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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

神の経営の中でのみ人は救われる

2020-02-14 17:35:08 | 賛美の心

 誰もが神による経営(救い)を未知のものだと感じる。なぜなら、神の経営は完全に人間と無関係だと人々は考えるからである。人々はこの経営は神だけの働き、神独自の用事だと考えるので、神の経営の働きに無関心である。こうして、人類の救いは漠然とした不明瞭なものとなり、今では空虚な言葉にすぎないものとなっている。人間は救われて美しい終着点に達するために神に付き従うのだが、神がどのように働きを行なうのかについて無関心である。人間は、神が何を行なおうとしているか、救われるために自分が果たすべき役割については考えていない。なんと悲しいことか。人間の救いは神の経営と不可分であり、まして、神の計画と切り離すことなどできない。それなのに、人間は神の経営について何も考えず、ますます神と離れて行く。そのため、ますます多くの人々が創造とは何か、神を信じるとはどういうことか、神をどう礼拝するか等、人間の救いに密接に関係のある事柄を知らずに神に付き従うようになっている。だからここでは神の経営の働きについて話し、信者の一人一人が神に付き従うこと、神を信じることの意義について明らかに知るようにしなければいけない。そうすれば、ただ祝福を得ようとして、あるいは災いを避けようとして、あるいは成功するために神に付き従うのではなく、歩むべき道をもっと正確に選べるようになる。

 神の経営は人間には深遠に思えるだろうが、人間に理解不可能なものではない。神の働きはすべて神の経営に連結しており、人間の救いの働きに関係しており、人類のいのち、生活、終着点に関わっているからである。神が人間の間で、そして人間に対して行なう働きは、まことに実際的で意義深いものだと言える。それは人間が目で見、経験できるものであり、抽象的なものではまったくない。神のする働きすべてを人間が受け入れることができないなら、この働きにどんな意味があるというのか。また、どうしてそうした経営が人間の救いにつながり得るのか。神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいるため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのである。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちのいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目的しかもっていない。その目的とは祝福を受けることである。このような人は、その目的に直接関係しない他の一切のことにわざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものの方向を変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力がそのような献身を続けさせるのだろうか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しする信仰心だろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人々がそれほどまでに神に捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。

 人類の神への信仰の最も悲しい点は、神の働きの只中に人間が自分なりの経営を行い、神の経営そのものには無関心なことである。人間の最大の失敗は、神に服従し神を礼拝することを求めると同時に、人間は自分なりの理想の終着点を打ち立て、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき、憎しみに満ちた哀れな存在かを理解したとしても、自分の理想や希望を簡単に捨て去ることのできる人がどれだけいるだろうか。また、誰が途中で足を止め、自分の事だけを考えるのをやめられるだろうか。神と密接に協力して、その経営を完成する者を神は必要としている。神に服従するために、神の経営の働きに身も心も捧げる人を神は必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者は必要ではない。まして、わずかばかりを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者は、無用である。わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を神は嫌う。神の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話したがる心無い人々を神は憎む。それにもまして、神が人類を救うために行なう働きがもたらす機会を通じて利を得ようとする人々を、神は嫌う。そうした人は、神が経営の働きで成し遂げ、獲得しようとしていることにはまったく無関心だからである。そういう人々は、神の働きがもたらす機会を利用していかに祝福を受けるかということだけに気をもんでいる。彼らは、神の心には無関心で、自分たちの未来と運命のことだけに没頭している。神の経営の働きを嫌い、神がどのように人類を救うかとか、神の心についてはまるで関心がない人々は皆、神の経営(救い)の働きと無関係に好き勝手をしている。彼らの行動は、神によって記憶されず 、認められず、まして神に喜ばれることなどない。

 広大な宇宙に、どれほどの生ける物が、一つの不変の規則にしたがって生き、いのちの法則に何度も何度もしたがって、生き、再生しているのか。死ぬ者は生きる者の物語を抱えて行き、生きている者は死んだ者と同じ悲劇的な歴史を繰り返す。そこで、人類は自問せずにはいられない。なぜわたしたちは生きるのか。そして、なぜわたしたちは死ななければいけないのか。誰がこの世界を支配しているのか。そして、誰がこの人類を創ったのか。人類はほんとうに大自然の生み出したものなのか。人類はほんとうに自分の運命を支配しているのだろうか。…数千年にわたり、人類はこうした問を何度も何度も発している。残念ながら、人類がこうした問に頭を悩ませれば悩ませるほど、ますます科学への渇望が強くなった。科学は、ささやかな肉の欲求の充足と、つかの間の肉の楽しみを与えるが、人類を魂の奥底にある孤独や寂しさ、かろうじて隠している恐怖と無力感から解放することなど到底できない。人類は単に肉眼で見、脳で理解できる科学的知識を用いて心を麻痺させているが、これは 人類が奥義を探ることを止めることはできない。人類は、宇宙万物の支配者が誰であるかを知らないし、まして、人類の始まりも未来も知らない。人間はこの法則の中で、ただ生きている、否応なしに。誰一人、逃れることができないし、誰もこれを変えることはできない。あらゆる物事の間と天において、永遠から永遠にすべてを支配しているのは、ただお一方だけだからである。それは、かつて人間が見たことがないお方、人類が知ることもないお方、その存在を人類は信じたこともない。しかし、それは人類の祖先に息を吹き込み、人類にいのちを与えたお方である。人間の生存のために施し、養い、今日まで導いて来たお方である。さらに、人類が生き残るために依存する唯一のお方なのである。彼は万物を支配し、天の下のすべての生ける物を支配している。彼は四季を支配し、風と霜、雪、雨を呼ぶ。彼は人類に陽光を与え、夜の訪れをもたらす。天と地とを整え、人間に山々と湖、川、すべての生き物を与えたのは彼である。彼の業はあらゆるところにある。その力はいたるところにある。その知恵はいたるところにある。その権威はいたるところにある。その法則や規則の一つひとつは彼の業の具現であり、その一つひとつが彼の知恵と権威とを明らかにしている。誰が彼の支配を免れることができようか。また、誰が彼の采配から逃れることができようか。万物は彼の眼差しの下にあり、さらに、彼の支配の下で生きている。彼の業と力の前に人類は、彼が実際に存在し、万物を支配していると認めざるを得ない。神を除いては、他の何も宇宙を支配できず、まして、やむことなく人類に施すこともできない。神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命は神の定めるところであって、神が永遠にあらゆるものの支配権を持ち続けることに疑いはない。神の存在と権威とは、人間に認められ理解され得るかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人類の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関りなく、人類は近い将来、これらのことすべてをその目で見ることになる。そして、これは神が間もなく実現する事実である。人類は神の目の下で生き、死ぬ。人類は神の経営のために生きているのであり、その目が最期に閉じる時もまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去り、行き来を繰り返す。例外なく、これはすべて神の支配し、定めていることである。神の経営は常に前進しており、やむことがない。神は人類に自身の存在を知らせ、神の支配を信じさせ、神の業を見させ、神の国に戻らせる。これが神の計画であり、何千年にもわたって神が行なってきた働きなのである。

 神の経営(救い)の働きは天地創造の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神が万物を創造したのは、人間のためであると言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、ほんの数分や数秒、瞬時に行われるものではなく、一、二年で行なわれるものでもないので、神は人間が生きて行くために必要なもの、すなわち太陽や月、あらゆる種類の生き物や食物、生きるための環境などを数多く創る必要があった。これが神の経営の始まりであった。

 その後、神は人類をサタンに渡し、人類はサタンの領域で生きた。そして、これが徐々に神の最初の時代の働きへと至った。律法の時代の物語である…。数千年に及ぶ律法の時代、人類は律法の時代の導きに慣れ、軽く考えるようになり、徐々に神の保護から遠ざかった。そして、律法を守っていながら、同時に偶像をも拝み、邪悪なことを行った。彼らはヤーウェの守りなしに、ただ神殿の祭壇の前で暮らしているだけだった。実際、神の働きはずっと以前に彼らのもとを去っていた。イスラエル人はまだ律法に従い、ヤーウェの名を唱え、自分たちだけがヤーウェの民、ヤーウェの選民だと誇っていたものの、神の栄光は静かに彼らを捨て去った…。

 神がその働きをする時は、いつでも静かに一つの場所から去り、そのあいだに別の場所でそっと新たな働きをする。これは、鈍重な人間には信じられないことのように思われる。人々はいつも古いものを大事にし、新しい、馴染みのないものには敵意をもつか、厄介なものとみなす。そこで、神が行なう新しい働きは何であれ、最初から最後まで、人間はあらゆるものの中で最後にそれを知ることになる。

 いつもそうであるように、律法の時代にヤーウェの働きをした後、神は新たな第二段階の働きを始めた。すなわち、人間として受肉し、十年、二十年間、信じる者たちの間で話し、働きを行った。しかし、例外なく誰もそれを知らなかった。ただ、ごく少数の人々だけが、イエスが十字架につけられ、よみがえった後、彼が受肉した神だと認めた。困ったことに、パウロという者が現れて、神に対して激しい敵意を抱いた。打ち倒され、使徒になった後でも、パウロの古い本性は変わらず、神に逆らう道を歩んだ。パウロは働きを為した間、多くの手紙を書いているが、不幸なことに、後の世代は彼の手紙を神の言葉として享受し、そのため新約聖書に収めてしまったほどで、神の話した言葉と混同された。これは聖書が登場して以来のまことに恥ずべきことである。そして、この誤りは人間の愚かさから起こったことではないのか。恵みの時代の神の働きの記録において、人間による手紙や霊的文書は、神の働きと言葉に取って代わるべきものでないということを知らなかったのだ。しかし、これは本題からずれているので、話しを戻そう。神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にはりつけになった後、人間を罪から取り戻す(つまり、サタンの手から人間を取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。そこで、サタンに捕らわれた後、人間は神の前で救いを受けることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは律法の時代から一歩進んだ神の経営であって、律法の時代よりもさらに深い段階のものであった。

 これが神による経営である。人類をサタンに引き渡し─神が何であるか、創造主が何であるか、神をどう礼拝するか、なぜ神に服従することが必要なのかを知らない人類を──サタンが堕落させるままにしたのである。神はそれから一歩一歩、人間が完全に神を礼拝しサタンを拒むまで、人間をサタンの手から取り戻す。これが神の経営である。これはみな神話的な物語のようで、わけがわからないように思われる。人々がこれを神話的な物語のように感じるのは、過去数千年の間にどれほど多くのことが人間に起こったかを知らないからであり、まして、この宇宙の広がりにおいてどれほど多くの物語が生まれたか、思いも及ばないからである。そのうえ、物質界の外に存在する、さらに驚くべき、はるかに恐ろしい世界があるのを意識することができず、人間の目では見ることができないでいるからである。これは人間には理解し難いことに思われるが、それは人間には神による人類の救いや神の経営の働きの意義が理解できず、また、人間が最終的にどのようになることを神が望んでいるかを知らないからである。そのような人類は、サタンに堕落させられる前のアダムとエバのようなものだろうか。いや、そうではない。神の経営は、神を礼拝し、神に従う一群の人々を得るためのものである。この人類はサタンにより堕落させられたが、もはやサタンを父とみなしておらず、サタンの醜い顔に気づいて拒み、神の裁きと刑罰を受けるため、神の前に来る。その人間は何が醜いか、それが聖いものとどう異なっているかを知っており、神の偉大さとサタンの邪悪さを認識している。このような人類は、もはやサタンのために働かず、サタンを崇めず、サタンを祭ることをしない。それは、その人たちが真に神のものとなった人々だからである。これが神による人類経営の意義である。神の今回の経営の働きのあいだに、人類はサタンによる堕落の対象であり、同時に、神による救いの対象であり、そして神とサタンが獲得しようと戦う産物でもある。神はその働きをすると同時に、徐々に人間をサタンの手から取り戻してきたので、人間は神に近づきつつある…。

 そして、神の国の時代が来た。これは、より実際的な働きの段階であるが、人間にとっては最も受け入れ難い働きでもある。それは、人間が神に近づけば近づくほど、神の鞭が人間に近づき、神の顔が人間の前にさらに鮮明になってくるからである。人間の贖いの後、人間は正式に神の家に戻る。人間は、今は楽しむ時であると思ったのだが、誰も予測すらしなかった神による徹底的な攻撃にさらされている。すなわち、これは神の民が「楽しむ」べき洗礼なのである。そうした扱いを受けると、人々は立ち止まり、「私は長い間迷っていたのを神が大金を払って買い戻した羊だ。それなのに、なぜ神はこのような扱いをするのか」と考えざるを得ない。これは、私を笑い、さらし者にする神のやり方なのか。…長い年月の後、人間は、鍛錬と刑罰の試練を経験し、苦労が風貌に現れるようになった。人間は過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識のうちに人間の行ないの原理を理解し、人類を救う神の長年にわたる献身がわかるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、神に向けた不当な要求の数々を憎むようになる。時間は戻らない。過去の出来事は人間の嘆かわしい記憶となり、神の言葉と愛とが人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日ごとに癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る…と、神はずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しい顔が依然として心揺さぶるものであることに気づく。神の心はまだ被造物である人類を気遣い、神の手は始まりの時同様、まだ暖かく、力強い。まるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、今回は人間はもはや蛇の誘惑に耳を傾けず、もはやヤーウェの顔から目をそむけない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、心から最高の捧げ物をする──ああ!わが主、わが神!

 神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡り、人間が神のよき意図を理解できるか否かに関わらず、神はいまだに疲れを知らず成就しようとする働きを続けている。人々がどれほど神の経営を理解しているかに関わらず、神の働きの恩恵と助けはすべての人が理解することができる。おそらく、今日、あなたは神が与える愛やいのちを一切感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、真理を追究しようという決意を諦めない限り、神の笑顔があなたに顕れる日は必ず来る。神の経営の働きの目的は、サタンの支配下にある人類を取り戻すことであり、サタンに堕落させられ、神に敵対する人類を見捨てることではないからである。

2005年9月23日


信仰によれば、「義」とされることができるのか

2020-02-13 16:50:45 | 賛美の心

 一部のクリスチャンは、主イエスを信じる者はもはや罪に属さなくなり、すでに義とされ、主が再来される時に天の国の中に携え上げられることができる、と思っています。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義とされるためです」(ロマ3:25-26)と、聖書に書かれているこの言葉を読んだ後、彼らは「イエス・キリストがわたしたちの罪祭となられたから、わたしたちが主に悔い改めさえすれば、わたしたちの罪は赦されることができます。こうして、わたしたちはイエスの贖いのゆえに義とされました」と思っています。わたしたちが主イエスを信じることによって罪の赦しを得たことは確かです。しかしわたしたちは、それはわたしたちが義人であって、もはや罪に属さなくなることを意味しているかを考えたことがありますか。

 わたしたちはまず、使徒ヨハネがどのように言ったかを見てみましょう。ヨハネの第一の手紙でこう書かれています、「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です」。使徒ヨハネはわたしたちに、人の外見によって惑わされてはいけないと警告しました。義を宣べ伝える者は義人だと限りません。義を推賞する者は義を行うとは限りません。義を行う者だけが義人です。これで分かりますが、義人であるかどうかは、義を行うかどうかにかかっています。しかし今わたしたちは自分の行いを無視します。最後まで耐え忍ぶ者は信仰によって義とされ、もはや罪に属さず、しかも天の国に入ることができるとわたしたちは思っています。この観点は神の心にかないません。聖書の中にこの観点を証明する証拠が全然ありません。

 また、今日主イエスを信じるわたしたちを見てみましょう。わたしたちは主イエスの贖いを受け入れたし、外側でいくらかのよい行いがあるし、しかも他人に施しをし、他人を助けることができます。しかし、これらは全然義を行っていることの証しになれず、ただよい行いです。だから、わたしたちはまだ主イエスに味方することができません。なぜなら、わたしたちは不可避的に罪を犯して神に逆らい、わたしたちの内側にまだ多くの腐敗した性質が存在しているからです。例えば、現実生活の中で何か起こった時、わたしたちは神の道を行い、神の言葉を生かし出すことができず、非常に利己的で卑劣で、曲っていて狡猾です。しかも、わたしたちの傲慢で独りよがりな腐敗した性質が常に流露され、わたしたちの内側に神を畏れる心がありません。わたしたちは教会を牧し、神のために苦しみを受け、仕事をする時、自分を高位につけ、自分を証しし、そうすることによって他人が自分を崇拝し、仰ぎ見るようにします。神に仕える時、わたしたちは地位を争うために互いに攻撃し、ねたみ、論争します。わたしたちの代価、費やしが報われず、神の祝福を得ていない時、わたしたちは神を恨み、誤解します。しかも神の働きがわたしたちの観念にかなわない時、わたしたちは神を裁きます。これらすべての言動は腐敗した性質の流露ではありませんか。

 わたしたちの中にまだこんなに多くの罪が存在しているのに、わたしたちはどうして義とされることができるでしょうか。わたしたちは聖書がどのように言っているかを見ましょう。エフェソの信徒への手紙第4章21節から24節でこう書かれています。「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」。この箇所もわたしたちに、主の道を受け入れたからには、わたしたちの以前の堕落した行いを脱ぎ捨てて、新しい人らしく生きなければならず、二度と忌わしい事をしてはならないということを告げています。わたしたちはこのことを知るべきです。神が最終的に得る人は、内側にも外側にも神の言葉、義を生かし出すことができる人であって、外側でいくらかのよい行いがあるが、内側の罪に縛られている人ではありません。だが、わたしたちの中はまだ多くの腐敗したサタン的性質があり、罪で満ちています。これでは、わたしたちが義人とされることがどうしてあり得るでしょうか。聖書もこう言っています。「しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ」(エゼ18:24)。聖書の言葉から、わたしたちがこういうことが分かりました。わたしたちは主イエスの贖いのゆえに、主を信じれば義とされることができますが、しかしこれはただ主がわたしたちに与えられた、義とされる機会であり、わたしたちが義人であることを意味しません。もしわたしたちが主の与えたこの機会をとらえられず、義を行うことができず、罪悪の中に生きていて、引き続き罪の蔓延するままに任せるなら、わたしたちはどうして義人とされることができるでしょうか。だから、信仰は行いと切り離せません。もし信仰があるだけで行いが伴わないなら、きっと神に良しとされることができません。こういうわけで、信仰によって義とされるという見解は成り立ちません。

 信仰によっては義とされることができないなら、どうすれば義とされることができますか。実は、主イエスはとっくにわたしのために義人に対する基準を定められました。ヨハネの黙示録第19章7節から8節でこう書かれています。「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」。この中から分かりますが、神の言う義人に対する基準は、「義」を行うことができ、すなわち、きよさと義人の姿を生かし出すことができることです。もしわたしたちが義人の姿を生かし出すことができなければ、神に義とされることができません。ところが、わたしたちの中にまだ多くの腐敗したサタン的性質があり、わたしたちの生かし出すものは罪に満ちていて、わたしたちの命の性情は少しも変わりません。こんなわたしたちは全然神の栄光を現し、神を表現することができず、また神の言葉を生かし出すことができません。それではどうして義を行うことができるでしょうか。だから、わたしたちは自分の中の腐敗を脱ぎ捨てて、自分がもはや罪の中に生きないようにしなければならず、あらゆることで神の監視を受け入れ、神のみこころを行って神の言葉どおりに行わなければなりません。何をするにも神を愛する心、神に従う心をもって行うべきです。また、自分の性質が変わることを追い求めて、自分を、神を畏れ、悪を避ける人にならせなければなりません。このようにしてこそ、神に良しとされる人になれます。わたしたちはヨブを見ましょう。彼は一生の中で主の道にしたがってことを行い、あらゆることで神を畏れ、悪を避ける心を持ち、苦しい試練を受けても、精錬されても、神の支配、按配に従い、不平を言わず、自分の選択と要求がなく、依然として神の御名をほめたたえます。ヨブは義人の姿を本当に生かし出し、神の心の中の無垢な人になりました。

 わたしたちは信仰によれば義とされることができると思っています。では、わたしたちは自分のすることなすことから、自分が義人らしく生きているかどうかを判断しましょう。例えば、今日神を信じ、神につき従うわたしたちの性質は変わったのか、わたしたちはまだサタン的な古い本性によって生きているのか、真理、原則を理解したという基礎の上で人に寛容で、我慢し、人を愛するのか、わたしたちは自分の意志と観念、想像に従わずに、神の言葉どおりに厳しく行うのか、わたしたちのすることなすことがキリストの気に合うのか、などです。これらのことでわたしたちはどのくらいの実行がありますか。だから、わたしたちが義とされたいなら、自分の中の腐敗を脱ぎ捨てて、自分がもはや腐敗したサタン的性質によって生きないようにしなければならず、罪悪を脱ぎ捨てて義を行わなければなりません。そうしてこそ、主に良しとされることができます。ペテロの手紙一第1章15節から16節で書かれているように、「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」。またヘブライ人への手紙第12章14節で書かれているように、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」。わたしたちが知っているように、神は聖かる方です。だから、汚れ、腐敗したものが神の国に残っていることは許されず、きよめられ、神に救われた人だけが神の国に入ることができます。


神は人間のいのちの源である

2020-02-12 16:19:53 | 賛美の心

 産声を上げてこの世に生まれてきた瞬間から、あなたは自分の責務を果たし始める。神の計画と定めの中で自分の役割を果たして、いのちの旅を始める。背景が何であれ、また前途がどうであれ、天の指揮と采配から逃れられる者はいない。また自分の運命を支配できる者もいない。なぜなら、万物を支配するその方しかそのような働きはできないからである。人類が誕生して以来、神は宇宙を経営し、万物の変化の法則とそれらの運行の軌跡を指揮しながら、ずっとこのように働いてきた。万物と同様に、人間は秘かに、知らないうちに、神から来る蜜と雨露によって養われている。他のあらゆるものと同様に、人は知らないうちに神の手による指揮のもとに生存している。人の心と霊は神の手中に握られており、人の生活の一部始終が神の目に見られている。あなたがこのことを信じているかどうかにかかわらず、生きているものであれ死んでいるものであれ、万物は神の思いによって移ろい、変転し、新しくされ、消滅する。これこそが神が全てのものを統治する方法である。


 夜が静かにしのび寄って来ても、人は気づかない。なぜなら、人の心は夜がどのようにして近づくのかも、それがどこから来るのかも感知できないからである。夜が静かに過ぎ去ると、人は日の光を歓迎するが、光がどこから来て、どのように夜の闇を追い払ったかについては、なおさら知るよしもなく、まして気づいてもいない。こうして繰り返される昼と夜の移り変わりによって、人は一つの時期から次の時期へ、一つの歴史的背景から次の歴史的背景へと導かれ、それと同時に、それぞれの時期における神の働きと、それぞれの時代における神の計画が確実に遂行される。人は神と共にこれらの時期を歩んできたが、神が万物と全ての生けるものの運命を支配することも、神がどのように万物を指揮し導くのかも知らない。これは太古の昔から現代まで、人には知るよしもないことであった。その理由は、神の業があまりにも隠され過ぎているからでも、神の計画がまだ実現されていないからでもない。それは、人の心と霊が神からあまりに遠く離れているため、神に従いながらもサタンに仕え続けるまでなり、しかも、まだそのことに気づいていないからである。神の足跡と顕現を積極的に探し求める者は一人もいない。また進んで神の配慮と加護の中で生存しようとする者もいない。その代わりに、この世と邪悪な人類が従う生存の掟に適応するために、邪悪な者、サタンの腐敗に頼ることを人は望む。この時点で人の心と霊は、サタンへの貢物となり、その餌食となった。その上、人間の心と霊はサタンの住みかとなり、サタンの恰好の遊び場となった。こうして人間は、人間であることの原則について、また人間存在の価値と意義についての理解を気づかないうちに失うのである。神の律法、そして神と人の間で交わされた契約は、人の心の中で次第に薄れ、人は神を求めることも神に注意を払うことも止めてしまう。時間が経つにつれ、人は神が人間を創造した理由も、神の口から出る言葉や神から来る全てをもはや理解しなくなる。それから人は神の律法と掟に抵抗し始め、人の心と霊は麻痺してしまう……。神は自らが最初に創造した人間を失い、人間はその始まりの根源を失う。これが人類の悲哀である。実際のところ、全ての始まりから現在に至るまで、神は人類のために悲劇を上演してきたのであり、その悲劇の中で人間は主人公でもあり被害者でもある。そして、この悲劇の監督が誰であるのか答えることのできる者はいない。

 この広大な世界で、数え切れないほどの変化が起こっている。大海は変じて田園となり、田園は変じて大海となり、これが何度も繰り返されている。宇宙の万物を統治する方を除いては、この人類を導き案内できる者はいない。この人類のために労したり備えたりできる力ある者は存在せず、ましてや人類を光の終着点へと導き、この世の不正から解放できる者などいるはずもない。神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を悲しみ、人類が一歩一歩、滅びと戻ることのできない道に向かって進んでいることに心を痛めている。神の心を引き裂き、神を棄てて邪悪な者を求めた人類、このような人類がどこに向かっているのかを考えたことのある者がいるだろうか。まさにこれこそが、誰も神の怒りを感知せず、誰も神を喜ばせる道を求めようともせず、神のもとへ近づこうとすることもなく、さらには、誰も神の悲しみと痛みを理解しようとしない理由である。神の声を聞いた後でさえ、人は自分の道を歩み続け、頑なに神のもとから離れ去り、神の恵みと配慮を避け、神の真理を避けて、神の敵であるサタンに自身を売ることの方を好む。そして、人がこのまま頑なであり続けるなら、後ろを振り向くこともなく神を見捨てたこの人間に対して神がどのようにふるまうかについて、誰が考えたことがあるのか。神が繰り返し人に思い起こさせ、勧告する理由は、人間の肉体と魂にはとうてい耐えられないような、未だかつてない災難を神はその手に準備しているからだということを知る者はいない。この災難は単に肉体の懲罰だけではなく、魂の懲罰でもある。あなたは知らなければならない。神の計画が無駄になり、神の喚起と勧告に反応が無いなら、神はどのような怒りを注ぐであろうか。それは今までどんな被造物も経験したことも聞いたこともないようなものである。だからわたしは、この災難は前例がなく、二度と繰り返されることはないと言う。なぜなら、神の計画とは今回一度だけ人類を創造し、一度だけ人類を救うことだからである。これが最初であり、また最後である。それゆえ、今回人類を救おうとする神の苦心や切なる期待を理解できる者は一人もいない。

 神はこの世界を創造し、神が命を授けた生きものである人間を世にもたらした。次に、人間は両親と親族を持つようになり、もはや孤独ではなくなった。人間は、最初にこの物質的世界に目を向けて以来、神の予定の中で存在するように定められてきた。神から出る命の息は、成人へと成長する間ずっとあらゆる生きものを維持する。この過程で、人は神の配慮のもとに成長していると感じる者はいない。むしろ、人は両親の愛情のこもった世話のもとで成長し、人の成長を促すのは自身の生命本能だと思う。それは、人間は誰が自分に命を授けてくれたのか、どこからそれが来たのかを知らず、ましてや、生命本能がどのようにして奇跡を生み出すのかなど知るよしもないからである。人は食物が生命維持の基礎であり、根気が人間生存の源であり、頭の中にある信念が人間の生存を左右する資本であるということだけを知っている。神の恵みと施しにはまったく気づかないので、神によって授けられた命を人は浪費する……。神が日夜世話しているこの人類のうち、一人として自主的に神を礼拝しようとはしない。神は計画通りにひたすら人に働きかけ続けるだけで、人には何も期待しない。人がある日夢から覚めて、命の価値と意義、人に与えた全てのもののために神が支払った代価、そして人が神のもとへ戻ってくるのを待つ神の切なる心遣いを突然悟ることを願いつつ、神は働き続けている。人間の生命の起源と存続をつかさどる奥義を探究した者はいない。これら全てを理解している神だけが、神からあらゆるものを受け取ったにもかかわらず感謝することもない人間から受ける傷や打撃に黙って耐える。人間は命がもたらす全てのことを当然のことと考えている。そして同様に、神が人間によって裏切られ、忘れられ、ゆすり取られるのも「当然のこと」とする。神の計画が本当にこれほど重要であると言えるだろうか。人間、すなわち神の手から出たこの生きものが本当にそれほど重要だと言えるだろうか。神の計画は確かに重要である。しかし、神の手で創造されたこの生きものは、神の計画のために存在する。それゆえ、この人類に対する憎しみ故に神は自らの計画を台無しにすることはできない。神が全ての苦痛に耐えるのは、神の計画のためであり、また神が吐いた息のためであり、人間の肉のためではなく、人間のいのちのためである。神がそうするのは、人の肉ではなく、神が吐き出したいのちを取り戻すためである。これこそが神の計画である。

 この世に生まれて来る人間は皆、生と死を通らなければならない。そして、その大多数は死と再生の周期を経てきた。生きている者はやがて死に、死者もやがて戻ってくる。これは全て生きものそれぞれのために神によって用意された命の過程である。けれども、この過程と周期こそが人が目を向けるようにと神が願っている真実である。それは、神が人に授けたいのちは無限であり、肉体、時間、空間により制限されないということである。これこそが神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来た証拠である。多くの人はいのちが神から来たことを信じないかもしれないが、神の存在を信じるか否定するかにかかわらず、人間は神から出る全てのものを必然的に享受する。ある日突然、神が心変わりし、世界に存在する全てのものを取り返し、自らが与えたいのちを取り戻すことを望むならば、万物は存在しなくなる。神は自らのいのちを用いて全てのもの、生きているもの生きていないものの両方に施し、神の力と権威により全てを秩序正しく整える。これは誰にも想像することも理解することもできない真実であり、これらの理解し難い真実は、まさに神のいのちの力の表れであり、証しである。今あなたに秘密をひとつ告げよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にとっても計り知れないものである。過去と同様、現在もそうであり、来たるべき未来もそうである。わたしが伝える第二の秘密はこうである。形や構造がどのように異なっていようとも、全ての被造物のいのちの源は神である。あなたがどのような生命体であっても、あなたは神によって定められたいのちの軌道に逆らうことはできない。いずれにせよ、わたしが唯一望むのは、人間が次のことを理解することである。神の配慮、加護、施しがなければ、人間はどれほど勤勉に努力しても、どれほど熱心に奮闘しても、人が受けるように定められている全てのものを受けることはできない。神からのいのちの施しがなければ、人間は生きる価値や命の意義を失ってしまう。神のいのちの価値を勝手気ままに浪費する人が、これほど何も気にかけないことをどうして神が許すだろうか。前にも言ったように、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。神が授けた全てのものを人が大切にしないならば、神は始めに与えたものを取り返すだけではなく、人間からの代償として与えた全てのものの代価の二倍を要求する。

2003年5月26日

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神の御言葉は本当に聖書以外には存在しないのでしょうか(II)

2020-02-11 15:48:30 | 賛美の心

 彼が交流した後、私はびっくりしてこう思いました:「長年に渡って主を信仰してきたけど、こんな説教は一度も聞いたことがないわ。彼の交流は合理的だし、実情をとらえているわ。彼はどうやってこんなに多くのことを理解しているのかしら?」

 彼は私の心を悟ったかのように話し続けました、「私は神の御言葉を読んでいますから、たくさん理解して、こういった知識を得ることができているんです。神の御言葉がその奥義を明らかにしてくださらなかったら、誰も神の御言葉を理解できないでしょう」そして、彼は神の御言葉のこの段落を読んでくれました、「イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、その権威──律法の時代には、誰一人これをしなかった。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。…人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあった。これは愚行ではないか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。」

 そうです!神がどのように働かれるかは神のご自由なのです。神は聖書以外の働きをする権利をお持ちで、神の働きを聖書に制限する権利など私たちにないのです。こう考えはしたものの、私は盲目に聖書を崇拝していたため、すぐには自分の観念を捨てることはできませんでした。後に、兄弟姉妹たちは、神が終わりの日に新たな働きをするために再臨されるということに関して記述した聖句を根気強くたくさん検索し、それらをまとめて終わりの日の全能神の裁きの働きを証言してくれました。彼らの説教を聞いて、私はそれが合理的であると思った上に、心の中で彼らの交流内容に納得していたのですが、自分が間違っていたことは認めたくなかったので、「ひょっとしたら彼らが読んでいる聖書は私が読んでいる聖書とは違うんじゃないかしら?」と考えたりしていました。

 私は帰宅すると、急いで聖書のページをぱらぱらとめくり、彼らが交流していた聖句を注意して読みました。私は彼らが証言した裁きの働きは聖書に記された預言を完全に成就していたことを知りました。私は思わずショックを受けて「全能神が主の再臨だなんてことがあり得るのかしら?」、と考えました。私はこう考えた時、急いで跪いて主に祈りました、「主よ!今日私は全能神教会から来た兄弟姉妹の交流を聞きました。私はそれがとても啓蒙的で、私が長年に渡って聖書を読んで理解していたものではないと感じました。全能神の御言葉は真理で間違いありません。主よ!私は依然として全能神があなたの再臨であると確信しきることができません。どうか私に啓示と導きをお与えください。私はこのまま調査を続けていきます。」

聖書から外れるものは全て異端でしょうか?

 2日目、私の友人と私は一緒に全能神教会に足を運びました。兄弟姉妹たちは私たちを温かく迎え入れたくれると、『聖書の奥義を解く』と題した映画を見せてくれました。主人公は私と同じ考えを持っていたので、私はとても興味を持ちました。彼女も、「聖書以外に神の御言葉は存在しない、聖書に書かれていないものは全てが異端である」、と考えていたのです。この映画の中で私の心を特に動かしたのは、全能神教会の兄弟がこの観点について彼女に話した内容でした。彼はこう言ったのです。「聖書に詳しい人たちには有名なことですが、聖書を編集する過程において、編集者たちの論争や不注意のため、預言者が伝達した一部分の御言葉は旧約聖書に収録されていません。これは公認の事実です。可能性として聖書以外にも神様の働きと言葉はあります。では、収録されていない預言は御言葉ではないと言えますか?そして新約聖書では御言葉のすべてを収録できたのですか?聖書に言われたとおり、『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。』(ヨハネによる福音書21章25節)これは主イエスの働きと言葉が新約聖書以外にもあるということです。だから、『聖書以外に神様の働き、言葉はない』とは事実に合いません。兄弟姉妹、さらに新約聖書、旧約聖書はともに神様の一段階の働きが終わった、その後に人間が記したもの。最初には旧約聖書しかなく、主イエスの働きと言葉は旧約聖書にはありません。聖書を超えると異端だと言うなら、主イエスもまた異端だということになる。この事実から『聖書以外には神様の働きと言葉はなく聖書を超えると異端だ』という言い方には何ひとつ根拠がないことが分かります。」

 私は観賞しながらこう考えました:「その通りだわ。旧約聖書にヤーウェ神の御言葉全ては記録されていないのよ。だって、ヤーウェ神は何千年にも渡って地上で人類の生活を導かれ、ヤーウェ神が預言者たちを通じて宣べ伝えられた御言葉は旧約聖書に記されたものより遥かに多かったからよ。そして、主イエス様は3年半に渡って宣教されている訳だから、聖書に記述されている御言葉だけを仰せられていたはずがないわ。だから、私は結論を急いだりしないで、全能神の働きを注意して扱うべきだわ。」こうして、私は次の展開を見るのが待ちきれなくなりました。

 「私たちは以前から聖書を読むことに慣れてはいますが、聖書の実相を明確に理解できていませんでした。しかし、今日、全能神のこの御言葉がその全てを明らかにしてくださっています。『 聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。』兄弟姉妹の皆さん、全能神の御言葉より、聖書は神が過去になされた働きの歴史的記録であり、人間を救うことはできないということが分かります。聖書を神と比較することは全くできないのです。神はいのちの生ける水の泉であり、神の御言葉には終わりがなく、その流れが止まることは決してありません。しかし、聖書の記録は非常に限られています。これは誰も否定できない事実です。兄弟姉妹の皆さん、神は常に新しく、古いことは決してありません。神は各時代において、新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられます。主イエス様は恵みの時代に新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられました。しかし、当時のユダヤ教の祭司とパリサイ人は旧約聖書の内容に固執し、主イエス様の働きを拒み、非難しただけでなく、主を十字架に釘付けにすらしてしまい、重大な罪を犯しました。今現在、全能神、すなわち終わりの日のキリストは人類を救い清めるための真理を全て表されましたが、それらは聖書に全く記されていないものです。それらは記録されていないので、聖書は終わりの日の神の働きと神の御言葉全てを示すことはできないのです。兄弟姉妹の皆さん、いつまでも聖書に固執していてはいけません。私たちは神の現在の御心と聖霊の働きを探求する必要があります。それのみが、神の御心に即しているのです。」

 そして、全能神の御言葉と兄弟の交流に従い、私は注意深くこのように熟考しました:「神の働きは常に前に進んでいるんだわ。神の働きと御言葉が旧約聖書の内容に制限されていて、神が恵みの時代に贖いの働きをされていなかったら、私たち人類は律法の下に生きて、律法を守れないことを理由に有罪となって、処刑されていたはずだわ。もしそうなっていたら、人類は今日まで発展してくることができなかったはずだわ。今の教会の状態を目前に、主が終わりの日に再臨して人類を裁き清める働きをされなかったら、私たちは罪の中に生きることを余儀なくされて、罪から脱却できなくなってしまうわ。体中が堕落した私たちに、来臨される主の御顔を見る資格なんてあるはずがないわ。」私は熟考すればするほど、心の中で増々啓発を受けた気分になり、以前はおかしな観点に固執していたものだと感じました。

観念を捨て、子羊の足跡を辿りました
 映画を見た後、私の頭にはまだそのストーリーが残っていました。私が以前固執していた観点は全能神の御言葉によって覆されたのです。私は思いました。「神の御言葉はとても明確だわ。頑なに自分の観点に固執していたら、私も当時主イエス様に抵抗し、主を非難したパリサイ人と同じということにならないかしら?私は神に忌嫌われ、退けられ、呪われてしまうわ!」こうして、私は全能神教会に頻繁に足を運んで探求して、調査する決意をし、全能神が主イエス様の再臨であると確信できれば、全能神を受け入れて、以前の教会にはもう行かないことにしました。

 その後、彼らは、『小羊が開いた巻物』と題した本を私にくれました。全能神の御言葉は私たちの考え、誤った動機、そして傲慢さ、うぬぼれ、欺き、身勝手さ、そして卑劣さといった、私たちの堕落した性質を明らかにされるということを私は知りました。私はそれを読めば読むほど、神のみが人類の心の奥底を調べ、私たちの誤った動機と堕落の全てを暴露することがおできになるのだから、全能神の御言葉は聖霊、そして神から来るものであるということを増々認識しました。さらに、聖書の本質と奥義、神の三段階の働き、神への真の信仰、そしてどのような人が天国に入れるのか等、全能神は本当に多くの真理を表してくださっているのです。私は今まで主を信仰してきて、このような真理を一度も耳にしたことがありませんでした。これらは私を完全に目覚めさせてくださり、聖書に記されたこの御言葉を完全に成就しているのです、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)私は全能神の御言葉を読んで、全能神が主イエス様の再臨であると確信しました。私は生きている間に主の再臨をお迎えできるとは思っていなかったので、心がとても興奮しました。私は全身全霊をかけて全能神について行く決意をしました。

 私は神が愛に満ちた心で私を助けるためにたくさんの兄弟姉妹たちを動かして、私が幸運にも神の働きを受け入れられるようにしてくださったことを感謝しました。私は全能神の御言葉を読み、僅か数か月の間に宗教界で10年かけて学んだことよりも多くのことを学びました。神の御言葉は正に生ける水の泉であり、常に絶えることなく私たちを備えくださっているということを私は知りました。振り返ると、私はむやみに牧師の言葉を信じ、自分の観念と想像まかせに神の御言葉を聖書の中だけに制限していました。私は完全に理知を欠いていたのです。私は神が私を救ってくださり、私の誤った観点を覆してくださったおかげで、主の再臨を逃さずに済んだことを感謝しています。神に感謝です!全ての栄光、神にあれ!終わり。

 


慈母のような神様の御心を知る者とは

2020-02-10 15:33:37 | 賛美の心

河南省郑州市 清心

 以前、私は人類をお救いになる神様の働きを理解していませんでした。働きにおいて堕落を露呈させたり、教会の働きに被害を及ぼすような過ちを犯したりすると、その人は必ずや応報を受けるか、本分を失うか、または罰を受けるかしますが、それが神様の義だと思っていたのです。このような正しくない理解をしていたことに加え、働きの中で失敗を犯して本分を失うことを恐れた私は、ある「賢い」方法を思いつきました。何か間違いを犯した時は、何とかして先に指導者にばれないようにし、自分で素早く埋め合わせをして、何としても修正しておくのです。そうすれば自分の本分を守る助けにならないでしょうか。そのため、業務報告書を提出する時は、常に大きな問題は小さく、小さな問題は存在しないものとして報告していました。消極的になっている時は、指導者の前では何とかごまかして、とても活動的で積極的なふりをしていました。指導者に無能だと思われ、用いられなくなるのが怖かったのです。このようにして、私は何をするにしても、神様や指導者をとても注意深く警戒していました。


 しかし、神様は人の心をお調べになります。私の「見事なごまかし」は神様の目から逃れられませんでした。ごまかそうとすればするほど、神様は私を白日の下にさらされました。たとえば、指導者の前で自分の「才能」を誇示しようとするたび、いつもしくじって恥をかきます。消極的になっている自分を隠そうとすれば、うっかり顔に「鬱蒼とした雲」を浮かべてしまい、兄弟姉妹にばれてしまいます。働きにおける間違いや手抜きを隠そうとすれば、全てを映し出す鏡のようにばれてしまうのです……何度も何度も不正直であることを恥じ、良心の咎めを感じるうちに、私はすっかり打ちのめされましたが、それでも神様がこのような形で働かれる意図や目的も、神様がどのようにして人をお救いになるかも理解していませんでした。私は単に、「神様の義なる裁き」が到来し、教会によって取り扱われるのを消極的に待つだけでした。

 しかし、現実は、私が心に描いていたものとは違っていました。正しく本分を尽くしていなかったために私が刈り込まれ、取り扱われたにもかかわらず、兄弟姉妹は私を熱心に指導し、おざなりであるとはどういうことか、忠実に本分を尽くすとはどういうことかを教えてくれました。おかげで、人は神様のお求め通りに行動することでのみ、正しく本分を尽くせるのだと理解することができました。いのちの入りに関して、私は取り除くことのできない悪しき考えに幾度も囚われ、心の中で苦しみました。これについて心を開き、誰かと話し合いたかったのですが、あまりにも恥ずかしくて言葉にすることができませんでした。最終的に、私は暗闇に陥り、聖霊の働きを失ってしまいました。しかし、全てを打ち明けてみると、兄弟姉妹は私を笑ったり見下したりしなかっただけでなく、私を助け、激励し、私が光の中で生きられるようにし、実践の道と罪に打ち勝つ力を与えてくれました。その後、周りの兄弟姉妹が何か間違いを犯したり、堕落を表したりした時も、教会はそれを理由に彼らを自宅に追放しなかったことを知りました。むしろ、教会は彼らと話し合い、支えることに全力を尽くし、何度も繰り返しチャンスを与えたのです。ある人が最終的に教会から追放されたとしても、それはその人に人間性がなかったからです。そのような人は教会の働きを乱して妨害し、積極的な役割を果たしていなかったのです。彼らはいつも自分の本分を型通りに行なうだけで、何ら実際的な成果を挙げず、幾度も刈り込まれ、取り扱われ、話し合いがもたれたあとも、悔い改めるのを拒みました。しかし、教会はそのような人でも、悔い改めて目を覚ますのを待ち続けます。その人たちが真剣に自分を見つめ直し、しばらく後に変わることができれば、教会は訓練の機会と善行を重ねる機会を与えてくれるのです。私はこれらの事実のおかげで、神様は戻ってきた放蕩息子を比類なき愛と優しさで迎え入れる両親のような態度でいらっしゃることを知りました。そのとき初めて、神様が憐れみと愛をもって人を扱われるか、あるいは義と威厳と怒りをもって人を扱われるかにかかわらず、そのすべては最大限可能な限り人類をお救いになることだと気づきました。そのすべてに人類に対する神様の無限の愛と救いがあり、それはどれも神様の本質によって定められたものなのです。私は神様の御心をじっくり考えながら、暴かれたり、交代させられたり、追放されたりした人のことを思い浮かべました。彼らは暴かれ淘汰されるという環境に置かれて初めて、自分を反省し、サタンによる堕落の真相をはっきり知り、神様の御前でひれ伏して真に悔い改めるようになるのです。そのような失敗がなければ、同じ道を無闇にさまよい続けるだけでしょう。神様のなさる働きはまことに人類をお救いになる働きであり、人間に対する神様の愛と善意を含んでいるのは明らかです。以前、私は神様の救いの働きを本当に理解していませんでした。神様に関する私の理解はかくも一方的だったのです。

 その時、神様の御言葉の一節が頭に浮かびました。「キリストの本質は何でしょうか。キリストの本質は人類に対する愛です。キリストに従う者に関しては、それは無限の愛です。もしキリストに愛と慈悲がないなら、人々は現在までキリストに従えないでしょう。『それなら神はやはり義ではないのですか』と言う人もいます。はい。キリストはやはり義であるのはそのとおりですが、キリストの性質の観点から、キリストの義は人類の堕落と邪悪に対する憎しみです。もしキリストに愛のない義があるだけならどうなるでしょうか。もし愛が義を圧倒し得ないとするならばどうなるでしょうか。それなら人類は終わっていると言えるでしょう。それゆえ、わたしはあなた方に率直に話しており、つまり、神の受肉のときの間に神が人類に行う働きの中で、神の最も顕著で卓越した本質は愛です。それは無制限の寛容です。それが愛でなく、あなた方が想像するように人々を滅ぼす神ならば、滅びを語ることで人々は滅ぼされ、人々への憎しみを語ることで人々は罰せられ、呪われ、裁かれ、懲らしめられ、それは非常に深刻でしょう。もし神が人々に怒っているなら、人々は恐れと震え、神の視界の中に立てないでしょう…。これは神の性質を表現するためのひとつの方法にすぎず、結局は神の目的はやはり救いです。神の愛は神の性質のすべてのあらわれに流れています。これを振り返ると、受肉のときの働きの間に、人々のために最も明らかにされるものは愛です。忍耐とは何でしょうか。忍耐には哀れみがあります。内に愛があり、その目的はやはり人を救うことだからです。神には愛があるため、人々に哀れみを持つことができます。夫と妻の間に本当の愛がある場合のように、彼らはお互いの短所や欠点を見ません。怒りに駆られても、夫と妻はやはり耐えることができるでしょう。すべてが愛の基盤に確立されます。もし神が憎しみに満ちているならばどうなるでしょうか。それならば、神の態度は今あるようではなく、神の表現は今あるようではなく、結果は今あるようではないでしょう。もし憎しみと怒りのみが神にあり、裁きと刑罰しかなく、そこに愛がないならば、状況は今あなた方が見るものではなく、あなた方人々は良い状況にないでしょう。神はあなた方に真理を与えるでしょうか」(『キリストの言葉の記録』より)私は以前にこの一節を目にした時、それを受け入れたとは言っても、実は理解しておらず、依然として神様への不信感と警戒心で一杯でした。今になって初めて、これらの御言葉の本当の意味を少しは理解できるようになり、あまりに多くの本質が込められていることも認識できるようになりました。その行間には、人類に対する神様の深い愛情、神様の善意による供給、支え、教えが満ち溢れているのです。

 この時、私は神様に対して深い罪悪感を抱かずにいられなくなりました。「ああ、神よ。これまでずっとあなたに従い、あなたを信じてきたにもかかわらず、私はあなたを理解していませんでした。私はあなたの慈母のような心に対して盲目で、不実にも誤解していただけでなく、沢山の苦痛を与えてしまいました。私は本当にあなたの御前へと出るのにふさわしくありません。あなたの救いを受けるなどもってのほかです。私はあなたの呪いを受ける価値しかありません。それにもかかわらず、あなたは私の不従順を基にして私を扱われません。むしろ、私を力強く賞揚し、憐れみ、耐えてくださっています。私はそれによってあなたの愛と恵みを享受し、あなたの美しさと優しさを見、『神は義であり、それ以上に愛である』という御言葉の実相を体験することができるのです。今後はあなたの御言葉と真のいのちを通してあなたの魅力をより深く知り、あなたを愛する正直な人になるよう努め、本分を尽くしてあなたの偉大な愛に報いてまいります。