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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

受肉した神の働きと霊の働きの違いは何か

2020-02-04 15:44:35 | 賛美の心

 「モーセは言った、『どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください』。ヤーウェは言われた、『…しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである』。」(出エジプト記 33:18-20)

 「ヤーウェはシナイ山の頂に下られた。そしてヤーウェがモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。ヤーウェはモーセに言われた、『下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、ヤーウェのところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。ヤーウェに近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。ヤーウェが彼らを打つことのないようにするためである』。」(出エジプト記 19:20-22)

 「民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう』。」(出エジプト記 20:18-19)

 「すると天から声があった、『わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう』。すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、『雷がなったのだ』と言い、ほかの人たちは、『御使が彼に話しかけたのだ』と言った。」(ヨハネによる福音書 12:28-29)


関連する神の言葉

 神が人を救うとき、霊の手段を用いたり霊として直接行なわない。というのは、神の霊は人が触れることも見ることもできず、人が近づくこともできないからである。もし神が霊の立場で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け入れることはできないであろう。そして、もし神が造られた人の外形をまとわないなら、人はこの救いを受け入れることはできないであろう。というのは、ちょうど誰もヤーウェの雲の近くに行くことができなかったように、人は決して神に接近することができないからである。被造物である人となることによってのみ、すなわち、言葉を神がまとう肉体に入れることによってのみ、神は従ってくるすべての人たちに直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は自分自身で神の言葉を見聞きし、さらに言葉を自分のものとし、これによって、完全に救われることができる。もし神が肉とならなければ、肉なる人はそのような大きな救いを受けることもできないし、誰一人救われることもないであろう。もし神の霊が人の間で直接働いたなら、人は打ち倒されてしまうか、神と係わる方法がないまま、サタンにすっかり連れ去られ囚われるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神は受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通して直接語りかけ、人間には神と直接接触する方法がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができたであろうか。もしも霊のみがこの働きを行なったならば、人間には神の性質を知る方法がなかったであろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言が肉に現れるとき、神がその全性質を肉体をもって表現するときだけである。神は本当に人間のもとで暮らしている。神は触れることができる。人間は本当に神の性質、神のもつもの、神であるものと関わりをもつことができる。この方法においてのみ、人間は本当に神を知ることができるのである

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

 救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは感動あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。

  『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より

 真理を求め、神の現れを待ち望む者すべてにとって、霊の働きは感動と啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、偉大で超越的で崇めるべきものであるが誰にも達成できず手に入れることのできないものという感覚だけを与える。人間と神の霊とは、遠くから互いを見ることしかできない。まるで両者の間に遠い隔たりがあるように。そして、けっして似ることがない。まるで、目に見えない境界で隔てられているかのように。実は、これは霊が人間に与えた幻影である。なぜならば、霊と人間とは種類を異にするものであり、霊と人間はけっして同じ世界で共存できず、霊には人間的な要素は何もないからである。だから、人間には霊は必要ではない。霊には、人間に最も必要な働きを直接することができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的かつ正常で謙虚で普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を恐れはするだろうが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすいように思われる。遠くの不可思議な存在ではなく、目に見え、触れられるのだ。この肉体は人間と同じ世界にあるのだから。

  『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より

 神が受肉していなかった時、神の言葉が完全な神性から発せられたものであったため、人間は神の言葉の多くを理解していなかった。人間には理解できない霊的領域において言葉が表出されていたので、神の言葉の観点と背景は人間にとって見えないものであり、到達不可能なものであった。肉を持つ人間にとって、霊的領域に立ち入ることは不可能であった。しかし神が受肉した後、神は、人間性の観点から人間に対して語り、霊的領域から出てそれを超えた。神は、神の神性の性質、旨、姿勢を、人間が想像できる物事、生活の中で見たり遭遇したりしていた物事により、人間が受け入れられる方法を用い、人間が理解できる言葉で、また人間が把握できる知識で表出することにより、人間が神を理解し知り、人間の能力の範囲内かつ人間に可能な程度で、神の意図と神が求める基準を理解できるようにすることが可能であった。これが、人間性における神の業の方法と原則であった。神が肉にあって業を行う方法と原則は専ら人間性により達成されたが、そうした方法と原則により、神性から直接業を行う事では達成できない結果が実際に得られた。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 受肉した神の働きが途方もなく素晴らしいことを人は今では理解でき、そこには人には達成できないことがたくさんある。それらは奥義と不思議である。だから、多くの人たちは服従して来た。誕生してから一度も誰にも従ったことのない人たちも、今日、神の言葉に触れると、彼らはそうと気付かないまま完全に従うのである。彼らはあえて綿密に調べることも、何か他のことを言うこともない。人類は言葉の下に倒れ、言葉による裁きの下に平伏している。もし神の霊が直接人に話しかけたら、人はみなその声に服従し、啓示の言葉がなくても倒れ、ちょうどパウロがダマスコへの途上で光の中で地にひれ伏したようになる。もし神がこのように働き続けたなら、人は言葉による裁きを通して自分の堕落を知り、救いを得ることもできないであろう。肉になることによって初めて、神は言葉を直接すべての人の耳元に届け、その結果聞く耳のある人はすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けることができる。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるというようなものではない。このような実践的でしかも並はずれた働きを通してのみ、長い間奥深く潜んだ人の古い性質を完全に明らかにし、人がそれを認め、性質を変えることができる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいては、神は実践的に語り裁くことで、言葉によって人に裁きの結果を達成する。これは受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉の神の権威を知らせ、言葉の働きが達成した結果を知らせ、霊が肉となったことを知らせるためになされ、また言葉による人間への裁きを通して神の権威を実証するためになされる。神の肉体は平凡で普通の人間の外形であるが、神が権威に満ちており、その「人」が神自身であり、その言葉は神自身の表現であることを人に示すのは言葉が成し遂げる結果である。これはすべての人間にこの「人」は神であり、肉となった神自身であり、誰も犯すことはできないことを示している。誰も言葉による神の裁きを超えることはできず、暗闇のどんな勢力も神の権威に打ち勝つことはできない。人間は彼に完全に服従するのは、彼の言(ことば)が肉となった故、彼の権威の故、言葉による彼の裁きの故である。肉となったこの人がもたらす働きは、彼のもつ権威である。肉となったのは、肉は権威を持つこともでき、人に見え実体のある実践的な方法で、人の間で働きをなすことができるからである。そのような働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりも現実的で、その結果も明らかである。これは受肉した神の肉体は実践的な方法で語り、働くことができるからである。肉体の外形は権威を持たず、人が近づくことができる。一方、彼の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。彼が話し働くとき、人は彼の権威の存在を感じることはできない。これは彼の実際の働きにとっても好都合である。そして、そのような実際の働きはすべて成果を上げることができる。たとえ誰も彼の権威を持つことに気付かず、誰にも犯されることがないことや神の怒りを知らなくても、彼の覆われた権威と隠れた怒り、そして公に語られた言葉を通して、彼はその言葉により意図した成果を達成する。すなわち、口調や断固とした話し方、そして言葉の知恵のすべてを通して、人は完全に確信する。この様にして、人は一見何の権威も持っていないような受肉した神の言葉に服従し、それによって人の救いという神の目的を達成するのである。これは受肉のもう一つの意義である。つまり、より現実的に語り、彼の言葉の現実性が人に働き、その結果、人は神の言葉の力の証人となる。だから、もし受肉によらないなら、この働きは少しも成果を得られず、完全に罪人たちを救うことはできないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。

 『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より

 受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救いの働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉における働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての宗教、すべての宗派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には理解のできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質は、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。

 『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より


超大型ハリケーン「ハービー」が来襲した。「不測の風雲」の背後の警告を求めるべきだ

2020-02-03 00:44:16 | 賛美の心

 最近、アメリカの「風雲の変化」はいつも大衆の注目を集める。それは政治とは関係がなく、世の終わりの奇観、災難と関係がある。8月21日、ほとんどすべてのアメリカ国民は百年に一度しか起こらない皆既日食に驚嘆した。一部のクリスチャンは聖書の預言がすでに実現したのを見たので、「これ以上神に悔い改めないなら、どんな結末を得るだろう」と心配している。まだ一週間もたっていないのに、まれに見る、暴雨を含んだハリケーンは突然来襲した。それはもう一度、神の世の終わりの警告をもたらした。

 現地時間8月25日の夜、「ハービー」という名称の超大型ハリケーンはアメリカのテキサス州に上陸し、そしてテキサス州全域を襲った。4級の風力は米国ハリケーン・センターの予測している3級の風力を超えた。ハリケーンの最大風速は毎時155マイル(249キロメートル)に達した。こうして、「ハービー」は2004年以来初めてアメリカを襲う4級の超大型ハリケーンになった。

 現在、ハリケーン「ハービー」がもたらす強い降雨のため、テキサス州で洪水・冠水による災害が起こった。五百年に一度と言われるテキサス州の大洪水によって、少なくとも五人の死亡者が出た。州都ヒューストンの降雨量がすでに20インチに達した。ヒューストンの周辺の川の水位はまだ上がっている。それは過去最高の水位を超えるかもしれない。ヒューストンの多数の街区は水浸しになった。大風で切れた樹木や電線などの残骸があちこちに散らばっていた。暴雨に襲われたヒューストンを俯瞰しているニュース写真の中から、ヒューストンが海に陥ったかのようであるのを見た。気象部門は暴雨が8月30日まで降るかもしれないと述べている。関係部門は、今回の洪水が400億ドルの損失をもたらすだろうと見積もっている。米国大統領トランプ氏も自分ができるだけ早くテキサス州へ被災状況を視察に行くと述べた。

 たびたびの災難のゆえに、「天には不測の風雲がある」という言葉の真実性はいっそう人々に認められている。世の終わりに、地震、ハリケーン、疫病、洪水などの災難が過ぎた後、人々は沈痛な気持ちを抱いて破壊の跡だらけの故郷に直面し、死者の遺体を葬り、負傷者の傷をいやし、行方不明の人を心配するしかない。わたしたちは自分がほかのことは何もできないと認めざるを得ない。ある時、わたしたちが科学的手段によって前もってある災難を予測することができ、またいくらかの防備措置をとることができるが、でもいかなる人も災難の歩みを止めることができない。来るべきものは来なければならないし、失うべきものは失わなければならないからだ。

 災難がしばしば起こることは、神が公にこの世を裁く日が日一日と近づいてくることを示している。これは神の成就したい事実であって、いかなる人も阻むことができない。わたしたちは災難のゆえに目を覚ますべきであるし、また神の仕事記録を通して、神のみこころが何かを探究するべきである。この時、わたしは主イエスがエルサレムの神殿に向かって「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(ルカ21:6)と言ったのを思い出した。当時の人々は、なぜ主イエスが壮大な宮が崩されると言うかを知らなかった。だが、ユダヤ人が主を十字架につけて、神に逆らい、神を冒涜するという大罪を犯した後、神の言葉は実現した。そして、エルサレムの人々はローマ人に血腥くされた。二千年近くの間、ユダヤ民族全体は国の滅亡、亡命のつらさを味わった。こうして多くの人はやっと、神の当時の言葉が預言でもあれば、人々に対する戒めでもあると分かった。

 今日、わたしたちがこの混乱した邪悪な世界に直面している時、聖書の中の、世の終わりに関する神の預言を思い出した。次のいくつかの例を見よう。「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」(ヨエ3:4)。「その日が来ると、と主なる神が言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(アモ8:9)。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて生みの苦しみの始まりである」(マタ24:7-8)。ヨハネの黙示録に記されている「七つの鉢」の災害がすべて起こった後の情景:「あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。……」(黙16:19)。

 今、これらの預言のうちの一部の預言がすでに実現した。例えば、月が四回血に変わったとか、まれに見る皆既日食が起こったなど。また一部の預言は実現しつつある過程にある。例えば、現在、全世界の災難がさまざまあって、ますます大きくなる。世の終わりの災難に関する神の預言がすべて実現した時、この邪悪な暗黒の世界の有様はあの時のエルサレムよりどれほど惨めなのだろう。これはわたしたちが想像できることだ。

 神は義で真実である。受肉した主イエスが現れて働かれた時、主イエスの言葉を聞き、主イエスのみわざを見た人、例えば主の弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブなどは主の足跡に従い、主の贖いと祝福を得た。主に逆らって、悔い改めようとしないパリサイ人、およびパリサイ人と一緒に主に逆らう民たちは言うまでもなく、神に懲罰され、呪われた! 今は主の再来の日である! わたしたちは前人の教訓をくみ取ったか。神の声を聞いたなら、探究し、調べるべきか、それとも無視したり、いろいろな観念を持ったり、逆らい、拒絶することをするべきか。わたしたちの結末と運命は、わたしたちの態度と実行によって決まるのだ。

 天の国に至る門が狭い。もしわたしたちが真理を渇仰する心を持ち、虚心に神の出現を求めるなら、きっと神に顧みられ、導かれる。主イエスがこう言われたからだ。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタ5:3)。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタ7:8)。

 


スーパー細菌が襲ってきた。あなたは準備ができたのか

2020-02-02 20:03:07 | 賛美の心

 ここ数年来、臨床上細菌感染が敗血症を誘発したために亡くなった患者は少なくない。老人の命であれ若者の命であれ、男の命であれ女の命であれ、体質の丈夫な人の命であれ体質の弱い人の命であれ、細菌、ウィルスの前では同じように弱いのである。さらに恐るべきことは、細菌感染を治療するのに用いられる抗生物質がもはや細菌に抵抗できなくなり、次第に効用を失いつつあることである。細菌の薬物耐性はますます強いが、でも今のところ、医学界ではまだほかの「強力」な抗生物質がない。人々の命の安全に対する細菌の脅威はますます大きくなる。「細菌の薬物耐性」も医学界の早急に解決しなければならない一大難題になった。

 

 「細菌の薬物耐性」とは、細菌の、抗生物質に抵抗する性質である。細菌は三種以上の抗生物質に抵抗できたら、「スーパー細菌」と呼ばれるようになる。スーパー細菌の危害は普通の細菌の危害よりもっと大きい。台湾の2007年の研究では、スーパー細菌となったアシネトバクター・バウマニによって敗血症にかかった患者は一般の敗血症患者より死亡する可能性が二倍高く、しかももっと長い治療時間を必要としているということが示されている。EUでは、毎年スーパー細菌のゆえに死んだ者が2.5万人にのぼる。全世界では、毎年スーパー細菌のゆえに死んだ者が70万人にのぼる。目下のところ、まだスーパー細菌に対する有効な治療法がない。

 スーパー細菌の危害を抑制できないが、でも適切に防ぐことが必要である。スーパー細菌の発生する主な原因は抗生物質の乱用、および傷口の感染や手術用機器との接触による感染である。だから、よい生活習慣、よい薬の使用の習慣を身につけることは、スーパー細菌を防ぐのに非常に重要である。

1.よい薬の使用の習慣
 抗生物質の乱用は、スーパー細菌の発生の重要な要因である。多くの人は抗生物質に頼りすぎるため、薬を乱用するようになる。実は、普通の風邪を引き起こし、鼻水が出、インフルエンザにかかるのはウィルスのためであり、細菌感染のためではない。だから、抗生物質で治療しないほうがいい。患者は風邪の進み具合に対する医者の判断に基づいて、抗生物質を使うかどうか、またどのくらいの抗生物質を使うかを決めるべきである。

 薬の分量と、薬を飲む時間は医者の要求に従わなければならない。意のままに薬の使用をやめたり、自分で薬の使用法を決めたりしてはならない。さもなければ、患者自身のためにならないだけではなく、しかも細菌の薬物耐性を速く強める。

2.正しい手を洗う習慣
 正しい手を洗う習慣は、手の洗い方と手洗いのタイミングを含んでいる。正しい手の洗い方には五つの手順がある。すなわち、水で手を濡らすこと、こすり洗いすること、洗い流すこと、両手を上げること、手を拭くことである。その中の最も重要な手順は、「こすり洗いする」という手順である。両手を石鹸やハンドソープで少なくとも二十秒こすり洗いしなければならない。では、いつ手を洗わなければならないのか。咳やくしゃみをしたり、鼻ををかんだりした後、食事の前、トイレの後、或いは公共の場所の公共物に触り、公共交通機関を利用した後、すぐに手を洗わなければならない。

3.体の鍛練に励み、抵抗力を強める
 抵抗力は、スーパー細菌に抵抗する最もよい薬である。一般的には、体質がよく、抵抗力が強い人であればあるほど、細菌に感染する可能性は低い。だから、いつも体を鍛えれば、自分の抵抗力を高めることができ、病気にかかり、或いは細菌に感染する可能性を有効に低めることもできる。

 客観的な協力はスーパー細菌に感染する可能性を有効に低めることができるが、根本的に問題を解決することはできない。では、わたしはほかの対処する方法があるのか。聖書にこう書かれています。「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も。あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない」(詩編91:1-7)。全能者は人類の依り頼む方、人類の贖い主であり、また人類が病気にかかり、災難に遭う時の避けどころである。彼の力ある御手はわたしたちを庇護して、すべての疫病、ウィルス、すべての苦難から遠く離れさせることができる。真心をもって彼に依り頼んで、彼をあなたの依り頼む方、あなたの救い主にさせよう! 彼はきっとあなたを平安の中に守ってくださる!

 スーパー細菌が襲ってきた。あなたは本当に準備ができたのか。


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「モーセが人をカナンの土地の偵察に遣わした」ことによって考えさせられること

2020-02-01 16:45:11 | 賛美の心

 聖書の旧約にこう記されています。「モーセは主の命令に従い、パランの荒れ野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの人々の長である人々であった」(民数記 13:3)。「イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。『我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない』。」(民数記13:32-33)。「共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った」(民数記14:1)。

 これらの聖句は、モーセはイスラエル人を導いてエジプトから出た後、カナンの地に向かい、モーセはイスライルの十二部族の長たちに、カナンに行って状況を探るように命じました。彼たちはそこに着いた後、ヨシュアとカレブ以外のほかの十人はそこに住んでいる人の体が強健で力も強いのを見て、非常に恐れていました。そこで、この十人は戻って悪く言いふらしたため、イスラエル人は悪い情報を聞いて、至るところ泣き叫ぶ声、モーセが彼たちを導いてエジプトから出るべきではなかったと文句を言ったことを記載されています。

 しかし、ヨシュアとカレブは心の中で神の位置があるので、衣を引き割き、イスラエルの人々の共同体の全会衆に訴えました。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」(民数記14:7-9)。

 しかし、当時多くのイスラエルの民は多数の人の流す悪い情報を信じるだけで、ヨシュアとカレブからのよい知らせを信じず、彼ら二人がイスラエル人を死亡の地に導き入れようとするとさえ思っていて、石で彼らを打ち殺そうとしました。

 ヤーウェ神はモーセに言われました。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう」(民数記14:11-12)。最終的に、悪い情報を流す人たちはみな疫病で死に、悪い情報を信じた人たちは荒れ野で倒れて死にました。

 このことから思わず次のことを連想させます。旧約聖書の中にはメシアが来られると預言されていますが、メシアが来られた時、悪い情報を流す陣営とよい知らせを伝える陣営という二大陣営が現れました。

 ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人は主イエスに大きな権威と力があるのを見たが、主イエスの働きが律法の範囲を超え、彼らの観念、想像にかなわないので、はばかりなく主イエスに関するデマを飛ばし、主イエスを誹謗し、裁き、冒涜しました。こうして、彼らは悪い情報を流すという役割を果たしました。ユダヤの民は彼らの流す悪い情報を信じたため、彼らと一緒に悪を行い、主イエスを十字架につけました。彼らの悪行は神を怒らせました。最終的に、彼らは神に懲罰されました。しかし、主イエスの弟子たちは主イエス付き従いました。彼らはローマ政府の残酷な迫害を受けたけれど、命を惜しまずに主の福音を宣べ伝えていました。あの時、よい知らせを伝える人が少なかったにもかかわらず、神の働きは成就して、地の果てまで宣べ伝えられました。最終的に、よい知らせを伝える人たち、およびよい知らせを聞いて信じる人たちはみな神の祝福を得ました。

 これらの歴史から分かりやすいですが、神様の働きが人類に臨む時に、その都度に二つの陣営が現れ、一つは悪い情報を流す陣営で、もう一つはよい知らせを伝える陣営なのです。よい知らせを伝える人が少なくて、悪い情報を流す人が多いです。同時に多くの人は真理を持っていないので、善悪、是非をはっきり見分けることができず、いつも多数の人の流す悪い情報を信じて、少数の人の伝えるよい知らせを拒絶します。しかし、善には善の報いがあり、悪には悪の報いがあります。すべての世代の中で、悪い情報を流す人たち、および弁別力を持たなくて悪い情報を信じる人たちは当然の懲罰と当然の報いを受けましたが、よい知らせを伝える人たち、および神様に関するよい知らせを信じる人たちは神様の祝福を得ました。

 私たちは歴史を振り返って自問して見ましょう。これに似てることを私たちの前に置くとすれば、私たちは悪い情報とよい知らせを見分けられますか。私たちはどう選択すればよいでしょうか。


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