上での生活経験、創造主の権威の経験を始める。その者すなわちその魂にとって、これが創造主による統治に関する認識を得て、創造主の権威を知り、それを自分で経験する格好の機会であることは言うまでも無い。⋯⋯ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。そうした者は必然的に創造主に愛されて受け入れられ、また死に対して安らかな姿勢を取る。人生の最後の節目を喜んで歓迎出来るのは、そうした者のみである。ヨブは死に対して明らかにこの姿勢を取っていた。」

 神の御言葉は創造物として生きることの価値と意味を私が理解できるようにしてくださりました。私が持つものは全て、神から授かっているものであり、神は私が神の主権と権威を理解する機会を与えてくださり、そしてまた創造物としての本分を尽くす機会も与えてくださりました。私は真理を追い求め、神の働きを体験し、神を知ることに努め、創造物としての本分を尽くすべきなのです。これらこそが、人生において追い求めるべき正しい目標なのです。その後、私は上司たちと話しをして、自分の残業量を減らして欲しいとお願いしたところ、彼らはそれを承認してくれました。私は定期的に兄弟姉妹たちと集会に参加できるようになると、それまで感じたことのない安心感を得ました。神が今回の地震を通じて、私が自分の人生をじっくりと考えるようにしてくださったこと、そして私に新たな理解をお与えくださったことを、私はとても感謝しています。これで私は、どのように生きれば、自分の霊が平安と喜びを感じられるのかということを熟知しました。


観念を脇に置いて、主の再来をお迎えしましょう

2020-02-06 16:30:17 | 賛美の心

 インシンは人生の半分以上も主を信仰してきた敬虔なクリスチャンです。彼女が残りの人生で一番強く望むことは主の再臨をお迎えし、天国に引き上げていただくことでした。しかし、ある者が彼女の自宅に来て、主が再臨されていると説いた時、観念の壁の影響により、彼女は幾度となくそれを受け入れることを拒みました。ある日、また誰かがやってきて、彼女のドアを叩きました。インシンはドアを開けると、そこには長い間会っていなかった友人のヂェン姉妹がいたので、彼女はヂェン姉妹を家の中に入れました。そしてヂェン姉妹は興奮した口調で彼女に言いました、「姉妹、いい知らせがあります:私たちが長年切望してきた主イエス様が世の終わりに多くの真理を表し、そして裁きの働きをするために私たちの間に肉として再臨されました。これは聖書にある:『… さばきが神の家から始められる時がきた。』(ペテロの第一の手紙4:17)、という預言を成就しています。姉妹、あなたも早く調査するべきですよ!」

 この知らせは重大かつ素晴らしいものでしたが、インシンはいつも通り疑い深い口調でこう聞き返しました:「どうしてそれが分かるんですか?あなたは東方閃電を信じているのではありませんか?忘れてしまったのですか?牧師は聖書の御言葉を使ってよく私たちに次のことを言われています:「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書 24:23-24)。「だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。 」(マタイによる福音書24:26)。 彼は私たちは霊的背丈がとても低く、適切に識別ができない、そして東方閃電のメッセージはとても深遠だから主の真の信者たちの多くが彼らに奪われ、主の道から逸脱してしまったと言われています。だからこそ、牧師は彼らに連れていかれないように注意するよう私たちに何度も呼び掛けています。ヂェン姉妹、私たちは主の教えに従う必要があり、他のいずれのメッセージもやみくもに調査したり、信じてはいけません。」

 インシンの言葉を聞いた後、ヂェン姉妹は辛抱強く言いました、「以前、私もあなたと同じように騙されることを恐れていたから、結果的に主の再臨の福音を伝導する人全てに対して耳を傾けることを拒否していまい、調査もしていませんでした。しかし、その後、私はこう熟考し始めました:主は実際に世の終わりには偽キリストと偽預言者が現れると預言されましたが、主はお戻りになることもはっきり預言されています。私たちは騙されることを恐れて無分別に偽キリストを妨げ、主の再臨を説く全ての者に対して耳を傾けることを拒否していたら、真のキリストを外に追い出してしまうのではないでしょうか?これは喉を詰まらせることを恐れて食事をとることを拒否するということではありませんか?」

 ヂェン姉妹の言ったことを聞いた後、インシンはこう思いました:その通りだわ!騙されることを恐れて調査もせずに偽キリストを無分別に妨げていたら、主の再臨をお迎えできるわけがないわ。これを念頭に置き、彼女の態度は少し和らぎましたが、それでも未だに困惑していた彼女はこう聞きました、「あなたの仰ることは合理的ですが、主イエス様は私たちにこのようにはっきりと忠告されました:『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。』(マタイによる福音書24:23)。世の終わりに偽キリストを妨げるのは神から私たちへのご要望なのではないでしょうか?」

 ヂェン姉妹はすぐにこう応えました、「私も以前はそう思っていました。しかし、私は後に、その引用はこれには該当しないものであり、主の御言葉をそのように理解するのは主の御心を誤解していると分かったのです。主は偽キリストを防ぐよう私たちに注意するためにこれらの御言葉を言われたのであって、それは私たちに真の道を調査することや、主をお迎えすることを拒否させるためではなかったのです。私たちはこれら主の御言葉の文字通りの意味を固持して、これらの真義を見落としてはならないのです。実際に、私たちは真キリストと偽キリストの見極め方を理解した場合に限って偽キリストに騙されずに済むのです。姉妹、主イエス様が仰ったことを見てみましょう:『にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイによる福音書24:24)。 これらの御言葉は、偽キリストの主な特徴は人間を欺くためにしるしと不思議な業を見せることだと明確に言っておられます。これについて全能神はこう仰っておられます:『この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪魔を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。… 人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、今の神はまったくの別物である。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。』これより、神の働きは常に新しく、決して古くない、そして神は決して働きを繰り返されないことが分かります。つまり、主は再臨なさる時、恵みの時代にされたように病人を治したり、悪霊を追い払うのではなく、新しい段階の働きをされます。神は真理、道、そしていのちであられるため、神は常に人類に安定したいのちと真理の流れをお与えくださります。対照的に、偽キリストは本質的には悪霊です。彼らは真理を全く持っておらず、真理を表すこともできず、神の働きなど間違いなくできません。彼らは主イエス様がなさった働きを真似て、病人を治したり悪霊を追い払うといったしるしや不思議な業を見せることで、識別力を持たない者たちを騙すことしかできません。しかし、偽キリストが5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせたり、風と海を静めたり、死者を蘇らせるといった奇跡を起こせるはずがありません。」

 ヂェン姉妹の交流を聞いた後、インシンはやっと理解してこう言いました、「ヂェン姉妹、あなたの言う通りです。私は主の預言に出てくる偽キリストと偽預言者の本質を見極められず、騙されることを恐れたために牧師と長老の言葉に耳を傾け、主の再臨に関する福音には耳を傾けることも、調査することも拒否していました。今考えてみると、私は自分はとても愚かであったことが分かります。あなたの交流から、偽キリストの特徴はしるしと不思議な業を見せること、そして主イエス様がなさった働きを真似ることであると理解しました。でも、聞きたいことがあります:主が再臨されたと仰いましたが、全能神がキリストあられることはどのようにして確認すればよいのですか?」

 ヂェン姉妹は続けてこう言いました:「あなたの質問はとても重要で、私たちが主をお迎えできるかどうかを決定するものです。全能神の御言葉は私たちに明確な道を示してくださっています。神はこう仰っておられます:「このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人に命を与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真理の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。」

 ヂェン姉妹は続けて交流しました、「全能神が主の再臨であられるかどうかを確認するには、全能神の本質から判断する必要があります。これは主イエス様が働きをするために来臨された際に多くの真理を表され、全人類の罪を贖う段階の働きをされた時と同じです。私たち人間は主の福音を受け入れてさえいれば、罪を許していただいて、神の救いを受けることができます。しかも、主の御言葉は人間に対する憐みと愛情で満ちており、主はおもに憐みと愛情からなる性質を見せてもくださりました。主イエス様の働き、そして主が表された御言葉と性質は主が受肉された神であり、キリストであること、および主が真理、道、そしていのちであることを完全に立証しています。最近、全能神は教会を起点にした裁きの段階の働きをするために来臨されました。これは主イエス様がなされた贖いの働きを土台に形成された偉大な働きであり、罪を一掃し、人類の堕落した性質を裁いて清めることを目的とした段階の働きです。私は全能神の御言葉を読んで、全能神が私たち人類の堕落全てを開示され、私たちに罪から抜け出して純粋さを手にする道を示してくださったことを知りました。私はまた、全能神は6000年の経営計画の奥義、人類の終わりと終着点等を明らかにされたことも知りました。さらに、私は全能神の御言葉から神の権威と御力を感じ、誰もそのような御言葉を喋ることはできないと感じました。それと同時に、私は神の性質は慈悲深くて愛情に満ちているだけでなく、義なる威厳に満ちたものであることも知りました。この全てを通じ、私は全能神は主の顕現であられると認識したので、世の終わりの神の働きを受け入れて、神の御座に立ち返りました。姉妹、あなたも全能神の働きを謙虚に求め調査し、細心の注意を払いながら全能神の御言葉を読めば、それが神の御声であることに気が付くでしょう。」

 この全てを聞いて、インシンは心の中が晴れた気分になりました。彼女は真キリストと偽キリストの見極め方を理解し、頭にあった観念を捨て去りました。そして、彼女は世の終わりの神の働きをさらに深く調査したくなったのです。こうして、その後、全能神の御言葉と働きを調査しようと探求した彼女はついに全能神が主イエス様の再臨であられると認識しました。彼女が主の再臨に関する知らせを聞いた時のことを振りえってみると、彼女は自分の観念を固持し、探求し調査することを拒否していたので、結果として今までずっと主の顕現を見ることができなかったのです。しかし、彼女は自分の観念を捨て去った時、意外にも主をお迎えすることができたのです。彼女は神の御救いに対して心から感謝の気持ちを送りました。


キリストの再来についての七つの預言

2020-02-05 16:12:24 | 賛美の心

 今はもう世の終わりの末期です。ヨハネの黙示録第22章12節では、主イエスは『見よ、わたしはすぐに来る』と言われました。主はわたしたちに、彼がまた来ると約束されましたが、主はすでに来られましたか。わたしたちはどうすれば主が再来したかどうかを知ることができますか。真心から主を信じて、主の到来を待ち望む兄弟姉妹たちはきっとこのような疑問を抱いているでしょう。

1.信徒の愛が冷えた

 マタイによる福音書第24章12節でこう書かれています。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。今、各宗派の信徒たちはおしなべて世をむさぼります。ある者は商売をし、ある者は工場を開設して、金を稼ぐのに忙しく、主のために働く気持ちがなくなります。牧師、長老たちも互いに腹を探り合って暗闘し、互いにねたみ、争います。中には、徒党を組み、いけにえを盗み食いし、ふしだらな行いをする者さえもいます。人の信仰がますます薄くなり、人の愛がますます冷えてきます。今、教会の荒廃状態がますますひどくなります。

2.戦争、飢饉、地震が現れた
 マタイによる福音書第24章6節から8節でこう書かれています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて生みの苦しみの始まりである」。ここ数年来、世界各地の災難はますます大きくなります。地震、水害、干害、火災、飢饉、疫病はしばしば発生し、しかもますます多くの地域が被災します。被災地区の悲惨な光景は人の心を痛めます。国際情勢は不安定で複雑でその変化が甚しいです。戦争や暴力事件やテロ襲撃はしばしば起き、しかもどんどんとエスカレートします。例えば、2016年4月、インドが40年来の最もひどい旱害に見舞われました。そのため、3億人以上の人の飲料水が不足してしまいました。2015年から2016年までに、ヨーロッパ、アフリカ、中東などに多くのテロ襲撃が起き、数えきれない死傷者が出ました。2008年、中国の四川省汶川県でマグニチュード8の大地震が起こり、7万人近くの死亡者が出、1.8万近くの人が行方不明になりました。本来ならば、地殻層が厚くなった後、地震がますます少なくなるはずですが、今は地震がますます多くなります。これは科学者たちを困惑させています。

3.イスラエル国家が復興した
 聖書にこう書かれています。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マタ24:32-33)。「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない』。」(ルカ21:29-32)。1948年5月、イスラエル国家が復興しました。1948年5月15日、ベン・グリオンがテルアビブでイスラエル独立を宣言した後、ソ連はすぐそれを承認し、しかも5月26日、イスラエルに大使館を開設しました。それ以後、ソ連は多くの面でイスラエルを支持しました。1949年5月11日、米ソ両国の支持の下に、イスラエルが国連加盟国として正式に承認されました。

4.天体が変わった
 マタイによる福音第24章29節でこう書かれています。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。天文学者たちは頻繁に天文情報を公表します。天文学者たちの話によれば、多くの星がいま落ちつつあり、多くの新しい星がすでに現れたということです。隕石落下の事件がしばしば起こります。2016年5月17日の明け方、アメリカのニューイングランド地方に巨大な隕石が落下しました。隕石が落ちている時に発する強い光によって、夜は昼間のようになりました。2013年2月15日午前9時15分、ロシアのウラル連邦管区のチェリアビンスク市は小惑星に衝突されました。その強力な衝撃波と爆発によって、1491人の負傷者が出、数えきれないほど多くのガラスが割れました。科学者の話によれば、その小惑星は直径が約15メートルで、質量が約7千トンだったそうです。これらは、「星は空から落ちる」という預言を成就しました。

5.福音は地の果てまで宣べ伝えられた
 マタイによる福音書第24章14節で「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と書かれています。ここの「福音は……全世界に宣べ伝えられる」は、世界各地の人が主の福音を聞いた後、キリストが再来することを示しています (これは、あらゆる人が福音を聞くこと、或いはあらゆる人がキリストを信じることを指すのではない)。主イエスが十字架につけられて贖いの仕事を成し遂げた後、聖霊は神の選民が主イエスを証しするのを導き始めました。ラジオ放送局、インターネット、書籍、福音の宣伝ビラ、宣教などによって、主の福音がますます広く宣べ伝えられてきました。今はクリスチャンは世界の至る所にいて、主イエスの福音はもう全人類に行き渡りました。無神論の政党によって統治されている中国でも、主イエスの福音を受け入れた人がたくさんいます。だから、主イエスが人類を贖ったという福音は世界の果てまで宣べ伝えられました。愛する兄弟姉妹たちよ、考えてみましょう。世界のどの国や地域の人がイエスの福音を聞いたことがないのですか。

6.異端者の出現
 マタイによる福音書第24章4節から5節でこう書かれています。「イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう』」。今、世界各国の宗教界にも、多くの異端者、邪教が現れました。これらの異端者、邪教は少しの真理も持たず、また人に真理、命を供給できず、全然人を築き上げ、人に益を得させることができません。

7.偽キリスト、反キリストの出現
 マタイによる福音書第24章23節から26節でこう書かれています。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない」。今、どの国の宗教界にも、偽キリストが人を惑わすようなことが起こりました。韓国では、多くの人は弁別力がないので、偽キリストに惑わされて、偽キリストの追従者になりました。偽キリストはいくらかの簡単なしるしや奇跡を行い、もっともらしい謬論を話して人を惑わすことしかできず、全然真理を発表して、人類が絶えず罪を犯すという問題を解決することができず、また人類を腐敗から救い出すことができません。聖書の預言から分かるように、主イエスが再来して働かれる時、きっと多くの偽キリストや人を惑わす者は現れて神の働きを妨げます。だから、偽キリストが現れる時、神はすでにひそかに来られました。ただ人がそれを知らないだけです。このような時、わたしたちは進んで神の世の終わりの働きを探求し、調べるべきです。兄弟姉妹たちよ、主イエスの再来を迎える上で最も重要なのは、真のキリストと偽キリストを見分けることです。これは、わたしたちが神の御座に携え上げられることができるかどうかにかかわります。だから、どのように真のキリストと偽キリストを見分けるかについての真理を装備することは、わたしたちの当面の急務です。今、あなたは真のキリストと偽キリストを見分けることができますか。

 以上の事実からは、主の再来についての預言がすでに成就したことがうかがえます。これらの預言の成就から見て、主がすでに戻られました。しかし多くの人はきっと「主が戻られたなら、なぜわたしたちが主を見ていないのですか」と聞きます。彼らは考えたことがないでしょう。自分たちが主を迎える上で間違いを犯したかを。今、多くの人は主の再来についての知らせを聞く時、偽キリストを警戒することを最も重要なことだと見なして、どのように賢い乙女のように神の声を聞くべきか、どのように主の再来を迎えるべきかを重視せず、自分の観念、想像を固守して、主イエスの再来を証しする者たちの証しがすべて偽りのものだと思っています。そのため、彼らは探求し、調べることはしません。こうして、彼らは主の再来を見る機会を逸しました。