高天原(たかあまはら)三丁目

感じた事、思った事を勝手気ままに紹介します。Wikipediaの転用多し。コピペも多し(笑)

天皇125代の足跡(36代~40代)

2015-09-27 15:17:46 | その他


第36代 孝徳天皇(こうとくてんのう)

生没 : 推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日(654年)

在位 : 孝徳天皇元年6月14日(645年) - 白雉5年10月10日(654年)

和風諡号 : 天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)

天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした

中大兄は辞退して軽皇子を推薦した

軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した

皇極天皇から史上初めての譲位を受け、軽皇子は壇に登って即位した

皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした

阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした

中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした

孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15日とした

『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった

この改革を、後世の学者は大化改新と呼ぶ

孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた

従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた

日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した

多数の随員を伴う遣唐使を唐 に派遣した

北の蝦夷に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた

孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた

白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた

天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた

臣下の大半が皇太子に随って去った

天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった





第37代 斉明天皇 (さいめいてんのう)



生没 : 594~661 

在位 : 655~661

和風諡号 : 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)



孝徳天皇のあと,皇極(こうぎょく)天皇が重祚(ちょうそ)
中大兄(なかのおおえの)皇子(のち天智天皇)が皇太子として国政にあたる
阿倍比羅夫に蝦夷(えみし)や粛慎(みしはせ)を討たせ,朝鮮半島に百済(くだら)救援軍を派遣する(663年白村江の戦いで敗れる)

斉明天皇7年7月24日遠征中の九州朝倉宮で死去。68歳。

陵(みささぎ): 越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)
奈良県高市郡高取町大字車木






第38代 天智天皇 (てんじてんのう)



生没:626-672

在位:668-672

和風諡号:天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと )
*一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ )として知られる


天智天皇は、名を葛城皇子といい、皇位継承者とされたときに中大兄皇子と称した

中大兄皇子には異母兄弟の古人大兄皇子がおり、古人大兄皇子は、645年の大化の改新の際の政変(「乙巳の変(いっしのへん)」)のときに吉野へ逃れ出家したがのちに謀反のかどで中大兄皇子の兵に捕らえられ殺された

中大兄皇子にとって蘇我本宗家の蘇我入鹿の暗殺に次ぎ、皇位継承の最大のライバルを葬ったことになる

661年に斉明天皇が崩御したがその後も皇太子のまま(称制)政務をみた

朝鮮半島の百済を救援するため斉明朝のときに派遣されていた百済遠征軍を阿倍比羅夫らに命じこれを救援させたが、663年白村江(はくすきのえ・「はくそんこう」ともいう)の戦いで倭国軍と百済軍は唐・新羅連合軍の大攻勢を受けて大敗北した

白村江の戦いに敗れた天智朝は国防を重視して、対馬・壱岐・筑紫に防人(主として東国の兵士を徴発したと考えられている)を設置した

また、九州福岡の大野城と大宰府の境界に堤防を造り水を注ぎ(水城)外敵に備えた


中大兄皇子は667年大和の飛鳥から近江大津に遷都し、668年に即位して天智天皇となった

皇后には古人大兄皇子の遺児倭姫とした

のち669年に中大兄皇子の補佐をし政策全般にわたって関与し、「白村江の戦い」で敗れて緊迫した国内情勢を引締め、大化の改新を推進し律令制の基礎を築いた中臣鎌足が死去した

この臨終のとき天智天皇は大織冠を賜え藤原姓を名乗ることを許した

天智天皇は律令の整備に力を入れ、律令制度による中央集権国家制度を目指したとされているが、「近江令」の成立には疑問視されている

天智天皇のもとで民の掌握のために日本最初の戸籍とされる「庚午年籍」(こうごねんじゃく)が670年に作成された


天智の晩年に皇位につくことを迫られたといわれる同母弟の大海人皇子が吉野に出家するなど「壬申の乱」が芽生えていた


671年に近江大津宮にて崩御する

陵 : 山科陵(やましなのみささぎ)
京都府京都市山科区御陵上御廟野町




公式形式は上円下方(八角)
考古学名は御廟野古墳


第39代 弘文天皇(こうぶんてんのう)


生没:648~672

在位:671~672


大友皇子、伊賀皇子ともいう

天智(てんじ)天皇の嫡皇子

母は伊賀采女宅子娘(うねめやかこのいらつめ)

皇后は天武(てんむ)天皇の皇女十市(といち)皇女で、葛野(かどの)王を生む

夫人に藤原鎌足女(かまたりのむすめ)耳面(みみも)刀自がある

671年(天智天皇10)太政(だいじょう)大臣に任ぜられた

最初の太政大臣である

当時皇太弟として大海人(おおあま)皇子(後の天武)があり、天智は自分の死後、この2人の間に皇位の争いが起こるおそれのあることを懸念していたと察せられる

天智は死のすこし前に大海人に譲位を申し出たが、大海人は固辞し、出家して吉野山に入った

671年12月3日天智は崩御し、大友は大津宮で即位したと推測される

1870年(明治3)弘文天皇と追諡(ついし)された

672年(弘文天皇1)6月壬申(じんしん)の乱が起こり、大友は敗れて7月23日に山前(やまさき)で自殺した


天皇は体格堂々として性格ははっきりして悟りが早く、古の学問に広く通じ、詩文に巧みであった

『懐風藻』に詩2編が残っている



陵所:長等山前陵




第40代 天武天皇(てんむ)


在位:673年3月20日 - 686年10月1日

和風諡号:天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)


天武天皇は、大海人皇子といい、父舒明天皇、母皇極・斉明天皇で中大兄皇子(天智天皇)とは同母兄弟にあたる。
大海人は天智朝を補佐し、また皇位継承者としても有力視されていたが、672年天智天皇の崩御後、大海人皇子は鵜野讃良皇女、草壁皇子、高市皇子、大津皇子らと吉野を脱出して、天智天皇(中大兄皇子)の子の大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷側と対立した。
この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という)。
この後飛鳥に入り飛鳥浄御原宮を造営して673年に即位して天武天皇となった。
天武天皇は、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」をめざし、律令制による中央集権国家の建設に力を注いだ。
「大舎人の制」「考選の法」「親王・諸王十二階、諸臣四十八階の新冠位制」を定め、684年には「八色の姓」を定めて朝廷における身分秩序を確立した。

さらに、天武朝に至って天皇の地位の絶対化、神格化がはかられ、「大君は神にし坐せば」で始まる歌が万葉集に収められたが、次第に「現人神(あらひとがみ)」となっていった。
681年皇后以下の臣に「飛鳥浄御原律令」の編纂を命じ、さらに「定紀」「旧辞」の再検討を命じた。
その一方外交では、新羅との国交は保持したが、唐との国交は断絶した。
686年病を得て、改元や誓願のかいもなく没した。

陵(みささぎ):檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)

奈良県高市郡明日香村大字野口



公式形式は上円下方(八角)
考古学名は野口王墓古墳

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