高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

手前勝手なご都合主義の人物(李承晩)

2016-10-09 14:15:29 | 歴史
在日韓国人の皆さんは、自分たちは戦前、日本政府によって無理やり強制連行されてきた被害者であるといいます。

そうであるなら、おかしなことがあります。

北朝鮮に無理やり拉致された日本人について、日本に住む日本人は、拉致被害者の一日もはやい帰還を、みんなが願っています。

それが民族としての普通の国民感情です。

米軍でも、兵士が敵国に捕虜になれば、命がけでその奪還に動きます。

それが世界の「あたりまえ」の人の感覚です。

ところが韓国人は、日本にいる在日韓国人のことを、「僑胞」と読んで、頭から軽蔑し、韓国帰還さえも露骨に拒否します。


韓国の歴代の大統領からして

「私は僑胞の連中を信用などしていない。」

「僑胞は僑胞だ。韓国人ではない。」


などと発言しています。

全く酷い話しです。

自国の国民が「拉致」されたというのなら、その国の大統領は拉致被害者の帰還を促進することが、国民感情への答えになるはずだからです。

手前勝手なご都合主義の人物が、韓国建国の主となり、韓国という国家の基礎を築きました。

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ねずさんのひとりごとより

「李承晩と朝鮮戦争」を下記に転用します。


いま朝鮮半島は38度線によって南北に分断されています。
昭和25(1050)年から昭和28年にかけて起きた「朝鮮戦争」による結果です。

この朝鮮戦争を、韓国では「韓国戦争」と教え、日本と戦い、日本をやっつけて追い出した戦争と教え、38度線によって朝鮮半島が南北に分断されているのも日本のせい、だからもし「韓国戦争」が再度勃発したら、韓国の人達は武器を手にして日本と戦う、のだそうです。

ぜんぜん違います。

そもそも朝鮮半島が二つに別れた、その原因自体が、韓国にその最大の責任があります。
なぜなら、もともとは朝鮮半島は日本の一部でした。
そして大東亜戦争が終結した直後には、半島全体がひとつの国家として独立しようとしていたのです。
昭和20年9月6日のことです。

国名を「朝鮮人民共和国」といいました。


戦時中まで、朝鮮半島は朝鮮総督府がありました。
戦争が終わり、日本が半島を手放したとき、そのまま総督府の機能が統一朝鮮として統一国家の建国に結びつく筈だったのです。
そして朝鮮戦争においても、人々を護るために真剣に戦い、韓国を救った英雄もいたのです。


大東亜戦争の終戦当時、朝鮮総督府には呂運亨(ヨ・ウニョン)という立派な人がいました。

この人は、ほんとうに立派な人で、彼は終戦後すぐに朝鮮建国準備委員会を設立し、半島統一国家の建設を企図しました。

そして「朝鮮人民共和国」の建国宣言も、行ったのです。
実は、これは占領軍となった米軍にとっても必用なことでした。
米軍が効率的に朝鮮半島内を統御するためには、米軍(占領軍)の指令を、効率的に国内に徹底できる行政機構が不可欠だったからです。

この統一朝鮮の立国に、猛然と反対したのが、李承晩でした。


英語に堪能な彼は、米軍に、統一朝鮮といいながら、そこに共産党員が入っているのはケシカランと、呂運亨率いる「朝鮮人民共和国」も「朝鮮建国準備委員会」も否認するようにはたらきかけたのです。


李承晩は、明治8(1875)年生まれの朝鮮人の独立運動家です。
生家は李氏朝鮮の初代王である太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の末裔を名乗っていますから、彼は李氏朝鮮時代の貴族階級にあたる両班(やんばん)です。

貴族というと、日本人なら誰もが平安時代の貴族のようなミヤビで高貴な人たちを想像します。
けれど李氏朝鮮の時代における両班は、日本の貴族とはまるで違います。
単なる民衆からの搾取者、高圧的特権階級でした。

一般の人、これを白丁(はくてい)といいますが、白丁は人でなく、家畜以下、まるで野良犬か野良猫のような存在とみなされていました。
ですから人口の九九パーセントにあたる平民(白丁)たちには、私有財産など認められません。カネも作物も女性も、全部両班たちが収奪していたのです。
そういう家系に育ったのが李承晩だったわけです。

日本が朝鮮半島を統治した時代は、半島の庶民の生活向上や庶民の人権を大切にしようとしましたから、当然、日本は、彼両班の持っていた特権を厳しく剥奪しました。
多くのまともな両班は、そうして国全体が栄えることを良しとしましたが、一部の両班は日本が民衆に力を与えたのが憎くて仕方がない。特権が削がれたからです。

元両班だった李承晩は、日韓併合によって朝鮮半島が日本統治になると、上海に渡り「大韓民国臨時政府」を樹立して、勝手に初代大統領を名乗りました。

これが大正8(1919)年のことです。

さすがにことのときは、日本も怒って、憲兵隊が李承晩を逮捕しました。

当時の日本は、アジア諸国の独立、アジアの欧米による植民地支配からの脱却、そして人の平等を目指して戦っていた時代です。
李承晩が抱いていた思想は、あくまで朝鮮半島は両班のものであるというものです。
彼にとっては、朝鮮半島の人も富も、すべては朝鮮の特権階級、両班のものでなければならないのです。
これは日本人の持つ、人はみな対等な存在であるという理念とは、まるで指向性の異なるものです。

日本の憲兵は李承晩に対し、理を諭し、情をもって彼への説得を試みました。

しかし李承晩は火病を起こしてわめきちらしました。

このとき、あまりの有様に腹を立てた憲兵が、李承晩に一発、ぴしゃりと平手打ちしました。
生まれて初めて人に叩かれた李承晩は、これを生涯にわたって徹底的に恨み続けました。

当時の日本では、平手打ちなんてのはあたりまえの習慣です。
平手打ちは、打たれた側は痛いけれど怪我まではしない。
打った側も手のひらが痛い。
打った側の手の平の痛みは、打った人の心の痛みです。
打たれた人は、その心を素直に感じることで反省する。
それが日本ではあたりまえの習慣であり文化でした。

ところがこれが朝鮮人の李承晩には、これがまったく通じない。

李承晩は釈放されたあと渡米し、そこで米国大統領ならびにパリ講和会議の米国代表団に宛てて、「朝鮮半島を国際連盟の委任統治領にしてもらいたい」という請願書を提出しています。

徹底的に日本を排除しようとしたのです。

終戦直後に、朝鮮半島の北部にソ連が進駐をはじめました。
ソ連軍は昭和20年10月までに「各地で自発的に生まれた」という名目の「人民委員会」を組織し、これらを管理下に置いて朝鮮北部を事実上占領していきました。

すこし補足すると、朝鮮北部に進駐したソ連軍は、朝鮮語がわかりません。
ですからソ連軍が朝鮮を支配するためには、軍事力で実行支配するだけでなく、朝鮮語を話す者たちを使って、事実上朝鮮北部を統治していく必要がありました。


そしてその手足となったのが、朝鮮人共産主義者たちでした。
ソ連は彼らに旧日本軍から押収した銃器と金を与え、自分たちが強姦したあとの日本人女性や食い物を与えました。
朝鮮人共産主義者にしてみれば、飯が食えて金がもらえて、いままで支配者側だった「高貴な」日本人女性を強姦できて、金持ち日本人の財物も奪いたい放題となったわけです。

そういうことを喜ぶ馬鹿者どもが、「人民委員会」のメンバーでした。

歴史は複雑に絡みます。

同じ頃、シナでは、蒋介石率いる国民党の敗退が始まっています。
なぜいきなり敗退したかといえば、米英が、蒋介石率いる国民党への支援を打ち切ったからです。
米英はそれまで蒋介石率いる国民党に、日本と戦わせるために豊富な軍事物資や食糧、金銭などの支援を行っていましたが、日本との戦争が終れば、彼らはもう「用済み」です。

薄情なものです。

蒋介石の国民党は軍閥です。

米英の軍事的経済的支援があったから人を集め得たのです。
なにせ軍というのは大勢の兵士たちを養わなきゃならない。
支援物資の補給を断たれたらもはや存続は困難だったのです。

そこへソ連から旧日本軍の装備を無償で譲り受けた毛沢東率いる八路軍(中国共産党)が襲いかかりました。
勝敗はおのずと明らかです。
補給を断たれた国民党はシナ各地で八路軍に追われ、シナは赤化が目前となっていました。

ソ連は、毛沢東率いる八路軍に豊富な武器や食料を与えたやり方と同じ方法で、朝鮮半島を我が物にしようとしたのです。
ここで使われたのが金日成(キム・イルソン)でした。
そして朝鮮半島の米国進駐軍による半島の国家基盤が定まらないうちに、金日成は、朝鮮北部にはいって昭21(1946)年2月8日、「朝鮮臨時人民委員会」を設立しました。

一方、当時米国にいた李承晩は、朝鮮半島に統一朝鮮国として成立した呂運亨(ヨ・ウニョン)率いる「朝鮮人民共和国」について、米国内であらゆるロビー活動を展開し、新たに設立された呂運亨の「朝鮮人民共和国」には、ソ連に煽動された共産主義者たちが混入しているから、そういった者たちと一緒に統一朝鮮を作ることには疑問があると主張しました。
李承晩は、金日成率いる共産主義者たちを駆逐したあとに、米国進駐軍の力で統一朝鮮を建国すれば良いと説いたのです。

これは、第二次世界大戦後、急速に問題化した共産主義への抵抗運動と結びつき、効果を奏しました。
米国は、呂運亨(ヨ・ウニョン)の「朝鮮人民共和国」を否定、親米家である李承晩を大統領にした、新たな朝鮮半島の運営を模索するようになります。

ところがソ連は、そんな抵抗があるのは百も承知です。
また、北の金日成にしても、せっかく朝鮮半島北部を武力制圧したのに、そこから追い出されたのでは、それまでの努力が水の泡です。
とりわけ朝鮮半島の北側には、日本が建設した工業地帯があります。
朝鮮半島の富のほとんどを北側が握っているのです。
そこを金日成は押さえています。

富があり、武力があり、ソ連の完全なバックアップ体制もある。
そんな北朝鮮を、金日成が手放すわけがありません。
李承晩に引きずられた米国が、半島内の共産党員に手こずっている間に、金日成は、さっさと「朝鮮臨時人民委員会」を設立してしまった、というのが、この頃の流れです。

冒頭に書きましたように、そもそも戦前の朝鮮は日本に併合されていましたから、南北の切り分けなんてなかったのです。
そこには朝鮮総督府があり、その総督府の機能がそのまま統一朝鮮の建国に結びつく筈でした。
米国に亡命していた李承晩は、朝鮮半島での反共産勢力による早期国家設立を米国に迫りました。
こういうところの調子の良さは、見事なものです。
そして李承晩は、北朝鮮に遅れること16ヶ月、ようやく李承晩をリーダーとする「南朝鮮過渡政府」を昭和22(1947)年6月に誕生させたのです。


米国は、共産主義者と民主主義者が対立を深める朝鮮半島について、同年11月、国際連合に半島統治問題を提起しました。
北の金日成は、この動きに危機感をつのらせます。
金日成は、翌昭和23(1948)年2月8日に「朝鮮人民軍」を創設しました。
そして同月26日に、北緯38度線以北に「朝鮮民主人民共和国」の成立を一方的に宣言します。

せっかく国連に話し合いを提案したのに、という矢先の出来事です。
米国は北朝鮮を激しく非難しました。
けれど黙って非難されている金日成ではありません。
彼は実力を行使しました。
なんと南半部への送電を全面的に停止したのです。
当時南半部の電力は、日本によって建設された北部のダムによる発電に頼りきっていました。

同時に半島南端にある済州島にいた南朝鮮労働党の共産ゲリラが、これに呼応して蜂起しました。

李承晩は、すぐさま暴動の鎮圧に乗り出しました。
済州島の共産ゲリラは、少量の武器しか持っていませんでした。
これを良いことに李承晩は、済州島に韓国軍を派遣し、島民8万人を虐殺してしまったのです。
8万人です。たいへんなことです。

これを昭和23(1948)年の「済州島四・三事件」といいます。

実力行使によって暴動を陳圧した李承晩は、同年8月15日に「大韓民国」の成立を宣言しました。

これを受けて、北朝鮮の金日成は翌9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」の建国を宣言しています。
これにより38度線は、単なる緯度ではなく、「国境」となったのです。

昭和25(1950)年1月12日、米国トルーマン政権下のディーン・アチソン国務長官は、
「米国が責任をもつ防衛ラインは、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までである。
それ以外の地域は責任をもたない」と発言しました。

この発言に、朝鮮半島は含まれていません。
これは、米国が、南北朝鮮の衝突を避けようとしたためだと言われています。
そしてもっと大事なことは、済州島民を大量殺戮して意気軒昂となっている李承晩を抑え込もうとしたためだと言われています。

この頃の李承晩は、日本に対して竹島領有宣言など、報復的、敵対的発言を重ねていました。
理由は単純です。
上海で統一韓国臨時政府樹立を行い、日本の憲兵隊に逮捕されて平手打ちを食わせられたことへの、個人的な怨恨です。
「恨(はん)の国」が聞いて呆れます。


こうして李承晩は、韓国の南に位置する日本に対して激しい敵対心を燃やし、日本に対しての敵対的意思を明確に主張していました。
ところが李承晩はその一方で、北朝鮮を国家として認めず、どこまでも朝鮮半島の統一とそのための戦争を頑強に主張していました。
これは、素人が見ても異常です。
北側に明確な敵がいるのです。
にも関わらず、故意に南側にも敵をわざわざ自分でこしらえているのです。
政治家として、異常としか言いようがありません。

くわえて米軍にしても、もう第二次世界大戦は終わったわけで、いまさら誰も戦争などやりたくありません。
米国内の世論だって、もう戦争にはあきあきです。
だから米国政府は李承晩にいい加減手を焼いていました。
キチガイに刃物を持たせるとろくな事になりません。
ですから米軍は、李承晩直下の韓国軍の軍事力を極力制限させ、その代わり、韓国の軍事力の大半を米国で請け負うことで、韓国軍が単独で重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ごうとしていました。
韓国に僅かな兵力しか与えないことで、とにかく李承晩の暴発と半島内での紛争を防ごうとしたのです。

一方、このことは、北の金日成にとっては、南朝鮮の李承晩による北侵攻の危機を抑え込む好機を意味しました。

「いまなら半島全体を北のものにできる」

そう判断した金日成は、昭和25(1950)年3月にソ連を訪問し、スターリンに李承晩との開戦許可を求めました。

スターリンは、毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認しました。

同時にソ連軍事顧問団に、南侵計画である「先制打撃計画」の立案を命じました。
スターリンの考えは、金日成の南進によって朝鮮人同士で戦わせ、万一、金日成がしくじることがあっても、ソ連は直接には手を下さず、毛沢東に後ろ盾をさせようというものだったといわれています。
同年5月、金日成は支那に毛沢東を訪ね、「北朝鮮による南半部への侵攻に際し、中華人民共和国がこれを援助する」という約束を取り付けています。



こうして始まったのが、朝鮮戦争です。
昭和25(1950)年6月25日午前4時、突然、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始されました。
宣戦布告なんてありません。

いきなりの侵攻です。

開戦の30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を突破しました。

ちなみに北朝鮮は、現在に至るまでこの開戦を「韓国側が先制攻撃してきた」と主張しています。けれどこの主張は、ソ連崩壊後のロシア政府でさえ、公式に否定していることです。

このとき前線の韓国軍は、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていただけでした。
どういうことかというと、韓国軍兵士の多くは6月の田植えのために、ほとんどが田舎に帰っていたのです。
またソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部が二日酔いで登庁すらしていません。
李承晩への「北来襲」という報告すら、戦闘開始後6時間も経過してから、やっと韓国政府に届いたという始末でした。

手薄な前線の韓国軍には、対戦車装備なんてありません。
そこに北朝鮮軍は、ソ連から貸与されたTー34戦車の大部隊を中核に、次々押し寄せました。
各所で韓国軍は総崩れとなり、潰走しました。

金日成率いる北朝鮮は、初戦の猛攻で大勝利しました。
気を良くした金日成はこのときに、「一気呵成に李承晩を半島から追い落として、5回目の光復節はソウルで行う」と宣言しています。

北朝鮮軍の士気はおおいに盛り上がりました。

開戦三日目の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落しました。
このとき、住民に多くの犠牲を出しながら、李承晩率いる韓国政府は、その李承晩から筆頭に、さっさと南方の水原に落ちています。

このときの有名な話があります。
ソウル陥落の際、李承晩は漢江にかかる橋の爆破を命じたというのです。

漢江にかかる橋を爆破すれば、北朝鮮のソ連製戦車部隊の侵攻を遅らせることができ、それだけ南朝鮮政府は、遠くへ逃げおおせるというわけです。

けれど、この爆破のとき、漢江の北側のソウルの街には、まだ多数の韓国軍兵士や一般市民が取り残されていました。
孤立した韓国軍兵士とソウル市民は、北朝鮮軍によって随所で虐殺されました。

このとき漢江の北側で、どのようなことが行われたかは歴史の記録に残っていません。

ただひとついえるのは、圧倒的火力でソウルの街を征服した北朝鮮の兵士たちは、およそ人間ができる最悪の鬼畜非道を行ったであろうということです。

だからこそ記録がないのです。

もっと言うなら、北の兵士たちが戦時捕虜となった韓国兵士や、婦女子を含む一般市民を手厚く保護したという記録も、まったくありません。

さて、水原に落ちのびた韓国政府と韓国軍です。
彼らが落ちのびたとき、軍は敗軍そのものでした。
士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況となっていたのです。

そこにマッカーサーが、東京からやってきました。
水原は、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていたのです。
マッカーサーは米軍の派兵を韓国軍に約したけれど、その日のうちに東京に帰ってしまいました。
東京に帰ったマッカーサーは、米国政府に在日米軍2個師団を投入するように進言しました。

しかし戦争の再発をおそれたトルーマン大統領は、米軍参戦を許可しません。
それでも食い下がるマッカーサーに、トルーマンはようやく一個師団だけの派兵を許可しました。

大統領の許可を得たマッカーサーは、日本に駐留していた第二四師団の第二一連隊第一大隊を基幹とする師団を水原市に派遣しました。

部隊は水原南方の烏山の高地に陣取って北朝鮮軍を待ち受けました。

対する北朝鮮第四師団は、ソ連製Tー三四ー八五戦車やSUー七六M自走砲などの車輌を先頭に烏山に迫りました。
ちなみにこのとき派遣された米第二四師団は大東亜戦争での実戦経験を持っていません。

新たな徴用兵たちです。

旧日本軍との戦闘経験を持つ精鋭は、戦いに疲れすでに本国に帰還していたのです。

北朝鮮軍を視認した米軍は、バズーカなどで攻撃を加えました。
しかし相手はソ連の誇る新鋭戦車隊です。
バズーカごとできは、まったく歯が立ちません。
北朝鮮軍の戦車と歩兵は各所で戦線を突破し、米軍は総崩れとなって大敗してしまいました。

報告を受けたマッカーサーは、米国精鋭部隊の派遣を要請するけれど、戦争に倦んだ米国世論は、これを許しません。トルーマン大統領は、できたばかりの国連安保理に諮り、第二次大戦戦勝国諸国での多国籍軍を編成し、これを朝鮮半島に送り込みます。けれど明確な指揮命令系統のない、混成の国連軍は、やはり各所で敗退してしまいます。

李承晩は、水原も捨て南へ南へと、逃げました。
このとき敗走する李承晩は、自国を守れず潰走しながら、武器を持たない一般市民を、韓国保導連盟員や共産党関係者だと決めつけて、一方的に20万人以上虐殺しています。

自国民を殺したのです。

人というのは哀れな生き物です。
人に危害を加える人間というものは、常に周囲の人が自分に危害を加えるように見えてしまう。
武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨ててでもひたすら逃げ隠れした李承晩は、武器を持たない自国民に対しては平気で虐殺の限りを尽くしたのです。

一方北朝鮮は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などと難癖をつけて大量に虐殺しました。
北の金日成、南の李承晩は、互いに武器を持たない一般市民を虐殺しあっていたのです。

そしてこの虐殺から逃れてボートピープルとなった朝鮮人たちが、大挙して日本に逃げてきて、いまの在日朝鮮人問題をひき起しています。

朝鮮戦争の話を続けます。
李承晩は、ついに朝鮮半島南端の釜山まで追い詰められました。
釜山というのは、韓国の最も日本寄りの港町です。
いまでも日本から韓国への観光船の定期便は、福岡ー釜山間を運行しています。
つまり、日本に一番近い韓国の南のはずれの都市が釜山です。
李承晩ひきいる韓国政府と韓国軍は、ついにそこまで追いつめられたのです。

釜山はこの時点で韓国にとっての最後の砦となりました。
一方北朝鮮は、この時点で釜山以外の全朝鮮半島を制圧していました。
韓国軍は釜山を取り巻くように防御線をひきました。

このとき、米軍を主力とする国連軍はすこしずつ増援されていました。
けれど国連の多国籍軍は動かない。
兵力の逐次投入という愚をさけるためと称して、彼らは兵力を釜山にとどめたまま、戦いに参戦しなかったのです。
タテマエは「戦略的に時間をかせぎつつ大兵力がたまるのを待つ」というのですが、本音は、韓国軍が連戦連敗しているのに、なんで自分たちが命がけで北朝鮮と戦わなければならないのか、というものです。

あたりまえのことです。

ただ、このことは私たち日本人も、よく肝に銘じておく必要があります。
日米安保だ、国連だと言っても、天は自ら助ける者を扶けるのです。
自ら戦おうとしないような弱虫に、誰が変わりに命がけで戦うものか。

それが世界の常識です。

朝鮮戦争で、韓国軍が釜山という南の果てまで追いつめられたのには、もうひとつの理由がありました。
実は、韓国軍の兵士というのは、その多くが日本統治時代に、日本軍に在籍していた者たちです。
けれど個人的怨恨から日本が嫌いな李承晩は、日本軍によって薫陶を受けた元日本軍士官だった朝鮮人や、元日本軍兵士だった兵士たちを嫌って、彼らを軍の主要な任務に就けなかったばかりか、元日本軍兵士だった朝鮮人だけでの部隊の編制を厳禁していたのです。

どんなに訓練を受けた強い兵士や士官でも、上に立つ者がアホなら、戦果はあげられません。
なぜなら軍は上官の命令によって動くものだからです。

釜山まで追い詰められた時、韓国軍に金錫源(キム・ソクウォン)という人物が現われます。

彼は漢城出身のコリアンです。

日本の陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、満州事変やシナ事変で一個大隊を率いて中国軍を殲滅し、朝鮮人として初めて、また生存している佐官クラスでは、異例の功三級金鵄勲章を天皇陛下から授与された経歴を持つ人物です。

さすがの李承晩も、釜山を追い落とされたら、その先は海です。
もうこれ以上は逃げ場がない状況となったのです。
そこでやむなく(ほんとうにやむなくです)、李承晩は戦争のプロである金錫源に、軍の指揮を委ねることにしました。

金錫源は国連軍の軍事対策会議に、正式に韓国軍代表として出席を許されました。

そこで彼は言いました。

「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。
 よろしい。
日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやりましょう。」


彼はそういって軍刀の柄をたたいたといいます。
軍刀の柄を叩くというのは、決意を示す所作です。

金錫源は、元日本軍兵士たちだけでの師団を編成することを申し出ました。

李承晩も、ことここに至っては、それを認めざるを得ません。
そもそも軍事経験に乏しく、十分な訓練を受けていない日本軍での訓練経験のない韓国人士官たちは、敵が来ると、我先に逃げてしまうのです。

軍は指揮官によって動くものですが、指揮官が敵が見えただけで逃げ出す軍では、そもそも勝てるはずもないのです。

それが釜山まで追いつめられた時、やっと念願の元日本軍士官に率いられた、元日本軍兵士たちによる師団ができたのです。

金錫源は、一個師団を編成すると、全員の前で薫陶を行いました。

このとき演台の変わりに、近くにあった大きな壷に乗って兵士たちに薫陶したそうです。
金錫源将軍は、兵士たちに必勝の檄を飛ばしました。

そのとき力一杯足を踏み鳴らしたために、その壷のフタが割れ、足が壷に入ってしまったそうです。

なんとその壷は糞壷だったそうです。

平時であれば笑ってしまいそうな話ですが、そのときの金錫源将軍の迫力は、ものすごく、兵士たちはひとりとして笑うものなどいず、全員が必勝の意欲に燃えたといいます。

師団は8月15日深夜、粛々と釜山東部の守備に向かいました。
途中、金錫源将軍は師団の一部の兵士を夜陰にまぎれてどこかへ逃がしましました。
なぜ逃がしたのか、この時点で誰も知りません。

師団の移動の様子は、北朝鮮側から丸見えです。
なんのことはない。裸同然で、銃器程度の武器しかない一個師団です。
ソ連製戦車の前では、赤子同然の兵力でしかありません。

金錫源将軍の師団が釜山東部で配置に付いた時、北朝鮮軍は、戦車を先頭にした大軍で、これを包囲しました。

それは、集中放火によって、完全に金錫源将軍の師団を殲滅する作戦でした。
包囲によって、金錫源の師団は完全に孤立しました。

戦いが始まりました。
金錫源将軍は、飛び交う銃弾の中で、日本刀を振りかざして陣頭に立ちました。

そして敵軍を睥睨し「撃て~!」と叫びました。

その姿は、これこそがほんとうの軍人の姿だ、と兵の士気を著しく高めたといいます。

金錫源たちが奮戦している間、米軍は動きません。
多国籍軍も、釜山にあってひたすら沈黙を守ったままです。
つまり金錫源率いる師団に援軍はありません。
「孤軍」の状態で、金錫源たち旧日本兵師団は戦いました。

金錫源は、頃あいをみて、兵力を敵右翼に集中すると、北朝鮮軍に一斉砲撃をしかけました。
そしてにわかに突撃を命じました。

命知らずの旧日本軍の吶喊攻撃です。

北朝鮮軍はあわてて後退しました。

敵殲滅の好機到来です。
師団の士気はいやがおうにもあがりました。
ところがこのとき、なぜか金錫源は、全軍に退却を命じてしまいます。

深夜です。
日付はすでに16日になっています。
北朝鮮軍は、韓国軍が退却し始めたのを見ると反撃に転じ、金錫源軍をいっきに殲滅させようと迫ってきます。

金錫源将軍の師団は、岬を回って潰走しました。
とにかく逃げる、逃げる。
北朝鮮側は、まさに好機到来と金錫源将軍の師団を追いました。
全軍一丸となっての猛烈な追撃です。
北の戦車部隊も、全機前台一気に追い、責め立ててきました。
そして北の戦車隊が岬を回り込んだときです。
そこにこつ然と、米軍の大艦隊が出現しました。

ソ連製の戦車は、装甲が厚く、銃や迫撃砲、バズーカ砲などはまるで歯がたちません。
まさに陸の魔人そのものです。
けれど戦艦から繰り出される対戦艦用の大砲門相手では、どうにもなりません。
戦車の巨体より大きい艦砲弾が雨あられと北の戦車部隊に降り注いだのです。
北の自慢の戦車部隊は、一瞬で破壊させられつくしました。

実は、前夜、金錫源将軍の師団が移動中、一部の兵士に命じ作戦の詳細を米艦隊に連絡させてあったのです。

「師団がおとりになり、北朝鮮軍が進路を東に転じて海岸線にでたところに、米艦艇から一斉に艦砲射撃をあびせるように」

と、です。

それまでの弱腰だった韓国軍に、最初は半信半疑だった米海軍も、金錫源将軍が元日本陸軍の左官であり、勲章ももらっている人物であると聞き

「それならもしや」

と艦隊を待機させてくれていたのです。

要するに日本の信用で、米艦隊が動いたわけです。

天地がくつがえるかと思われるような轟音がひびき、無数の砲弾が北朝鮮軍第五師団のうえに降りそそぎました。

米国誇る太平洋艦隊の主砲です。
T型戦車などひとたまりもありません。

それを待っていた金錫源の第三師団は隊列を変化させ、北朝鮮軍を包囲して砲撃を開始しました。
艦砲、迫撃砲、榴弾砲などあらゆる種類の砲弾が火を噴きました。

北朝鮮の戦車は粉砕され、兵は空中に飛ばされ、隊列を乱して逃げる北朝鮮兵士は、金錫源将軍の師団の銃撃の恰好の餌食となりました。

こうして岬を回って追って来た北朝鮮軍は、一瞬で壊滅してしまいました。
北の兵士たちはバラバラになって敗走をはじめます。

ところが、です。

その潰走ルートには、金錫源が、やはりこれも前夜のうちに忍ばせてあった伏兵が待ち受けていたのです。

深夜、こっそりと師団を離脱した兵たちでした。
伏兵たちは、潰走する北朝鮮兵に猛射をあびせました。
「草木皆ナ兵ト化ス」

日本軍の伝統的戦い方が、ここに生きてきます。

恐慌状態におちいった北朝鮮軍は、軍隊組織として統制のとれた行動をすることが不可能となってしまう。
北朝鮮軍は予想外の損害をうけ、いったん盈徳を放棄して西北にさがり再編を余儀なくされてしまいます。
それだけでなく、友軍との連携すらとれなくなり、各部隊の孤立化がはじまりました。

8月22日、金錫源将軍たちが戦った釜山の反対側の西側では、遊鶴山のふもとを守っていた韓国軍一個大隊が、北朝鮮軍の攻撃に耐えかねて後退しはじめました。

ここにも元日本兵が数多くいました。

このままでは米軍第二七連隊の側面が敵にさらされてしまいます。
韓国も、米軍も、戦線の崩壊はまぬかれません。

そこに、白善燁(ペク・ソンヨプ)師団長が駆けつけてきました。
彼は散らばっていた朝鮮人元日本兵だけを集合させて座らせました。

白善燁も日本軍の出身です。

昭和14(1939)年平壌師範学校を卒業したのち、奉天の満州軍官学校に入学し、昭和16(1941)年に卒業して満州国軍に任官し、昭和18(1943)年には間島特設隊に配属され戦った経歴を持ちます。

実はこの日、白善燁師団長はマラリアを患って高熱を発し病院にいました。
けれど釜山西側の危機を知った白師団長は、集まった西側守備隊の兵士たちに

「二日間,補給もないのによくがんばってくれた。感謝の言葉もない」

とねぎらいの言葉をかけると

「ここが破れればわれわれには死が待っている。それに見ろ。アメリカ人もわれわれを信じて戦いに来ている。かれらを見捨てることができるか」

と静かに語りました。
そして突然立ち上がると、大声で兵士たちに向かって言ったのです。


「ただいまより、あの四八八高地を奪回する!
 ワレに続け!もし俺が臆病風にふかれたら後ろから撃て!」


彼はそうさけぶと、銃をとり、たったひとりで先頭にたって突撃を敢行したのです。

兵たちは驚きました。

いきなり前線にマラリアで入院中の師団長が現れたかと思ったら、鬼気がのりうつったかのように咆え、駆けだしたのです。


「師団長に続け~~!」

鬼人と化した元日本軍の韓国兵は、わずか一時間で四八八高地を奪還してしまいます。

そしてそこから谷底の北朝鮮軍にむかって猛烈な砲火をあびせました。
そしてここでも北朝鮮軍は完全に潰走します。

前線の北朝鮮軍が無力化されたことで、米軍はその退路を断つ作戦を発動します。
そして仁川に上陸すると、南進していた北朝鮮軍の補給路を完全に断ち、わずか一ヶ月半後の9月28日には、ソウル奪回まで果たしました。
勢いを得た米韓多国籍軍による南軍は、10月1日にはそのまま38度線を突破、10月20日には、北朝鮮の臨時首都の平壌までも制圧してしまいます。

これで北朝鮮が完全に壊滅とみられたとき、中国共産党義援兵が北朝鮮に味方して参戦してきました。

100万人以上の大兵力です。

米韓多国籍軍はシナの人海戦術の前に、平壌を放棄し38度線近くまで潰走してしまいます。
白村江の戦いのときと、似たような展開です。

しかしシナの大軍の装備は、ソ連から補給された日本軍の残存兵器です。
旧式兵器に頼るシナの援軍は、度重なる戦闘ですぐさま消耗し攻撃が鈍ってしまいます。
米韓多国籍軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、翌年3月14日にソウルを再奪回します。

そして戦況は三八度線付近で膠着状態となりました。

最終的に38度線を休戦ラインとして、現在にいたっています。

いまも北朝鮮と韓国は公式には戦争状態です。
以上が朝鮮戦争の概略です。



こうした史実をみるとき、いつも思うのは、戦いにおける「勢い」と「転機」ということです。
北朝鮮の南進により、もはや対馬海峡に追い落とされるのも時間の問題にまでなった韓国軍を窮地から救ったのは、旧日本軍に所属し数々の武功を立てた元日本兵でした。

金錫源将軍は、朝鮮動乱で韓国軍が雪崩を打って敗走を重ねた時、軍刀(日本刀)を振りかざし

「攻勢こそは最大の防御」

「死をもって戦うときにのみ勝機は訪れる」

と部下を叱咤激励したといいます。


韓国軍が釜山で辛うじて全軍の崩壊を免れ踏みとどまったのは、かつての大東亜戦争の英雄が「ここにあり」と奮戦する姿に鼓舞されたかだったのです。

金将軍は多くの将校が近代戦には邪魔になるといって軍刀をはずす中にあって

「日本刀は武人の魂である」

と、ひとり軍刀(日本刀)を手放さない人でした。

昭和55(1980)年、金錫源将軍は来日し、靖国神社に参拝しています。


靖国には、フィリピンのルソン島各地を中隊長として転戦し、アレプンヨ高地で壮烈な戦死を遂げた彼の次男、金泳秀が祀られているのです。

金錫源将軍は、参拝後、一緒に参拝した元日本陸軍の兵士たちに、流暢な日本語でこう語ったといいます。

「自分の息子は戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう。」

息子を犠牲者として日本を恨むような卑怯な姿は、金錫源将軍には、微塵もなかったのです。

逆に、並いる旧日本軍将兵らが、金錫源将軍に

「軍人精神の神髄」

を見たと感嘆したといいます。

ご存知の通り、朝鮮半島は北と南に、いまも分断されています。

日本統治時代までは、朝鮮半島はひとつだったのです。

それがいまでは、親戚であっても行き来ができない。
厚い鉄のカーテンによって北と南は分断されています。

けれど大東亜戦争が終わったとき、統一朝鮮がちゃんとできていたのです。

それを潰したのが、米国でロビー活動をしていた反日主義者の李承晩でした。

そしてその李承晩が、シノゴノ言っている間に、ソ連は北の金日成に力を与え、半島北部を共産党によって占領させています。

慌てて李承晩は南に政府を作るのだけれど、これを危惧した金日成は三八度線を超えて、南に攻め込んだわけです。


そのとき李承晩は、味方さえも見捨てて逃げ出しました。
逃げ出しただけでなく、あたりにいる韓国市民が、みんな共産ゲリラに見えた李承晩は、行く先々で同国人を片端から虐殺しています。
卑怯卑劣、このような人物を初代大統領に頂いたところに、韓国の国家としての不幸があるように思います。


自国民を殺しながら逃げる李承晩、追う北朝鮮軍。

南朝鮮もちゃんと戦えば、もしかしたら早期に北を駆逐できたかもしれないけれど、それを阻害したのも、やはり李承晩でした。

日本嫌いな彼は、元日本軍関係者だというだけで、疑いを持ち、元日本軍士官だった者たちを重用せず、指揮はいつの時点でも、日本軍と関係なかった者だけを用いたのです。

その結果は、常に南朝鮮の敗走でした。
それだけでなく、米軍にも多大な損害を与えてしまっているのです。

そしてついに韓国最南端の釜山まで追いつめられたとき、李承晩はやっと元日本軍士官と、元日本軍兵士に軍の指揮を委ねました。
その結果、なんと最南端の釜山まで追いつめられていた南朝鮮は、逆に北のはずれの平壌まで、北を追いつめることになったのです。

毛沢東率いる百万の支那人民解放軍の参戦を得た北は、戦線を38度線までようやく盛り返したけれど、そこで北が停戦に応じたのは、韓国にいた元日本軍兵士たちがあまりに強かったからに他なりません。

けれど、大韓民国を建国し初代大統領に就任した李承晩は、それでも日本が嫌いで、日本との国境線を勝手に定めた(李承晩ライン)りもしています。
そして李承晩の韓国建国の理念は、なんと「日本によって奪われた朝鮮半島を、朝鮮民族の手に取り戻した」というものとなっています。

つまり「日本=悪」であり、自分たちは両班が取り仕切っていた平和で豊かな朝鮮半島を取り返した英雄であるという仮説のうえに、韓国という国家が成立しているのです。

なるほど李氏朝鮮の時代、朝鮮貴族の両班たちにとっては、まさに半島は天国だったのかもしれません。

なにせ一般国民には私有財産すら認めず、女性には名も与えず、両方の乳をすぐに露出させれる服を着ることを強制し、女は犯し放題、財産やカネも奪い放題の特権階級を作っていたのです。

けれど両班にとって天国だった朝鮮半島は、他の九九%の国民にとっても、天国といえる国だったのでしょうか。

李承晩は、朝鮮戦争で敗退を続けるときに、同国人を何十万人と殺しています。

そういう手前勝手なご都合主義の人物が、韓国建国の主となり、韓国という国家の基礎を築きました。

建国の理念というのは、その国が存続する限り、その国の国民を縛り続けます。
反日という虚構に建国の理念の基礎をおいた国家というものは、誰よりもその国の国民にとって、とても不幸なことといえるのではないでしょうか。












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