高天原(たかあまはら)三丁目

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鈴木三重吉 「古事記物語」の 解説文

2016-05-06 22:30:01 | その他

鈴木三重吉は明治15年9月、広島市猿楽町で生まれました。
京都の第三高等学校を経て、明治37年9月、東京帝国大学英文科に入学しました。
そして夏目漱石の講義を聞きました。
この時から漱石に傾倒し、大正九年漱石が死ぬるまで師事しました。
師事したばかりではなく、一生、漱石を尊敬し続けました。


三重吉が小説家として立っていたのは、大正五年、彼が三十五歳の時までであります。

その後五十五で死ぬるまでの二十年間は、児童文学者というのでしょうか、わが国児童のために、世界の名作童話を紹介することにつとめました。

彼がこの二十年間出していた児童雑誌「赤い鳥」は今でも多くの人にたちの心に、美しい記憶となって残っております。
この「赤い鳥」によって、わが国の童話文学が初めて世界の水準に達したのであります。綴方が今のような自由な文体となり、立派な文学となったのも、「赤い鳥」の功績であります。童謡が創作されて、うたわれだしたのも「赤い鳥」によってであります。

ところで、この「赤い鳥」に三重吉がこの古事記物語を発表したのは、大正八年七月のことであります。

歴史童話と名づけて、「女神の死」「天の岩屋」と毎号続けていたようであります。
「赤い鳥」の総目次を見ますと、翌年の九月号まで、十四回載っております。
そしてまた年譜によりますと、十一月にはそれを上下二巻にして、赤い鳥社から出版しております。
この本が出版された最初でありましょう。

三重吉が、どういう気持ちで古事記を児童のための物語にしたか、私は知りません。

全集の随筆や感想類を集めたところを調べましたが、これについての文章はありません。
そこで、想像される事は、ギリシャ神話についての連想であります。
ギリシャ神話が西洋の子供もつ力は、いろいろの本に書いてあり、外国の偉人伝の中にも書かれております。
それは、西洋の子供たちの愛読書の一つのようであります。
そして彼らは強い影響を受けるのであります。幼少年時代に、このギリシャ神話は影響するばかりではありません。
西洋の文化にこれが働いている力というものは大変なもので、この神話を知らないでは、星の名、花の名なども正しく理解されないくらいであります。
西洋文化源流の一つなのでありましょう。


古事記は、ギリシャ神話と同じように、わが国の神話であります。
神話というものを、どう解釈したらいいか。私はよく知りません。
しかし、三重吉「赤い鳥」に発表した時、歴史童話と目次に書いてる事に注意しなければならないと思います。
今から三十五年も昔の事で、それを神話とか、伝説とか言うことが出来なかったのではないかと思います。
それにしても、タカマガハラだの、イサナギのカミ、イザナギのカミなどという神様の話を、歴史として、事実として受け取らなければならなかったということは、子供たちにどんな影響があったでしょうか。

他人のことは知りませんが、私もその時代に育ち、そういう教育を受けてきました。

で、そういう教育からは、一つの型を学んだように思います。
たとえば、そのころの先生は教えました。「朝起きたら、お父さん、お母さんの前に手をついて、お父さん、おはようございます。お母さん、おはようございます。と言わなければいけない」

私は正直なの農村の子供でしたから、その翌朝、何度も何度も言いしぶったのち、ホントウに母の前に手をついて、おはようございますと言いました。
母はおどろいたようでした。私とても、どんなに恥ずかしかったことでしょう。二度と、そんなことが言えるように思われませんでした。
それから、学校へ行って、友達の様子を見ると彼らは一人として、そんなことを実行しているように思えませんでした。
先生のうちだって、そうであるようには思われないないのであります。

それは、つまり学校でのことなのです。

教室の話なのです。話だけなのです。真実ではないのです。

こういう事が分かってみると世の中は分からない事もわかり易くなったようです。

古事記もその一つです。古事記は神様の話しだって言う事です。

しかし人には言いにく話しです。

明治以来の人は皆そう考えていたのではないかと思います。

古事記物語は皇室の御先祖の話しです。

だからその表現は三拝九拝して書かなければなりません。

只、今はいい時代になりました。正直な子供達の前に隠す所なく真実が語られる時代になりました。

古事記は我が國の国民性の一つに思います。

多くの人に読まれる事を祈ります。

昭和 29年 坪田 譲治

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